第十五話 南方攻略


後に「マレー沖海戦」と呼ばれることになる一連の戦闘は日本海軍の勝利で幕を閉じた。

新堀はその事を艦長室に報告に上がった艦隊司令の参謀から聞いた。

まだ若い二十代前半の若者で大学で予備役将校過程を選択して籍だけは軍に置いていた類の人間だろうと新堀はあたりをつけていた。


しかし一連の海戦が終わったからと言ってすぐに何かが変わるわけでもなく、戦艦扶桑は空母の護衛の任を継続していた。

しかしそれも参謀は第一航空艦隊と第二航空艦隊は一度補給整備のために本土に戻ると付け加えた。

「海戦は確かに我々の勝ちであるがイギリス海軍の保有する空母はいずれも取り逃している。いずれそれらが反撃に出てくる可能性があるんじゃないかな?」

優勢ははっきりと決まっていたがそれでもシンガポールはまだ陥落していない。

そして肝心の東洋艦隊は戦艦を失ってはいるが空母と重巡を含む多くの艦艇はまだ無傷であった。

「新たに第三航空艦隊と第四護衛艦隊がマレー攻略支援に当たります」


「第三航空艦隊か、確か3号計画の艦が中心だったな」

若い参謀は少しだけ緊張した面持ちで新堀を見つめた。

「だがここで交代すると言うことは次の作戦が控えているのだろうな」


「それはお答えできかねます」


「かまわないよ。私の悪い癖だ」

実際に新堀から見ればこの作戦はすでに消化試合の様相を見せていた。


おそらくもうこの作戦に参加することはないだろう。休養と整備を急ぎ行い次の戦場に向かうはずだ。それは何処だろうか?インド洋にまでいき巨大な海を制圧するか?

おそらくそうだろうな。私だったらそうする。



体を預けた椅子が小さく軋みをあげた。それを気にすることなく彼はどんどん思考に入り浸っていく。

まさかイギリス本土まで行くわけにもいかないだろう。生命線となるインド洋を押さえ込むことでイギリスを追い詰めあとはドイツまかせというところだろう。しかしドイツが本当にイギリスを責め落とせるかは分からないところだ。あの国は何をするか分かったものでもない。

 



 彼の考えは的中するのだった。

 マレー半島の攻略は二ヶ月とかからずに集結した。

そして同時に東南アジア各方面へ侵攻していた各部隊もまたその任務をほとんど達成していた。





僅か二ヶ月足らずで当初の作戦目標を達成できた背景には「マレー沖海戦」の結果が影響していた。


最終的にイギリス海軍が戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスを含む駆逐艦3隻を失って大敗することになった。

 特に史上初めて航空機によって戦艦が沈められたという結果は例えそれが損害が積み上がった上での戦果だったとしても海軍関係者にとっては衝撃だった。


これに対して日本海軍は航空機四機を撃墜された他帰投後に破棄された分を含めてわずか八機のみの損害であった。




 東南アジア各方面では、守りの要となるイギリス艦隊が敗北し敗退してしまったためイギリス軍を初めとする連合軍は総崩れとなった。マレー半島の付け根当たりの各地に上陸した日本軍は、本国からの増強がされないままの植民地警備軍でしかないイギリス、オランダの各部隊を次々と撃破していった。


 元々マレーとシンガポールには、開戦までに慌てて送り込まれたオーストラリア第8師団と英印軍が合わせて4万名が守備していた。

しかし展開時期が開戦ギリギリであり防備体制が遅れていたマレー半島は瞬く間に占領されていったのだった。



 東南アジアのボルネオ島南方海上に展開していたオランダ艦隊は、マレー沖での戦いの結果を知る前から及び腰になっていた。元々重巡洋艦が一隻とそれ以下の補助艦艇しかないオランダ艦隊は日本海軍を迎え打つなど到底不可能だった。


 このためオランダ海軍は、本国からの撤退命令も合間って戦う前からインド洋へと逃れることになった。

 そして海での抵抗をほとんど受けなかった日本軍は、容易く蘭領東インド各地へ上陸。原住民が日本軍に積極的に協力した事もあり、約5000万の人口がいるジャワ島ですら一週間で勝負が付いた。



 蘭領東インドでの戦いの多くは一ヶ月かからずで決着が付き、日本軍の進撃はドイツ軍を凌ぐもので、地上での車両移動と海上機動を駆使することで、一ヶ月半でマレー半島を踏破し敵を蹂躙した。

 

最も、当初の戦争目的である戦略資源奪取という面では、東南アジア地域の方が重要だった。


特にスマトラ、ボルネオ各地の油田、パレンバンをはじめとする油田及び製油施設。

セレベス島南部の鉄鉱石、ビンタン島のボーキサイト、各地の天然ゴム、錫、マンガン、金などの鉱山などには機械化部隊を送り込んだ上に日本陸軍空挺部隊による奇襲攻撃を行い油田施設を破壊される前に奪取することに成功していた。

それでも港湾施設や破壊された道路、橋、鉄道などの復旧があるため本格的にそれらが本土に運び込まれるのは半年ほどかかる予定だった。


 兎も角新堀の初戦はこうして終わり、本土に戻った彼は司令官共々プリンス・オブ・ウェールズ撃沈の功績を称えられることになる。



 そして東南アジアの制圧で、自存の為の最低限の戦争は早くも多くが終わりを告げたのだが、イギリスがそれだけで停戦を申し込むほどの腑抜けなはずもなく、戦争の終わりは見えそうになかった。


 しかし日本としても長期に渡り戦いを続けるのは国力としても避けたいところであった。

しかしインド洋を制圧しアフリカ沿岸を制圧し大西洋に進出してイギリス本土を叩くなどという夢想が許されるはずもなかった。イギリスが本国から戦力を送り込むのが難しいのと同じく日本もイギリス本土へ攻撃することは不可能だった。


本来イギリスとの戦争が避けられなくなった時点で日本は、兵部省はこの戦争の幕引きの解答を考えていた。

それは最終的にインド洋を制圧しイギリスの生命線を断ち切るというものであった。

だがこれはドイツがイギリス相手に優位に立ち回り、イギリスの経済を締め上げ根を上げさせるまで続けなければならない。短期決戦のようで長期化する危険性もあった。

そしてアメリカが参戦すればインド洋と太平洋の二正面作戦になりかねずそうなれば日本の敗北は決定するという危険なものであった。


しかしそれ以外に戦争の幕引きがあるはずもなく日本は危険な賭けに打って出る事になった。


1941年4月。日本海軍は南方作戦に従事した艦艇の整備を突貫で済ませインド洋に出撃をしていった。


その艦隊の中には戦艦扶桑も変わらずそこにあったが、艦隊司令部は扶桑にはなかった。旗艦を表す旗もマストには掲げられていなかった。

もとより通信施設や艦隊指揮のための士官室などが充実しているという理由で扶桑を旗艦としていたが砲戦を行う戦艦を航空艦隊の旗艦としていると砲戦時の追撃戦や水上打撃艦隊への編入時に航空艦隊の司令部ごと移動することになり艦隊の指揮に影響が出てしまう問題が生じていた。

レパルスを砲戦で取り逃したのも実のところ扶桑に航空艦隊の司令部要員がいたため自由に動けなかったからとされたのだった。


結局航空艦隊は旗艦を手狭ながらも天城に変更することで対処していた。現在建造中の最新鋭航空母艦では空母ながら司令部設備と通信設備が充実したものになっているがそれが就役するのは早くとも8月以降になる予定だった。

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