ソナタ16番

増田朋美

ソナタ16番

暑い日であった。エアコン無しでは無理だなあとか、このままだとまた旱魃が起こるのではないかとか、そういう不吉な予言ばかりが舞い込んでくるが、いずれにしても、辛い季節であることは間違いなかった。その中でもなんとか楽しみを見つけて、生きていかなければならないと思い込んで生きているのが今の姿だと言うことかもしれなかった。

その日も、杉ちゃんが、水穂さんにご飯を食べさせようと躍起になっていた。相変わらず、夏というか、どの季節でもそうだけど、水穂さんはご飯を食べようとしてくれないものであった。ほら食べろと言いながら、水穂さんに、ご飯の入ったスプーンを渡そうとしたが、水穂さんは口に入れても咳き込んで吐き出してしまうのであった。ちょうどそのとき、柳沢裕美先生が、水穂さんの薬を渡しに来てくれていて、咳き込んでしまう水穂の体を擦ったり、叩いたりして、世話を焼いてくれているのであった。水穂さんの口元から赤い液体が漏れてくるのを、柳沢先生が拭き取ってくれてたりしていると、

「こんにちは。藤井です。藤井督です。今日は、お客様というか、相談したいことがございましてこさせてもらいました。ちょっと上がってもよろしいですか?」

と、藤井督さんこと、ピー助さんが、製鉄所にやってきた。

「ああ良いよ。入れ。」

と、杉ちゃんがいうと、お邪魔しますと言って、ピー助さんは部屋に入ってきた。

「今日はこの女性と一緒にこさせてもらいました。名前はえーと、山下、」

「山下真美と申します。」

と、女性は、静かに頭を下げた。

「山下真美さん。どこかのタレントみたいな名前。それでは、何の相談に来たのかな?」

杉ちゃんが彼女に言うと、

「ええ、実は、どうしてもピアノで弾きたい曲がありまして。それで、楽譜屋さんに聞いても、海外通販でしか手に入らないと言われて。それでは、戦争のせいで、いつまでも手に入らないということですから、それを藤井先生に相談しましたところ、こちらであれば貸してくれるのではないかと言われたものですから、こさせていただきました。」

と、山下さんは答えた。

「はあ、何を探しに来たのかな?」

と、杉ちゃんがいうと、

「はい。一度やってみたかった、ゴドフスキーのカプリチオです。」

そう彼女は答えた。

「カプリチオ?ああ、あの、小品集作品15の中の一曲ですね。しかし、比較的簡単な方とはいえ、そんな難しい曲を、女性がやりたがるというのは、難しいものですね。有名人でも、ゴドフスキーにチャレンジしたのは男性ばかりです。悪いことはいいませんから、やめたほうがいいですよ。無理をすると怪我のもとですからね。」

と、水穂さんが静かに答える。

「みんなピアノを演る人は口を揃えて女の子はやめろといいますけど、どうしてそうなんですか?」

山下さんは聞いた。

「そうですね。まず初めに、難易度が高すぎますからね。女性には、12度の音程を取るのも難しいでしょう。基本的に、手が大きな人でないと引けないのですよ。それに音が六個もある和音の連発、32部音符の連発など、女性には弾けない要素が多すぎますよ。有名なピアニストでも、演奏できた人は、みんなジャイアント馬場くらいの体格のいい人たちです。そういう人でなければ弾くことができません。」

水穂さんがそう説明すると、

「いや、いいんじゃないの?最近では女でも男勝りの体格の女性もいるんだし。」

杉ちゃんが反論した。

「もちろん、体格が違うことはわかるんだけどさ。だけど、これは演らせてあげてもいいんじゃない?彼女だって、少なくとも身長は5尺と四寸くらいはあるだろう。ちょっと手を見せてみろ。」

山下さんは右手を差し出した。杉ちゃんが水穂さんの手と比べてみると、さほど変わらない大きさだった。

「ほら、大丈夫だ。水穂さんとそんなに変わらないじゃないか。それなら弾けると思うよ。だからさ、しばらく山下さんに楽譜を貸してあげればいいじゃない。」

「別に、完璧にひけなくたっていいんです。あたしはただ、弾いてみたいと思っただけですから。お願いします。本当に短時間だけでいいですから、楽譜を貸してください。」

山下さんは、水穂さんに頭を下げた。

「そうなると余計にかせなくなりますね。世界一難しい作曲家という以上、気軽に弾いていい加減な演奏で済ませてもらいたくありません。」

水穂さんがそう言うと、

「でも、やってみたいと言うんだったら、やってみたら良いのではありませんか?今はいろんなアマチュアの演奏家が、気軽に動画サイトなどにアップできる時代なんだし、それでやってみても良いと思いますよ。それに、プロのピアニストだって、完璧には弾けないでしょ。それなら、同じことじゃありませんか。」

