本編

旅立ちの時

第3話


はぁ、とクリスは息を吐いた。


「ねぇ、ママ。どうしても行かなければならないの?」

「当たり前じゃないか。グレンダ伯母様があんたの呪いを解く手立てを考えて下すったんだよ」


母親はクリスの目の前に服と革袋を差し出した。

クリスは裸のまま、それをうんざりした目で見た。

ママの持っている服は新しいものだわ、とクリスは思う。

どうせ新調してくれるなら、ドレスが良いのに。

きっといつもの服は洗濯され革袋の中に入っているんだろう。


「ほら、これを着て。旅立ちの日は今日だって、伯母様が仰ってたんだ。何処に向かうべきかって事も教えて下すった。ありがたい事じゃないか」

「でも、ママ。私、今のままでもちっとも構わないのよ。パパとママとリンダとメリッサとピーターとずっと一緒にいられるんだもの」


一枚ドレスを作ってくれたら他にはもう何もいらないから、とクリスは懇願した。

いられる訳ないじゃないか、と母親は頭を振った。


「私もベンジャミンもあんたより先に死んじまう。下の妹達は嫁に行くだろうし、ピーターは嫁に取られる。あんたは一人っきりになるんだよ」

「嫁に行くなんて決まってないでしょ?」

「見て分からないのかい?リンダはボブに夢中だし、メリッサも最近色気づき始めてる。あの二人は嫁に行くよ」


母親はクリスを呆れたように見たが、すぐに己の言葉の棘に気付いた。


「あぁ、ごめんよ、クリス。そんなつもりじゃなかったんだよ」

「分かってる」


クリスはムリやり笑顔を浮かべた。

“恋心”を持たないクリスは、他人の恋心にも疎かった。

リンダとボブの事も、仲が良いな、とは思っていた。

だがそれが“恋”だとは、今、母親に教えてもらうまで分かっていなかった。

母親はちょっとだけバツが悪そうな顔をしたが、やがて、口を開いた。


「今日旅立てば、あんたもそう言う気持ちが分かるようになるんだよ、クリス。確かにこのまま家にいれば、困る事は少ないだろうと思うよ。でもね、“恋”を知らないまま一生を送るのはもったいないよ。そりゃ、相手のある事だ。思い通りにならなくて悲しい事も辛い事も多い。でもそれ以上に嬉しかったり楽しかったり、心弾む事が多いのが“恋”なんだよ」


母親はクリスが幼い頃から何度も話して聞かせた事を口にした。


「周りが見えなくなって、相手の事しか考えられなくなって、自分が自分じゃなくなる様な、そんな体験は“恋”する事でしか出来ないんだよ。グレンダ伯母様はあんたに“運命の人”と必ず出会えるよう魔法をかけて下すった。その“運命の人”とやらとあんたがどんな“恋”をするのか、それは分からない。成就するのか失恋するのかは、あんた次第だって伯母様は仰っていたからね」


母親が言った事は少し違う、とクリスは思った。

“運命の人”はクリスに“恋心”を取り戻させる、とグレンダは言ったのだ。


その人と恋に落ちるのか分からない。

そもそも男か女かも分からない。

ただその人と会えばクリスは恋心を取り戻し、恋を知るようになる、と言うのだ。

残念な事に“運命の人”は訪ねてきてはくれない。

クリスが自分から探しに出なければならないのだ。


これはグレンダが意地悪な訳ではなく。

グレナダのかけた魔法を打ち消す事はグレンダにも難しく、これが精一杯だった。

だからクリスは、幼い頃から旅に出ることを前提に様々な事を学んだ。


一言で言えばサバイバル術。


野宿の仕方や野外での調理法。

食べられる野草や、薬草の知識。

狩りの仕方に身を守る術。

持たぬ者達と同じ方法で出来る様にそれらを身に付けた。


もちろん魔法を使えばそれらは簡単に出来る。

だが魔女狩りが今も流行っている村の外で、魔法を使う事は出来るだけ避けるべきなのだ。


そして今日。


旅立ちの日を迎えた。


ママは何としても私を旅立たせたいんだ。

クリスは小さく息を吐いた。

クリスは母の言うような体験をしなくてもいい、と思っている。

グレンダの気持ちはありがたいが、グレナダの気持ちも何となく分かるから。

きっと、とても辛い経験だったに違いない。

想像する事も出来ない様な辛い体験など、誰が好きこのんでしたいというのか。

それでも自分の気持ちに関係なく落ちてしまうのが恋だというのなら、それを体験せずに過ごせる私は幸せなのかも、とも思う。


それに、とクリスは母親が差し出した服を見る。


シャツにズボン。

肌着に帽子。

真新しいそれは男物の服だった。


女の一人旅は危険だ。

それは魔法使いであってもなくても同じこと。

だからクリスは男装して旅に出なければならないのだ。


クリスはそれが嫌だった。


なにしろ男装するにはまず胸を隠さなければならない。

布を何重にも硬く巻いて“豊かな胸”を“厚い胸板”に変えなければならない。

同じ様に腰回りにも巻いて、くびれを消さなければならない。

母親は慣れる為だ、と言って、クリスにドレスを作ってくれなかった。

もちろん毎日着ていても、あの苦しさに慣れはしない。

それを思うだけで、クリスはため息を吐きたくなる。


その苦しさから逃れるために部屋にいる時は裸かシャツを羽織るだけ。

で、いつも母親に怒られていた。

旅に出たくない、このまま家にいたい、と思う。

出発しなかったら、ママも諦めてドレスを作ってくれるはず。

リンダのドレスをこっそり着せてもらう事もなくなるのだ。


でも。


目の前にいる母の目は、行ってくれ、と懇願している。

台所にいるだろう父も、同じ気持ちのはずだ。

旅に必要な様々を教えたのは彼なのだから。


クリスは両親が大好きだった。

それにグレンダ大伯母は魔法をかけてくれただけでなく、クリスの父がクリスに付ききりでいられるよう経済的な援助もしてくれた。

それはグレンダが自らのミスを悔いている事を意味していた。


みんながクリスの旅が上手くいく事を祈っている。


そんな彼らを失望させたくない。


クリスは覚悟を決めると、布を手に取った。

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