第56話
「あたしの婚約者のディヴィットを返しておくれでないか?あんた、グレンダって人なんだろ?」
御者はもちろん、医者も驚いた。
なんて尊大な態度。
なんて恥知らずな物言い。
グレンダは何も言わずしばらく女を見ていた。
何の感情も露わしていない目で。
それからついっと目を逸らすと、グレンダは医者と御者に微笑みかけた。
「先生、それからダグ。もし時間があるのなら、もう少しここにいてくれないかしら?」
「それはもちろん」
「俺も構いません」
二人は同意した。
グレンダは二人に微笑むと、すぐに表情を変えて女を見下ろした。
とても冷たい目だった。
御者はケープの大奥様もこんな目をするんだ、と妙に感心してしまった。
いつも微笑んでいて女神様のようだと思ってたが、やっぱり人だったんだ、と、そう思ったのだ。
「あなた、名前は?」
「リタ。クロニングのリタだよ」
「そう………リタ、御入りなさい。年寄りに立ち話は辛いわ」
グレンダはそう言うと踵を返し、率先して居間に向かった。
リタはニヤッと笑って石段を駆け上がり、医者と御者の間をすり抜けて家に入った。
「ダグ、私達も行った方が良い様だね」
医者は御者を促し、二人は居間に向かった。
居間に入った時、リタはグレンダの向かい側に座り、きょろきょろと居間の中を物珍しそうに見ていた。
医者はグレンダの隣に座り、御者は己の立場を弁えて帽子を両手で持ち、戸のすぐ傍に立っていた。
さて、とグレンダが口を開いた。
「結論から言うと、リタ。家にディヴィットという人はいません」
リタは目を剥いた。
「そんなはずないよ。あの人の行く宛はスタッフィードのグレンダの所しかないはずなんだ。あんたがそのグレンダなんだろ?随分と裕福な人だって聞いたよ」
スタッフィードにグレンダは何人もいるだろう。
だが、“裕福なグレンダ”はグレンダ・ケープ以外にいない。
グレンダは頷いた。
「確かに、その通り。ディヴィットという男も訪ねてきました。あれは……まだ冬の最中だったと思うわ。クリスを……ぁあ、彼が会いたがったのは、家にいるクリスの双子の兄、クリストファーの事なんだけれど、残念な事にクリスはもう家にはいなかったのよ。だから早々に帰って行ったわ」
リタはばね仕掛けのおもちゃのように立ちあがった。
医者は慌てて腰を浮かしたし、御者も帽子をとり落とした。
だが、グレンダはリタの動きに会わせて顔を上に向けただけ。
部屋の中でグレンダだけが落ち着いていた。
「嘘をお言いでないよ!」
リタは叫んだ。
「この家にディヴィットがいる事はちゃんと分かってるんだ!」
「えぇ、いますよ。ディヴィットという名の犬が。あなたも見たでしょう?クリスの傍にいた、大きくて黒い犬」
リタは目を見開いた。
そして。
上から吊っていた糸が切れた様に、すとんっとソファに座った。
医者は座りなおした。
御者は帽子を拾って、付いてもいない埃を叩いた。
リタは目をうろうろと泳がせた。
「あたし………そんな………トッドが言ったんだよ……あいつがあたしに嘘を吐いて……」
「そのトッドさんとやらが嘘を吐いたかどうかは分からないけれど………」
グレンダはリタを見た。
「その人は“ディヴィット”がこの家にいるのかどうか聞いて回ったのではないかしら?あの犬の名が“ディヴィット”だという事を知っている人は少ないと思うけれど、隠している訳ではないから」
「確かに私も知っていますよ。クリスさんが可愛がっていらっしゃる犬の名をね」
医者がグレンダの言葉を後押しした。
リタは何かに気付いたように顔を上げ、きっ!とグレンダを睨んだ。
「どうしてそんな紛らわしい事をしたんだい?わざわざディヴィットの名を犬に付けて……あたしを罠にはめるつもりだったんだね?!」
グレンダは一瞬あっけにとられた様に動きを止めたが、すぐにぷっと噴いた。
そのままくすくすと笑う。
「なんだい、なんだい?!何がおかしいってんだよ?!」
リタはいきり立った。
また医者も御者も身構える。
「あなたの仰っている事が余りにも可笑しいからよ、リタ」
グレンダは息を整えて、姿勢をただした。
「あの犬は庭に入りこんで来ていたのを拾ったのよ。飼おうと決めて名前を付ける時に思い出したの。2、3日前に尋ねてきた黒髪の男の事をね。そしてその名を付けた。ただそれだけなのに、あなたを罠にはめるだなんて………第一、あなたが家に来る事を私が想像できたと思うの?」
「それは………」
リタは口ごもる。
グレンダはリタの言葉を待った。
だがリタは目を泳がせるばかり。
「リタ、私から少し質問しても良いかしら?」
「な、なんだっていうんだい?あたしは話さないよ」
リタは精一杯の虚勢を張ろうとした。
グレンダはそれを気にも留めない。
「あなた、何故そんなドレスを着ているの?ここは教会ではなくてよ」
リタはグレンダの皮肉に気付く事なく嬉しそうに笑った。
「素敵なドレスだと思わないかい?あたしにぴったりだって、そう思うだろ?」
リタは飛び上がるように立ちあがると、その場でくるりと回って見せた。
どうやら相当にドレスを気に入っているらしい、と医者も御者も思った。
グレンダはじっくりとそのドレスを見て、それからおもむろに頷いた。
「えぇ、素晴らしいドレス。随分と値も張った事でしょうね?」
5~6年前に若い娘達の間で流行った型の花嫁衣装だ。
グレンダの友人の娘がこれと似たような衣装を着て教会で式を挙げたのを覚えている。
なかなか良い値だった、と友人がぼやいていた。
型は古くなったが、刺繍やビーズで飾られたドレスは今でもそこそこするだろう。
「分かるかい?」
リタはソファに戻ると、身を乗り出した。
「お姫様みたいなドレスを着る事があたしの夢だったからね。ディヴィットが戦場から帰って来るって分かってから、あたしはドレスを買ったんだよ。あたしにぴったりの、お姫様の様なドレスをね」
前々から目を付けていたドレスだ、とリタは得意げに話した。
「そりゃ高かったさ。あたしの村では3年かけても誰も稼げないくらいにね。でもディヴィットは戦場でそれを稼いで来るってあたしに約束したんだよ。少し時間がかかっちまったけど、金貨を持って帰って来た」
そこでリタの顔が曇った。
「でも、残念な事に金貨は足りなかったんだよ。どころか、半分しかなかった。あの人なら稼いで来れると思っていたのに。でもその時にはこのドレスを家に持って帰って来てたからね。ディヴィットは足りない分をどうにかして店に持って行かなくちゃならなくなった」
「それで、どうしたの?」
リタはソファに身を投げ出した。
「どうもこうもないよ。あたしはもう一度戦場に行けって言ったのに、あの男、行かないって言うんだよ。そんな男とは結婚出来ないって言えば、じゃぁ結婚しなくていい、だなんて………あり得ないと思わないかい?」
医者と御者は、そんなリタの考えを、あり得ない、と思った。
男は戦場で命を危険にさらし金貨を運んで来たのに、足りないからまた行け、だなんて。
一体この女は何を考えているんだろう?
金がないなら結婚しないと言ったリタに対して、結婚しないと言った男の気持ちが二人には良く分かった。
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