ピー助さんが水穂さんに言った。

「そうかも知れませんが、そういうことであれば余計に貸したくありません。すぐにできない作曲家だからこそ、気軽に弾いてもらいたくないんです。ベートーベンだって、非常に奥の深い作曲家でもあるわけで、すぐに簡単に弾けるような人では無いんですよ。そういうわけですから、クラシック音楽というのは、気軽に気晴らしのつもりで弾くものではないんです。」

そういった水穂さんは、もう疲れてしまったらしく、咳き込んでしまった。一緒にいた柳沢先生が、もう横になったほうが良いと言った。水穂さんは、ごめんなさいと言って、布団に横になった。

「水穂さんも、ちょっと考えに固執しすぎだと思います。確かにクラシック音楽は気軽に楽しめるものではないですけれど、でもやってみたいと思ったからというのは、尊重しなければならないと思いませんか。それなら、貸してあげるべきだと思います。」

ピー助さんは、そういったのであるが、柳沢先生が、

「藤井さん、あまり患者さんに負担をかけてはなりませんよ。」

と言ったのでそれ以上言えなかった。

「ピー助さんから少し聞かされていましたが、大変な病気なんですってね。」

不意に山下さんがそういうことを言った。

「はあ、それが何だ?」

と、杉ちゃんがいうと、

「じゃああたしのことも病気として扱われないのかな?あたしだって、もう再発しないとは言われているものの、ちょっとしたことですぐ再発しないかって、ビクビクしながら生活してるんですよ。」

山下さんが、そう呟いた。

「つまりお前さんもなにか体調を崩したのか?」

杉ちゃんがいうと、

「あたし、子供の頃に、卵巣腫瘍にかかってしまいまして、もう結婚もできないと言われてるんです。だから他に生きがいを見つけたくて、親に頼んで音楽学校に行かせて貰って、それで生活するようにしているんですけど。」

山下さんはそういった。

「そうなんだね。って言えないなあ。確かにそれは、女性に取っては痛手だろうね。だけど、それを武器にしていきるというのはちょっと違うと思うぞ。もちろん、普通の人がしているようなことはできないから、音楽をしたいと言う理由がある人はいるが、それを武器にして、同情を買おうというのは違うんじゃないか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「同情なんて、そんな事思いませんよ。ただ、いくら良性の腫瘍だから大丈夫って言われてもですね。またあのときのような経験は二度としたくないので、一日一日を大切にして、やりたいことは思いっきりやろうって考えているだけですよ。それはいけませんか?」

山下真美さんは言った。

「良性の腫瘍といいますと、例えばどういうものですかな?いろんな種類があるけれど?」

と、柳沢先生が聞いた。

「はい、奇形腫というやつだったと思います。腫瘍は腫瘍でも、体の一部と同じ物があるって先生が言ってましたことをよく覚えております。人間になり損なった細胞が、腫瘍化したものだとか。あたし子供だったからわからなかったけど、でも、後で調べてそういう事ちゃんとわかりました。だから、また再発するんじゃないかって、ビクビクしながら暮らしてるんです。それと同時に、やれることはちゃんとやろうって、心に決めて、本当にやれることをしようって決めて生活しています。だから、変に軽い気持ちでやろうとはしていません。先生が、クラシック音楽は軽い気持ちでやるもんじゃないって言うけれど、あたしは、ちゃんとやろうと思ってますから。」

山下さんは、そういったのであった。

「そうなんですね。そういうことなら、ゴドフスキーはやめて、他の作曲家にしたら良いと思います。世界一難しい作曲家に女性が挑戦するのは、無謀なことです。他にも、知られていない作曲家で難易度の高い人はいっぱいいます。それを、頑張れば良いと思います。」

