第九話 上海事変 3

1938年11月。

「上海事変」の行く末を新堀は戦艦扶桑の成熟訓練の片手間に耳にしていた。最も彼にとって上海事変は何処か他人事のような気がしてならないものだった。場所が場所であるから船乗りである彼が何かをしに行くというわけでもなく、仮に行ったとしても扶桑はまだ乗員の練度が伴っていない。行くだけ無駄足であると考えていた。

特にこの時期の海軍はロンドン軍縮条約時に取り決められていた金剛型の代艦、日本の戦艦保有枠が以前として対英米六割以下である事の埋め合わせも兼ねた新造戦艦の就役と人事異動により主に人材面で自滅的な麻痺状態に陥っていた。

扶桑も人員の半分が新造戦艦に移動となり代わりに新兵が送り込まれた事で一時的な練度低下も発生していた。

また、この余波は新堀が所属する第一航空艦隊上層部にも影響していた。第一航空艦隊の艦隊指揮官には南雲中将が着任する予定だった。だが、着任して一週間と経たずに彼は第二水雷艦隊に移動となり、空いてしまった枠に急遽小沢少将を中将格上げという形で押し込むことになった。

 

そんな混乱は海軍全体に波及しておりまともに動くのは陸戦隊くらいであった。

最も新堀自身はそんな混乱とは無縁に近く艦長としての指揮に忙殺されていた。そのおかげで上海事変の行く末をある程度整理することもできていた。

 

 事件当初は、中華民国の排外主義に諸外国からは批判的な声が多かった。

 そうした情勢を見極めた日本は邦人救援、上海の秩序と治安維持回復を旗印にした軍事行動と出兵を決定する。

この時、日本人のほとんどはちょっとした国内向けのガス抜き程度にしか捉えておらず、中華民国軍など鎧袖一触であると考えて歯牙にもかけていなかった。

しかし自体は当事者の期待を裏切る。中華民国軍が、揚子江に停泊していた日本軍艦艇を空襲。揚子江には水雷艇が一個戦隊四隻と掃海艇が三隻いるくらいだった。そして空襲自体の損害も全くなく空襲された当事者達ですら空襲があったのかどうかすらわかっていなかった者がいるくらいだ。しかし青天白日旗を記した航空機の戦闘行為は中華民国側の写真とそれを目撃した者により外電として伝えられた。

しかし同時に中華民国の予測を遙かに上回る早さで、日本の海兵隊1個旅団が上海に到着。迎撃準備を全くしていなかった中華民国軍は、何も出来ないままに上海外苑部の塹壕に押し戻された。

 

 

新堀は段階で両者交渉を行えば良かったのだと考えていた。そうすれば少なくとも事態の悪化は避けられたはずだ。だが現実は非情であり賢い選択は取られることはなかった。

 上陸した海兵隊が相手からの通告もなく攻撃を受けると、近衛政権は大々的な対中華非難声明の後に、爆撃実施を警告した。対する中華民国政府は、やれるものならやってみろと挑発するような声明を発表し、日本側は警告通りに爆撃を実施した。

爆撃自体は中華民国の航空戦力の不足もあり圧倒的勝利に終わった。

しかし日本の爆撃により、日本に対する国際世論は一気に硬化してしまう。中華民国政府も爆撃されたことにより態度を硬化。徹底抗戦を表明してしまう。その後は泥沼状態で、戦闘に一定の結果が出るまで誰も止められなくなってしまう。ここで大規模な戦闘でどちらかに目に見える戦果がすぐに出れば話は違っていたかもしれない。

 だが上海での陸戦は、数で圧倒する中華民国軍がまともに前進しない上に海兵隊は地の利があり、特に非正規戦になれた部隊を投入したこともあってか上海市外縁での小競り合いに終始し出口のないまま続いた。

