第十話 上海事変 4
誰もが望まない形で拡大した戦争。その終わりは誰もが予想していたのとは別の着地点に落ち着くのが筋というものなのかもしれない。
新聞に踊る日中停戦の文字に、その停戦の結果がどのようなものだったのかを知る新堀も、隣のデスクで同じ新聞に目を通していた成田大佐も苦い顔をしていた。
1938年12月に日本軍はかき集めた戦車と装甲車を投入して武漢追撃戦を実施した。
中華民国を圧倒する装甲兵力の数と多数の航空隊がもたらした制空権が、迅速な機動と包囲殲滅戦を可能とし、物資集積地となっていた広東一帯を奇襲的に占領。
多数の兵器や物資を差し押さえ、中華民国の喉元を締め上げた。その兵器の多くはソ連製のものであり、中華民国が何処の国の支援を受けているのかを如実に表していた。
その後も続く戦闘で最終的に開戦からわずか8ヶ月の戦闘で、約120万の中華民国軍を包囲降伏もしくは殲滅した。これにより国民党軍は重慶に逃れた一部を除いてほぼ完全に消滅した。
特に日本陸軍としては、武漢追撃戦が成功で終わった時点で、戦争にケリがついたと考えたほどだった。
しかし、揚子江上流部の狭隘な地形を挟んだその向こう側に広がる盆地、重慶を拠点とする蒋介石の重慶政府はまともに戦う力を失ったにも関わらず徹底抗戦を唱え続けた。
もはや蒋介石には後がなかった。すでに失脚が免れない状態となっては独裁者ほど頑なになるのは言うまでもなく、彼も例外ではなかった。
そして彼が徹底抗戦を叫ぶのも理由があった。
重慶はその地形上防衛戦に最も適した天然の要塞都市でもあった。
重慶への進撃は、揚子江上流部の狭隘な谷間を抜けなければならなず、鉄道が存在しない事から、短期間での侵攻が物理的にほぼ不可能だった。
そして自動車化、機械化した軍団というのはそれに応じて必要な物資が桁違いに多く、機械の故障というトラブルによる稼働率低下。実質的な戦力低下が著しかった。
このため進撃と補給のための物資などを準備するにしても、最低半年が必要と考えられた。
しかし日本には、事態収拾を急がねばならない理由があった。武漢での戦いが始まった時点でアメリカが日米通商航海条約の破棄を通告し、何もしなければ半年後には通告は実行されてしまうからだ。
この時点でのアメリカの明確な敵対行為は選挙を控えていたルーズベルト政権の支持稼ぎの一環でもあった。
そもそもアメリカは日本を非難さえすれど通常の国家としてのやりとりはそのまま続けるつもりでありただ単に日本の足を多少引っ張れれば良い程度でしかなかった。この条約破棄はルーズベルトの独断先行とも噂され、同時に日本政府に対して即座の停戦と撤退を求め、日本軍の残虐行為に対するアメリカの非難の態度だと短く説明した事で日本側が今度は追い詰められる事態となった。
当然と言うべきか、日本人のアメリカに対する悪感情と敵意は天井知らずの鰻登りであった。最もルーズベルトが日本との対立を望んでいる節があったのを見抜けていなかった日本の落ち度でもあったのだが、だからと言って有効な手が打てるわけでもなかった。
そして日本としては、アメリカの事はともかく中華民国との紛争状態を一刻も早く終わらせなければならないと、焦り始めた。そして国家といえど所詮は人の集まりであり焦りが失敗を引き起こすのは変わらなかった。
4月に武漢一帯が陥落すると日本は戦争に蹴りをつけるための強硬策にでた。
それは臨時首都重慶に対する大規模な爆撃だった。都市爆撃以外に、日本軍が中華民国を効果的に攻撃して相手を降伏に追い込む手段がなかったからだ。
日本、中華戦線、満州から陸海軍の航空隊が続々と集結。翌月すぐにも爆撃が開始される。
1939年5月に入ってすぐに行われた第一次重慶爆撃。
当初日本軍は直掩機を有する部隊の到着が遅れたため先に到着していた海軍航空隊の第三〇五爆撃隊の単独による出撃を行った。
この部隊は当時最新鋭の陸上攻撃機である九六式重陸攻を使用する数少ない部隊で、霞ヶ浦を拠点とする部隊だった。
編成は二個中隊25機。四発機であり陸軍では九七式重爆撃機として採用されている機体だった。
爆弾搭載量が3tと日本軍の中では最大規模の積載量を持っているため少数でも十分な爆撃量があるとのことで二個中隊の出撃だった。
しかしこの爆撃は機体、爆弾など準備不足で失敗してしまう。特に護衛機がいない事と数が少なかった事で中華民国空軍の攻撃で、予想以上の損害を出すことになった。
このため日本軍は陸海軍合同での大規模攻撃の実施を決め、一ヶ月の準備期間を置いた上で、同年6月に「第二次重慶爆撃」を開始する。
1939年7月3日、日本軍は300機以上の重爆撃機を投入した重慶総攻撃を実施した。
各所からかき集めた爆撃機は小さいものでは海軍九九式艦上爆撃機から大きいものは九六式重攻、九七式重爆までさまざまであった。
都市無差別爆撃となった同爆撃で主力となった爆撃機達は数に物を言わせて何度も反復攻撃を実施。爆撃開始から僅か1週間で、5000トン以上の爆弾を投下する。