と、水穂さんは言った。

「そうですか。やっぱりだめですか。」

山下さんは残念そうに言う。

「ええ。無理なことは、無理だと思います。女性は、男性の生き方を真似しないほうが良いと思いますよ。女性だからこそできることもあるんじゃないでしょうか。」

水穂さんがそう言うと、

「私には女性だからこそできることがもうできなくなってしまいました。」

と、山下さんは言った。

「いや、それだけじゃない。色々あるじゃないか。女性であればできることって、本当にたくさんあるんだから。男にはできない、細やかなことも、色々できると思うよ。それはすごいことでもあるんだぜ。それは、女性ならではだ。それは、ちゃんと考えて生きてくれよな。お前さんは、ピアノ教室とか、そういうものをしているのかなあ?」

杉ちゃんがいうと、山下さんは、小さな声でハイと答えた。

「別に世界的なピアニストを目指さなくても、地方のピアノ教師で、ものすごいピアノが上手いやつは結構いる。そういうやつを目指して、頑張れば良いんだ。そしてお前さんだからできることを見つけてだ。それで頑張れば良いんだよ。むやみに、世界一難しい作曲家に挑戦しようなんて、考えなくたってお前さんの花はちゃんと咲くから。大丈夫だよ。ははははは。」

杉ちゃんの言い方は確かに乱暴なのであるが、みんなの気持ちを代弁するものであった。水穂さんが布団に横になったまま、小さくため息をついた。

「僕は弾かせてあげても良いのではないかと思うけど、、、。まあ、ピアニストではないから、ピアノの難しさはあまり知らないからな。少なくとも、磯野さんが、そういうのであれば、すごい難しい作曲家であることも間違いないのでしょう。」

ピー助さんがそう言うと、山下真美さんは、ちょっと考え込むような顔をして、

「あたしにできることって何でしょうね?もう女性の特権はなくなってしまったんですよ。月のものもなくなってしまったんです。それなのに、女性らしくなんとかなんてどういうことですかね。うーん思いつかないなあ。」

というのであった。

「そのうちわかってくるさ。」

と、杉ちゃんが言った。

「まあとりあえず、無謀な挑戦はしないことですね。女性にできることは、いくらでもあるんだし、男性の真似をしないほうが良いってことですよ。」

水穂さんが静かに言った。とりあえず、ゴドフスキーの楽譜は借用しないで帰っていったのであるが、水穂さんは帰っていくピー助さんと山下真美さんを、ホッとした様子で見つめていた。多分、女性が世界一難しい作曲家にチャレンジしようというのは、ちょっと困っていたのだろう。

それから数日後のことであった。杉ちゃんたちは、何も変わらないまま、日常生活を過ごしていた。また水穂さんが、ご飯を食べないで、杉ちゃんがそれを無理やり食べろと催促をするという日々が続いていたのであるが、、、。

「あのすみません。磯野水穂さんはいらっしゃいますか?」

と、女性の声が聞こえてきた。誰だろうと思ったら、先日製鉄所を訪ねてきた女性、山下真美さんであった。

「どうしたの?一体なにか用があったのか?」

応答した杉ちゃんがそう言うと、

「ええ、実は、ちょっと磯野さんにお願いしたいことがありまして。」

と、山下さんは言った。それと同時に、もうひとりの女性が、足をよたよたと引きずりながら、製鉄所にやってくる。

「山下さんこのひと誰だ?」

杉ちゃんがいうと、

「はい。畠山さんといいます。私のところに長年来てくれている生徒さんなんですけど。」

山下さんはそういった。

「畠山さん?」

杉ちゃんがいうと、

「畠山恵理子と申します。よろしくお願いします。」

そう彼女は、丁寧に頭を下げるのだった。畠山恵理子さんと名乗った彼女は、本当に、山下さんのところに来ているのかどうか疑問に思うほど、みずぼらしい雰囲気のある女性であった。

「本当にこいつが、ピアノなんか習っているのかなあ?」

と、杉ちゃんが言ってしまうくらいだ。

「それで、今日はどうされたのですか?どうしてこちらの女性をここに連れてきたのでしょうか?」

と水穂さんが聞くと、

「ええ。彼女の演奏を見てやってほしいんです。」

と、山下さんは言った。

「はあ、そうなのか。とりあえず弾いてみてくれ。まあ、そんなみずぼらしい顔だと、ろくな演奏ができるとは思わないが、やってみてくれ。」

と、杉ちゃんがいうと、山下さんは、畠山恵理子さんに、ピアノを弾いてみてといった。畠山さんは、ピアノの前に座った。弾いた曲はモーツァルトのソナタ16番。ソナチネアルバムにも収録されている有名なソナタである。初心者のための小さなソナタともいうが、どうもそれは違うような気がする。

