第十七話 衝1号作戦 1
インド洋で活動している潜水艦がイギリス海軍の増援を確認したとの情報が私にも伝わってきたのは、潜水艦が情報をくれてから1週間ほど経ってからだった。その頃の私と言えば横須賀で扶桑を降りて短いながらも陸で休養を撮っている最中だった。
イギリスとの戦争と言っても本土に戦火が及ぶわけではないので本土の雰囲気は日常と変わらなかった。まるで戦争をしているのが嘘のようだった。
しかし既に戦場となった東南アジアでは日本人もイギリス人も等しく平等に亡くなっていた。
お祭り騒ぎのような喧騒の中でも、何処かで誰かが泣いているのだ。
しかしそれをいちいち気にしたところで他人でしかない新堀に何かができるはずもなく、結局は祖国の浮ついた空気に耐えられずに横須賀鎮守府に戻ってしまったのだった。
帰ってきて早々、新堀を含めた艦隊の艦長たちは鎮守府の一角に設けられた作戦室へ召集がかけられた。
艦隊の司令長官である小野寺中将は不在であった。どうやら東京の赤坂にある海軍局に呼び出されていた。
そのためそこにいたのは副司令と参謀長の2人であった。
細い目をした参謀長が部屋に鋭く響く声で言った。
「先ほど新たな作戦が発令された。東南アジア一帯を制圧した我々は本来、補給整備を整えてインド洋の制海権を奪取する予定であった。だがインド洋で偵察活動をしていたイ号潜から情報が入った」
イギリス海軍はセイロン島の基地に東洋艦隊の残存兵力を集めていたが新たに戦艦と空母を含んだ大規模な増援が確認された。
そこで我々は予定されていた衝1号作戦を前倒ししこれよりインド洋に向かいセイロン島と敵艦隊を撃滅しインド洋の制海権を奪うつもりだ。
新堀はそれを聞きながら、すでに日本軍側が後手に回っているということをぼんやりと実感していた。
急遽の出撃。運の悪い事に天城と赤城は整備の関係でドッグ入りしていた。
第一航空艦隊はその主力たる航空戦力を欠いていた。
「当初我が艦隊は水上打撃艦隊に扶桑と山城を編入する」
「作戦参加艦艇はどうなっているのですか?本来なら第一航空艦隊は第二航空艦隊と共同で動くはずでしたが」
「参加艦艇は正式な作戦書類を渡す。それに従うように」
参謀長が新堀達に渡した書類の束を彼は一枚一枚ゆっくりと確認していった。
参加艦艇は水上打撃艦隊として戦艦大和、浅間、筑波、扶桑、山城の五隻を基幹とし、重巡洋艦妙高、那智、足柄、羽黒。第6、12、14駆逐戦隊の合計十二隻の駆逐艦で構成されていた。
そして航空戦力として第二、第三航空艦隊をまとめた空母艦隊が編成されていた。
こちらは航空母艦四隻、重巡洋艦四隻、軽巡洋艦四隻、駆逐艦十六隻。
戦艦伊勢と日向は本土に残留し予備兵力として温存する予定だそうだ。
第二航空艦隊の蒼龍と飛龍は艦載機数は50機とやや少ないが、第三航空艦隊の新鋭空母である翔鶴と瑞鶴は搭載機数が72機とかなりの数があった。これに臨時で軽空母龍驤が追加されていた。
龍驤は鳳翔と同じく練習空母になっていたが、開戦に合わせて練習空母から実戦部隊に復帰していた。
しかし空母としては小柄な龍驤では大型化した爆撃機や雷撃機などを搭載することは出来ない。
そこで龍驤は戦闘機のみを搭載する防空空母として運用されることになった。
それでも搭載機数は零式艦上戦闘機が24機であった。
「扶桑は水上打撃艦隊か。妥当だが大和と艦隊行動をしたことはまだなかったな」
新堀が今までやってきたのはあくまでも長門と陸奥を旗艦とした場合だ。大和は就役して日が浅く練度に不安が残っていた。
「ぶっつけ本番は戦争なら珍しいことじゃない。問題はそれを行う度胸さ」
珍しく新堀の愚痴に山城の艦長が答えた。
士官不足で無理やりに階級を上げさせられた新堀とは違い山城艦長である男は口髭を生やした筋肉質な顔つきの中年だった。
