第55話
その夜。
御者は酒場で大勢の聴衆相手に自分の体験談を話した。
「ぃやぁ、驚いたの何のって。ケープの大奥様が玄関を開けた途端に、お嬢さんが倒れなすったんだから。大奥様も慌ててな。俺?俺はもちろん石段を駆け上がりお嬢さんを支えたさ。……うるさいな。黙って見てたんじゃねぇよ。腰も抜かしてねぇ!茶化すならもう話さないぜ」
御者は聴衆の言葉に腕を組み、へそを曲げたようなふりをした。
聴衆は、黙って聞くから、と御者に先を話すようねだる。
御者はしょうがねぇなぁ、と言いながらも、話したくて堪らなかったので、みんなの方に身を乗り出した。
「俺はお嬢さんを抱き上げて扉を入ってすぐの所にあったソファに横にした。お嬢さんはぐったりしてた。俺は大奥様に言われて医者を呼びに行ったんだ。そりゃぁもう、走ったぜ。ぃや、馬車で行ったんだがな。医者を連れて戻ると、お嬢さんはまだ同じ所にいなすった。ぃや、目は覚まされていたが、大奥様に支えられて座ってるのが精一杯のようだった。足元に犬がいて、お嬢さんを気遣うように、くんくん鳴いてたなぁ」
御者はその時のクリスを見て、ゴーストのようだと思った、と話した。
「血の気がないってのはああいうのを言うんだな、うん。俺はお譲さんを抱えて部屋に運んだ。医者はお嬢さんを診て、何か薬を飲ませた。お嬢さんはじきに寝息を立てるようになった」
「医者の診立ては?」
「強いショックを受けたので、心臓が飛び跳ねたんだろうってさ。ぃや、それはしょうがねぇと思うぜ」
どうしてだ?という声に御者は呆れたような顔をする。
「お前らも知ってるだろ?ケープのお嬢さんがあの大きな犬を可愛がってる事をよ。犬だってお嬢さんに懐いてる。お嬢さんはあの犬を取られるとお思いになったんだよ。それにお前らは知らんだろうが、上流階級のお譲さんってのは繊細なんだ。それなのにいきなり蓮っ葉な様子の女に声をかけられてみろ。腰も抜かすし、血の気も失せらぁな。それにな」
御者は続ける。
「その女ってのが、年の頃はにじゅう…2、3ってとこか。こう、赤い髪を逆立ててな。目を吊り上げて真っ赤な唇で……鬼女かと思ったね、俺は」
「大げさだろ?」
「話し大きくしてんじゃないぞ」
聴衆の茶々に御者は頭を振った。
「大げさなんかじゃねぇ。その女、普通にしてりゃ美人だ。そりゃもう振り返ってみる程の、な。でも、動くとダメだ。田舎もんなんだろう。話し方も知らない様な山出しの粗野な女だ。しかも、だ」
御者は一旦口を閉じ、聴衆の耳を思う存分惹きつけてから口を開いた。
「その女の恰好がな、ぼろぼろのマントの下には金ぴかな花嫁衣装着てんだよ。上流階級の、それこそケープのお嬢さんが着ても良い様な立派なドレスだ。時代遅れなのが少々残念だが、あぁ、そりゃ立派なもんだった。どう考えても普通じゃねぇだろ?それが早足で門からこっちに向かってやって来るんだ」
聴衆は懸命に想像した。
だが、御者が最初に言った“鬼女”が頭について離れない。
彼らの頭の中で子どもの頃に絵本で見た“鬼女”が婚礼衣装を着て立っている絵だ。
近づいて来るにつれ、耳まで裂けた真っ赤な唇から白い牙が見える。
長く尖った爪がぎらりと光る。
恐ろしく怖い。
聴衆のうちの数人は胴震いした。
「そら、恐ろしそうだな………」
誰かがぼそっと呟く。
御者は大きく頷いた。
「あぁ、実際に見た俺も恐ろしかった。お嬢さんが倒れたのはムリねぇんだ」
聴衆はクリスに同情した。
が、一人が気付く。
「で?その女はお嬢さんが倒れた時、何してたんだ?」
「あぁ、女は動かずに見てたよ。俺が馬車に乗って医者を迎えに行った時も、戻ってきた時も。ずっと同じ場所にいた」
「どんな様子だった?」
御者は少し考えた。
「そうだなぁ……何っていうか……ざまぁみろって、そんな顔してたな。うん、そうだ。だから俺はやっぱりこの女は普通じゃないって思ったんだ」
「それで?その後どうなった?大奥様と女が会ったんだろ?」
御者は喉を潤す為か、それとも仕切り直しの意味を込めてか、ゴブレットの酒を飲んだ。
「お嬢さんが眠りなさったんで、俺は医者を家に送るよう大奥様に言い付かった。俺達は玄関の扉を開けた。そしたら女はまだいたんだ。俺は驚いてね。でも女は悪びれた風もない。石段の下から大奥様を睨みつけてな、こう言った」
聴衆はゴクリ、と喉を鳴らした。
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