恵理子さんは、確かにみずぼらしい雰囲気の女性だった。それははっきりしている。大した美人でもないし、顔つきは自信がなさそうだし、服装だって、ただジャージ上下を身に着けているだけである。足はよたよた引きずっていて、ペダリングも少々不自由なところがあるようだ。最後まで弾き切れるかなと杉ちゃんが心配したが、彼女は四苦八苦して、ソナタ16番を全曲弾いた。

水穂さんが、静かに拍手すると、

「ありがとうございます。」

と畠山さんは言った。

「まあ良かったねえ。とりあえず全部弾くことができたじゃないか。それは、しっかりしていて良かったことだぞ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「それでは、まず初めに強弱をつけることから初めましょうか。えーと、すべての音がメゾフォルテくらいの音量になっていますので、それを、ピアノに置き換えることから初めましょう。」

水穂さんが指導者らしく言った。

「水穂さんは、褒めてくださらないのですか?」

いきなり、山下真美さんが言った。水穂さんがえ?と応えると、

「ええ、だから、褒めてやってほしいのですよ。彼女は、一生懸命やってきたんです。あたしたちはそれを褒めてあげたいから、彼女を、ここへ連れてきたんじゃありませんか。水穂さんにしてみれば、簡単な曲なのかもしれないけど、彼女は、一生懸命やってきたんです。そこをまず偉かった、よくやったねって、ねぎらってやってほしいんですよ。」

と、真美さんは答えた。水穂さんも杉ちゃんも、はあこれはどういうことかなあと言う顔をする。

「気が付かないんですか?水穂さんのような人であればわかってくださるのではないかと思ったんですが。あたしが、水穂さんにしてもらったことを、してくださらないなんて。」

と真美さんは話を続ける。水穂さんも杉ちゃんも変な顔をした。

「あたしは、水穂さんに、演奏を見てもらえたから、本当に感激して、別の人にも分けてあげようと思ったのに。それは、恵理子さんのような人にはしてくれないのですかねえ?」

彼女にそう言われて、水穂さんは少し考えたようで、

「そうなんですね。僕たちは、どうしても、演奏技術とか、そっちの方ばかり見てしまうのですが、女性ならではの細やかな視線で、彼女の演奏を褒めてあげることができるんですね。それは、あなたの特技ですよ。そして、それを、別の人に分けてあげられると言う優しさもある。それはすごいことじゃないですか。僕らにはできないことでもありますよ。」

と、真美さんに言ったのであった。

「だから、お前さんは、女であると言う能力は、なくなったわけじゃないじゃないか。お前さんは女性ならではのものをちゃんと持ってる。そういうことができるって、誇りに思ってもいいよ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「そうなんですか?あたしは、ただ、あたしがしてもらったことを彼女にもさせてやりたいと思いまして、それでお願いしたんですけど、それだけのことなのに、そういう事言うんですか?そんなことは誰でも思うと思うけど?」

真美さんは小さな声で言ったのであるが、

「まあ確かに最近のやつはドライだからね。なかなか他人のことで悩むやつはいないよな。そういうところは、普通の女よりももっと女らしいんじゃないか?」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。水穂さんも、

「そうですね。僕もそう思います。なかなか、偏見を持たないで、こうして連れてきてしまう人はいません。それはきっと、すごいことなんだろうなと思いますよ。」

と言った。

「じゃあ、それならもう一度弾いてみてください。もう一度弾いていただいたら、ちゃんとどこをフォルテで、どこをピアノにするか、ちゃんとお教えしますから。それでは、どうぞ。」

と、水穂さんがにこやかに笑った。畠山さんはわかりましたと言ってもう一度ソナタ16番を弾き始めた。水穂さんはところどころ演奏を止めて、もっと大きな音にしたほうが良いとか、そう指示を出した。それを眺めていた、杉ちゃんと真美さんは、

「やっぱり、専門家はすごいですね。餅は餅屋。本当にそう思いました。あたしが、下手に彼女に教えるよりも、ちゃんとやり方を知っている方にみてもらうのが、一番だわ。本当にありがとうございました。」

「いや、それは、お前さんがそういう細やかなところに気がつくからだよ。そういうな、普通の女よりもっと女らしいところ、お前さんも大事にしな。象徴を取っちまったけど、それが完全になくなったわけでも無いんだな。まあ、そういうことだ。頑張れ。」

と、二人で話をしていたのであった。






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ソナタ16番 増田朋美 @masubuchi4996

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