新堀とも何度か打ち合わせで話をしたことがある。どうやら前は潜水艦の艦長をしていたらしい。
「まあ大和が不安なら我々で支えるしかないな」
1941年4月5日、インド洋攻略艦隊は日本を慌ただしく出撃していった。
インド洋への入り口であるマラッカ海峡に艦隊が着いたのはその6日後だった。
そして日本海軍が潜水艦を送り込んで偵察しているように、イギリス海軍もまた潜水艦を送り込んでいた。
HMS潜水艦レギュラスはレインボー級潜水艦の三番艦として建造された艦艇であった。
1930年に就役したその艦は艦歴のほとんどを極東のシンガポール基地で過ごしていた。
そもそもレインボー級と言われる四隻の潜水艦は東洋艦隊で運用することを前提にイギリス海軍が建造した潜水艦だった。
その構造はオーディーン級潜水艦から大きく変わらないものの、本国から遠く離れた場所での活動のために船体はやや大型化しており居住性を考慮した設計になっていた。
その船体は現在マラッカ海峡のインド洋出口側の海中に没していた。
「リージェントからの定時報告は相変わらずありません」
通信士と小声で会話した副長が潜望鏡にもたれかかったまま2時間以上体勢を変えない艦長の元にやってきてそう言った。
海中と言えど艦内はバッテリーや人が放つ熱や二酸化炭素、臭気などで何もしていなくても既に船内の湿度は98%を超え気温も30度を下回ることはない。それが人を苛立たせる。
しかし艦長はその中でもまるでそれが何事もないかのように、黙って副長の報告を聞いていた。
「十中八九奴らがきたのだ。警戒を厳にしたまま待機だ」
僚艦であり元々シンガポール基地にいた頃からの相棒でもあった潜水艦リージェントは同じレインボー級に属する潜水艦だ。
今回は敵の制海権下に入ってしまったマラッカ海峡の反対側に展開し偵察任務を継続していたはずだった。
しかし定時報告として発せられる短い不調の電波は2時間前から途絶えたままだった。
哨戒機に見つかったかあるいは駆逐艦に捕捉されたか。
それだけであれば仲間が53名と一隻、失われただけとなるがもしそれが艦隊に捕捉されて失われたのだとすればそれだけではすまない。少なくとも十倍近い仲間の命が失われる。
故にレギュラスは夜の闇があと1時間で完全に失われるというにも関わらず潜望鏡深度まで浮上していたのだった。
「スクリュー音!まだ遠いですが複数の音を拾いました」
小さい声ながらも力のこもった声が発令所に響いた。
途端に艦全体が慌ただしく動き出す。
止まっていたスクリューが微かに動き、音の下方向にゆっくりと艦首を向けていく。
潜望鏡の景色は闇ばかりでほとんど見えない。それでも聴音員の報告を元に少しづつ潜望鏡の向きを微調整していく。
「……見えた。左舷2-3-4に駆逐艦、その奥に複数の艦影、詳細は確認できないが大型艦が5隻…いやもっとだ。日本艦隊のお出ましというわけだ」
まだ詳細を知るには近づかなければならない。しかし戦艦や空母を含む艦隊を相手にするのであれば近づくのは自殺行為とも言えた。特に日本海軍の対潜能力は第一次大戦でイギリスと共にドイツに散々苦しめられた経験から技量としてはほぼ同じと見ていいものだった。それを知っていた艦長は情報を確実に届ける選択をすることにした。その点が潜水艦リージェントの艦長と違うところだった。
「駆逐艦、進路転進。こっちに向かってくる」
同時に聴音員も駆逐艦の進路が変わったことを伝えてきた。
「潜望鏡格納、深度80まで潜る、ゆっくりとだ」
駆逐艦の速力は対潜行動中はせいぜいが5ノット程度だ。それ以上では自身の発するスクリューや機関の音で水中の音を捉える事ができなくなってしまう。故に進路を変えてレギュラスに向かってきたとしても彼らが隠れるだけの時間はあった。
「駆逐艦本艦の真上……通過します」
やがて艦長達にも頭上で回るスクリューの音が聞こえてきた。
潜っているとは言え頭上を通過するとなれば距離は80mもない。深度計は潜水艦の喫水からの深さを測る。故に1番突出している発令所や潜望鏡などは海水面から70m程度しかない。そして駆逐艦側も喫水線から下の部分は海中にある。両者の実際の距離は最も近くて60m程度であった。
その距離であっても捕捉されたりされなかったりするのだから潜水艦乗りとしては生きた心地がしない。
そして恐れていた事態が起こった。
「頭上に着水音!数4!」
聴音員の切羽詰まった声と艦長が指示を飛ばすのはほぼ同時だった。
「急速潜航!深度110!速力4ノット!」
スクリューが動き出し亀のような速度ながらレギュラスは動き出した。
四つのドラム缶のような形をした爆雷はゆっくりと沈みながらレギュラスの船体に迫ってくる。
直撃しなくても常に船体が水圧で締め付けられている潜水艦は近くで炸裂するだけでも致命傷になりかねない。
53名の乗員は必死になって祈っていた。
やがて爆雷が炸裂し衝撃と振動が後部からレギュラスに襲いかかった。
激しい振動で屈強な男達が薙ぎ倒され、赤く光っていた電球が点滅を繰り返した。
近いようで遠い位置での炸裂だった。あのままの位置であれば直撃していたであろう。
それでも無傷とは行かなかった。
潜望鏡に捕まって衝撃を堪えていた。艦長の元に被害報告が上がってきた。
「燃料が漏れてます!タンクに亀裂が発生した模様!」
レインボー級潜水艦は燃料タンクがサドルタンク式で船体の耐圧殻の外側に装備されている。そのタンクに破片が入り亀裂が入ったのだ。
中は隔壁で細分化されているがそれでも燃料が漏れて海中や海面に広がるのは避けられない。
位置が特定されてしまう可能性があった。
「1番魚雷発射管から衣類やゴミを放て!死んだふりだ!」
艦長は咄嗟に漏れた燃料を利用して轟沈したと欺瞞することにした。
1分かからずに魚雷発射管が開く音がして水中に向かって何かが放たれる音がした。
頭上の駆逐艦は爆雷の影響を避けるために離れていたようだったがすぐに戻ってきていた。
しかし頭上を通過するには少し右側にずれていた。
それだけで安心できるわけではないが、どうやら駆逐艦側も海中の様子が把握できずにいるようだった。爆雷で海中をかき回せばそれが収まるまでは時間がかかる。
音を常に出している駆逐艦の方が実はその点では不利だった。
「駆逐艦、離れていきます」
「すぐに動くな、戻ってくる可能性もある。30分様子を見よう」
たった30分と言えど潜っている側には悠久の時を過ごしているように感じられた。特に先ほど爆雷攻撃を受けたばかりでは乗員の意識は恐怖と怒りでいっぱいであった。
30分経った頃には周囲はまた静かな状態に戻っていた。
先ほどまでの戦いが嘘であったかのような静けさだった。
「被害は燃料タンクだけか?」
艦長の言葉に副長が答えた。
「通信アンテナや潜望鏡と言った部分がどうなっているかはわかりませんが浸水等は今の所ないようです。機関も異常なしと上がっています」
それを聞いた艦長は決意を決めた。
「よろしい、ゆっくり浮上だ」
「もう夜が明けますよ?」
「かまわない。いずれにしても浮上しなければバッテリーも空気も保たない」
ゆっくりと浮上したレギュラスが海上に上がった時には艦隊の姿はどこにもなかった。だが艦隊と遭遇したことと僚艦の行方不明は確かにセイロン島に届いていた。
「艦長、燃料漏れは最小限です。いつでも追撃可能です」
「直ちに追撃する。進路反転だ」
しかし彼らはその艦隊だけが日本の全てだと勘違いしていた。
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