海軍3号計画
日本が近代化を果たした明治維新以降、日本の目が海外に向けられていくにつれて軍事力の象徴は海軍に移って行った。
江戸時代から海軍と言うものをほとんど持たず陸軍に該当する存在そのものが軍であるという認識から大きく変わったのは単に見た目で分かりやすいだけでなく、島国なのだから当然であった。
しかし海軍は基本的に金食い虫であり戦時でない限り兵部省が獲得する軍事予算の7割近くを常に海軍が消費していた。
特に主である軍艦とは建造に手間のかかるものであり、その手間のかかる艦艇を多数整備して艦隊を編成し海軍を作るには、長い時間を見越した長期的な視野と計画が必要だった。
そして軍艦とはその国の工業の集大成でもある。
それ故に国際条約や造船設備の制約の中で極限まで技術を詰め込んで作られるものだった。
そして今次大戦の主力は海軍であった。
日本海軍はワシントン軍縮条約による新造艦建造の中断と廃棄、空母への改装により戦艦、扶桑、山城、伊勢、日向、長門、陸奥の六隻。大型航空母艦赤城、天城の二隻。
小型航空母艦鳳翔、龍驤の二隻を中心とした艦隊になっていた。
戦艦比率は対英米6割となっていたが実際には5割に届くかどうかであった。
実際にはアメリカは戦艦と空母の割り当て排水量を極限まで使うために旧式であるワイオミング級などの準弩級を複数保有していたため質の面では有利と言えた。
そして航空母艦でも巡洋戦艦をベースにし30ノットの高速性を持つ二段式格納庫の天城型に比べてアメリカの空母は建造が急がれていたコロラド級のコロラドとメリーランドをベースとしたために速力が最高でも23ノットしかなく全長も190mと短いが故に使い勝手が悪かった。
そのためアメリカは空母を艦隊の防空が主任務と割り切り空母コロラド、メリーランドは戦闘機と偵察機のみの運用とする防空空母として運用されていた。
ワシントン海軍軍縮条約は10年で戦艦の建造停止の期限がくるためこれを見据えて日本は第二次海軍軍備補充計画、通称②計画を進めていた。しかしこれは第一次ロンドン軍縮条約の締結により大幅な修正を余儀なくされる。
特に戦艦の建造がさらに5年延長となったことで日本は条約開けに建造を予定していた4隻の戦艦と空母を諦めることになった。
また条約型巡洋艦の建造にもメスが入った。
戦艦の代わりとして日本及び各国が注目していたのがワシントン会議で定義された重巡洋艦、軽巡洋艦という枠だった。
日本はこの時新型の水雷戦隊支援用砲戦型巡洋艦として古鷹型を建造していたがこの艦は八千トンの船体に20センチ砲六門と条約締結時の枠ではいささか中途半端であった。
そこで古鷹の三番、四番艦は建造を中止し、古鷹と加古についても建造途中から設計を変更することになった。
最終的には14センチ連装砲塔四基八門と61センチ三連装魚雷発射管二基の大型軽巡洋艦となった。
その後に作られていく重巡洋艦が妙高型、高雄型と続いいた時点で日本もまた条約内で戦力を整えようとしていた。
結局巡洋艦をロンドン軍縮条約で縛られることになった日本は代わりとして金剛型代艦を勝ち取り、空母鳳翔と龍驤を空母から練習艦に変更することで浮いた空母枠に蒼龍型航空母艦二隻の建造をねじ込んでいた。
すでにこの時点で日本は戦艦や巡洋艦より空母と潜水艦こそが次の世代の主力になると確信していた節がある。
特に潜水艦は顕著であり条約対象外をいいことに大型でアメリカ本土やインド洋などの遠く離れたところで通商破壊や偵察など各種任務につく海大型とハワイ以西で通商破壊作戦などを主に行う中型潜水艦の巡潜型を計画しては建造していた。
これらはアメリカが金剛代艦の浅間と筑波、蒼龍、飛龍などに注目している合間に秘密裏に行われていった。