そのうちに日本陸軍の3個師団が上海に到着。本格的戦闘を開始すると、中華民国は全国総動員令を下して大本営を設置した。

対外向けでの声明において日本の侵略に断固戦うと事実上の徹底抗戦を発表してしまう。

 これで緊張は中華民国全土に広がってしまい軍事的緊張が高まっていた満州帝国国境で散発的が銃撃戦が発生する「満州事変」が発生。

 満州帝国は、日本支持を打ち出すと共に国内に動員令を発令。万里の長城目指して大軍の動員と集結を開始する。現地の満州国際駐留日本軍も連動して動かざるをえず、ザバイカル方面のソ連を牽制しつつも中華民国方面にも軍を進めた。

 しかしどの国も宣戦布告しなかったため、これら一連の軍事衝突は「支那事変」として扱われる事となった。

 

 

上海での戦闘は日本本土で急遽編成された陸軍の機械化歩兵一個連隊が上海に増援として送られた事で決着を見た。


 それに前後する1938年6月、中華民国は首都を南京から重慶に移転した上で徹底抗戦を宣言。この時をもって「上海事変」は「支那事変」となった。だがすでに始まった時点で戦争の行く末は大方決まっていた。北部から満州帝国軍が万里の長城を突破。

追従する満州駐留だった日本軍もそれに引きずられ首都南京目指して進撃を続行した。

独断専行が過ぎる行為に新堀も話を聞いて顔を青ざめたほどだったが海軍の一艦長でしかない彼には止めることもできなければ手を打つこともできなかった。ただ情勢を見守るだけだった。

 この時点で日本政府が画策していた幕引きは完全に破綻してしまう。そのせいで近衛政権は事態をさらに泥沼化させてしまう。

 当然、中華民国に攻め込んでいる日本を見る諸外国、特にイギリスとアメリカの目は厳しくなり、各国との関係も関係も急速に悪化した。

日本は国際的に孤立を深めていった。

 あまりにも急速な国際情勢の硬化と紛争の泥沼化に近衛内閣は紛争の早期収拾失敗と合わせて責任を取り、総辞職せざるを得なくなってしまった。

 しかし紛争中の総辞職は次の内閣が機能するようになるまでに、中華民国領内の日本軍の暴走を招いてしまった。


内閣が機能するようになった時には中華民国の首都南京がほとんど開城といえる状態で陥落。


蒋介石らは重慶に政府機能を移転。以後、重慶政府とも呼ばれる中華民国と日本の全面戦争が本格化する。

 

 「支那事変」は、当事者の誰にとっても誤算の戦争だった。

 誰にとっても理由もなく泥縄式に事実上の全面戦争になった事が信じられなかった。


 しかし起こってしまった自体には対処しなければならない。真っ先に次の一手を出したのは優位に立っている日本だった。支那での紛争早期収拾の失敗を受けて攻勢を強めて短期戦での屈服を狙うべく国内での動員を大幅に強化。

 兵器や物資の増産も急ピッチで進め、国内の総力戦体制が一気に進められた。

 日本軍の動員は急速に進められ、10月までには現役師団が準戦時状態にまで動員され、そのうち半数がすでに戦場に送り込まれていた。気がつけばすでに日本は戦時体制になっていたのだった。


そしてそんな日本、あるいは中華民国に武器や資源を輸出する事で一儲けしようとすると国家による支援工作により一時的にとは言え両国の経済は活発になっていた。


 その中で比較的戦争からは程遠い海軍は、一部の艦艇が輸送船団の護衛についているくらいで平時とあまり変わってはいなかった。海兵隊も上海の戦闘以外では導入されていない。それが新堀にとっては一歩引いたところから戦局を見るのには丁度良かった。

(しかしこのままでは取り返しがつかないことになりかねない。すでにこの理由のない戦争の決着すら誰も想定できていないのだ)


しかしその思考もまた、出航準備が整ったとの報告が上がり中断せざるおえなかった。扶桑はこれより駿河湾にて艦隊航行の訓練が行われるのだ。

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