航空機の国産が出来ずほとんどがソ連から供与されたI-16では流石に対処できるはずもなかった。
特にこの時デビューした新型艦上戦闘機零戦は先行量産機の24機が護衛機で随伴。3倍の数のI-16相手に被撃墜無しで相手航空機を全機叩き落とす快挙を成し遂げた。
大規模な爆撃の結果、当時それほど都市規模の大きくなかった重慶全市は壊滅し、市街のうち半分以上が全壊となった。
これらの戦闘だけで中華民国にとっては十分停戦交渉のテーブルにつく事態だったが、状況は一層深刻だった。
この時重慶からの脱出を測ろうとしていた蒋介石が爆撃によって死亡し、同時に国民党幹部や政府首脳部の多くが死傷したためだ。
蒋介石を脅す程度の積もりの爆撃だったが中華民国を過大評価し過ぎていた。
「何より問題なのは一連の爆撃により、世界の対日世論はさらに硬化した事だ。アメリカの新聞を見てみろ」
何処から取り寄せたのか成田大佐はアメリカの新聞を持っていた。それを新堀にも見せる。
「ジェノサイド……大虐殺ですか。都市爆撃くらい何処の国もしているものですがね」
「敵国の政府をまとめて抹殺してしまったのが痛かったな」
「ドイツが行ったスペイン・ゲルニカを越えるほどの悪行と……これでは日本とドイツが完全に世界から孤立してしまいます。この国にとっては亡国の道ですよ」
「初めて会った時、君は私にアメリカと戦争する気なのかと言ったね。正直私もあの時はここまでひどくなるとは思っていなかった」
国家の首相を含む多くを抹殺してしまった日本は停戦のための相手政府を失った状態に陥った。しかし国民党内で蒋介石に次ぐ有力政治家だった汪兆銘が重慶を脱出していた事で最悪の事態は免れた。
彼を中心とした臨時政府が日中両国の和平交渉のための話し合いの準備を始める。
そして上海にて、日本側特使と汪兆銘の間に幾度となく交渉が持たれ、1939年8月には日本、中華民国、満州帝国は停戦に合意。戦闘行為は、ほぼ2年間で終息する。
ほぼ即日で決まった和解条件は、中華民国政府による満州帝国の承認。相互賠償なし。領土割譲なし。北支、上海、日本領海南島近辺での中立地帯、非武装地帯の再度の設定。中華民国領内からの日本軍、満州軍の早期撤退、国交、通商の回復。捕虜の解放など、とされた。
アメリカなど中華民国を支援していた国々が慌てるが、すでに継戦能力と政治家を多数失った華民国政府は、諸外国が日本に宣戦布告でもしてくれない限りこれ以上の徹底抗戦は不可能だと、開き直った。と言うよりもほとんど全ての責任を蒋介石に押し付けた形になった。
特に中華民国を最も支援していたアメリカは短期間のうちに事態が進んだため、干渉も介入も出来なかった。その上、事が紛争終結でもあるため、アメリカも講和に対して文句が言えなかった。戦争を止めるように言って、戦線を拡大する日本を最も非難していたのはアメリカであった。
そのためアメリカの対日世論は紐なしバンジーが如く急降下していた。
戦争が終わったとしても最早日本の国際的な孤立は避けられない状態だったのだ。
それでも日本はまだ完全に孤立したわけではなかった。それに同講和条約を決める会議では、完全には滅ぼされていない中華共産党と国民党に反抗的な軍閥への攻撃に対して、日本、満州が中華民国に協力することが決められた。
さらに、中華民国がソ連との関係を絶つ代わりに日本が支援と戦災復興を約束した日華協定が結ばれた。日本は向こう3年間の間に6億円のの借款と中華民国への技術供与、工場建設などを約束することになった。
これは蒋介石が死亡したことにより日本側の対中華世論が大きく和らいだ事における成果でもあった。そして中華民国は、日本が勧めた防共協定への参加を申し込み、防共協定は独、日、満、中の四カ国の協定となった。
「この一連の戦争で最も損をしたのは何処なのだろうな?」
何せ中華民国は復興と日本の工業技術が国内に入り国内産業が大きく成長しようとしている。時間は必要だが十年もしないうちに中華民国は日本と並ぶ工業国になるのではないかと言う予想すら立っている。
そして日本も大陸側の不安材料が一つ無くなり防衛上の重荷が無くなったのだ。
「アメリカでしょうか。ソ連は兵器を売るだけ売って外貨を稼げていますからね」
特にアメリカが本格的な対中華支援や援助を行う前に終わったため、ほとんどアメリカの政治、経済に影響が無く、日本のように戦争特需があったわけでもない。日本の国力を消耗させるという目算すら完全に外れていた。
「となれば確実にアメリカは我が国を敵に認定しただろうな」
「少なくとも今の段階ではいきなり戦争と言う事態にはならないでしょう」
そう言いながらも新堀の頭には得体の知れない不安と闇が渦巻いていた。
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