また蒼龍型に関しても通達時の排水量は一万三千トン程度としていたが実際には一万九千トン近いものであり艦影も天城型をより洗練したものであった。
第三次海軍軍備補充計画は②計画がひと段落ついた段階で考案されたものだった。
当初は改訂②案という名前で第二次ロンドン軍縮条約を見据えた内容となっていた。建造艦も金剛代艦の三隻目と軽空母が二隻、これを中心に駆逐艦と古くなっていた5500トン型軽巡洋艦の初期建造グループの更新がメインであった。
しかし第二次ロンドン軍縮条約はアメリカの脱退で頓挫し期限を延長したワシントン条約の期限も切れることから③計画は大きく様変わりすることになった。
特に無条約時代に突入する事から戦艦、空母、重巡洋艦と制限なしの艦艇が一気に立案、設計され計画に組み込まれていった。
その中でも最大で最もアメリカに振り回されたと言えるのが戦艦大和だった。
彼女は当初排水量六万四千トン、46センチ三連装砲三基9門の巨大戦艦として計画されていた。
しかし計画がある程度固まった段階でアメリカで展開していた諜報員などから無条約戦艦としてアメリカが六万トンクラスの巨大戦艦を作っているとの連絡が入った。
計画している大和型では現状では大きく見劣りすると考えた海軍局は一隻辺りの予算が向上してもいいからと大和を大型化六万八千トンで全長は279mと6m延長され副砲を廃止して46センチ砲を四基12門にした艦となった。
その代わりに建造費が上がったことで③計画で建造が予定されていた大型艦は戦艦空母二隻づつから戦艦一隻、空母四隻とされ駆逐艦も予算獲得にためのダミー二隻に加えてさらに二隻の削減となった。
そのため駆逐艦は艦隊型駆逐艦ではなく④計画で建造が予定されていた防空駆逐艦を十隻建造する方向で調整が加えられていた。
また航空母艦にしても蒼龍型を大きく発展させた二万九千トンの排水量を持つ大型空母であった。また大和型と同じ機関を搭載し大和が最大速力28ノットに対して34ノットを達成していた。また日本空母として初めて第一格納庫が開放型となっている。
最終的な③計画は大和型戦艦一隻、翔鶴型航空母艦四隻、蔵王型重巡洋艦四隻、秋月型防空駆逐艦十隻、海大七型潜水艦八隻、巡潜五型潜水艦、特海大一型潜水艦五隻に海防艦八隻、潜水母船二隻と大盤振る舞いであった。
これら全ては1940年の中頃までに全てが就役済みで1941年からは第四次海軍軍備補充計画、通称④計画が始まる予定であったが、1940年の段階で日本はイギリスとの戦争に踏み切るにあたって④計画は中止となり代わりに戦時に必要となる駆逐艦、潜水艦の建造を中心とした改④計画に切り替えられた。
結果として日本の戦艦建造は③計画が最後となる。
④計画では③計画との兼ね合いで陽炎型駆逐艦十二隻を建造予定であったが開戦を受けて陽炎型は改良を施した上で十四隻に増やされ、戦艦一隻と空母四隻は建造に時間がかかり間に合わないことから中止され最終的な建造は計画期間も一年に大幅縮小され変貌した。
当初設計では平射砲を搭載し四連装魚雷発射管を次発装填装置込みで二基搭載するはずだった陽炎型駆逐艦は秋月型と同じ九六式十糎高射砲を連装砲架三基(秋月は砲塔型で四基)とし魚雷においても次発装填装置を廃止して艦首や艦尾を直線で構築し機銃を増設したものとなった。
最終的には陽炎型駆逐艦十四隻、海大八型潜水艦十二隻、巡潜五型潜水艦二十四隻、機雷敷設艦二隻の計画となった。
結果としてインド洋でイギリスが対峙することになる本当の日本海軍の戦力は彼らの想像をはるかに超えていたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます