第五話 ワシントン軍縮会議

 世界有数の海軍大国と言えばこの当時では紛れもなくイギリスとアメリカの2大大国となる。


海洋国家の中で近代海軍を揃えている国というのは意外にも少ないのだ。

しかしイギリスは、日本やアメリカのように次なる建艦競争どころではなかった。

 ドイツと散々に海軍の建造競争を行い第一次世界大戦で天文学的な予算を導入する中でその予算をどう確保するのかと言えばどこかから削り取るしかない。そして1918年には既にドイツに建造能力が無いため、海軍に割り当てていた予算は他に割り振られていた。当然公開されている八八艦隊計画の初期案になどまともに付き合える体力は残っていない。既にイギリスの負債は限界を迎えていたのである。


 八八艦隊計画に触発された一部の海軍士官や議会などが建造計画をなどと言おうものなら各方面から鉄拳がやってくること間違いなしだ。

もはや国の経済としては海軍艦艇を削減する事さえ厭わない状態なのだ。



 そして疲弊したイギリスにとって、日本が1920年に策定し直した海軍整備計画すら世界国家として競争につき合わねばならないイギリスとしては迷惑極まりなくまともにこれに対抗できるのはアメリカくらいなものであった。

日本海軍の内情としてはこの整備計画で旧型になっていた前ド級や準弩級、と言った戦艦、装甲艦を退役させる狙いがあった。というよりもそちらの方が主目標であった。しかしそんなことは他国であるイギリスには関係のないことであった。イギリスには持て余し始めていた自国の準ド級などの戦艦群を更新する余裕すらなかったのだ。



そしてもう一つの海軍国家アメリカだが、建造競争に乗り気であるかと言われるとそうは言い切れないところがあった。当初こそ八八艦隊計画に対抗するダニエルズ・プランなる海軍整備計画を提案するも議会の反応は今ひとつであった。

 日本の海軍力への実質的な対抗意識としては、1906年のグレート・ホワイト・フリートが最も最初のものであったが、その後は日米間の関係が良好であった事から比較的穏やかだった。また、日本は近代化から半世紀もたっていない三流国家であり軍拡に関しても発展途上国同様に背伸びしているに過ぎないと考えていたのだ。アメリカもまたイギリス同様に日本の事をアジアの番犬程度に見ていた。


 この関係が大きく変化するのが第一次世界大戦が始まってすぐの頃だった。

 同時期に日本が国産超弩級戦艦であり高速戦艦とも呼べる扶桑型を相次いで浮かべていくのに焦りを感じたためか、アメリカも新世代の戦艦建造に勤しんだ。

 しかし同時期のネヴァダ級戦艦などを見ても明らかであるようにアメリカ海軍の軍事ドクトリンは意外にも日本と同じで近海での決戦を重視した思想だった。そのため完成した戦艦も新機軸がいくつも含まれているが、設計思想自体は日露戦争時の日本海軍のもの近いものであった。

 そのため速力では21ノット前後、航続距離のやや短いながら艦幅を広く取り砲戦時の安定性を重視した設計となっていた。

そのため国際的には遠距離砲戦能力と防御力が極めて高い戦艦というのがアメリカの戦艦の評価となっていた。



 八八艦隊の初期案が発表された頃こそ焦ったアメリカだが日本が1920年に策定した改訂計画は、一般常識範囲での軍備拡張に落ち着いていた。しかしこの改定計画は日本政府によって意図的に伏せられ海外への通達は行わなかった。

というよりかは発案元の兵部省では航空主兵の派閥が新たに誕生し肥大化していた大砲派との内ゲバになってしまい一時的に昨日が麻痺するレベルに陥っていた。そのため兵部省から議会に情報が上がるのが遅れていたのだ。


そんなゴタゴタなど全く知らないアメリカ。

特に海軍は焦ったまま海軍が一気に世界一の海軍になろうと、海軍拡張計画を打ち出したのだった。元々この計画は日本と同じで旧式化した弩級や準弩級の更新を兼ねた現実的なものだったのが日本の八八艦隊計画を受けて増強された敬意を持つ。しかしダニエルズ・プランを議会に通したわけだが、予算問題と第一次世界大戦が集結し軍縮に向かう流れの中で国民に否定されてしまう。

このためアメリカ政府も、海軍拡張の大幅な下方修正を是とした。というより元の計画に毛が生えたものに変更するしかなくなった。

 

最終的な計画は戦艦8隻、巡洋戦艦4隻を中心とし、これらに随伴する巡洋艦、駆逐艦を新型に更新していくと言うものだった。

 

 日本とアメリカのこの動きは第一次大戦が終結したばかりの荒廃したヨーロッパからは過剰なものと見られた。また一隻あたりの大型化、高性能化による価格高騰は、各国の財務関係者の頭痛の種だった。

まともに付き合う国自体が多くないとはいえその国々の大半が付き合いきれないと呆れていたのだ。


 特に経済発展によるインフレに突入していた日本では計画当初の1918年から1920年の2年合間に一隻あたりの建造費が額面上で6割り増しにまでなっていたのだからその高騰ぶりが伺える。

 このためイギリスが音頭を取る形で政治的な調整が行われ、1921年11月に「ワシントンで海軍軍縮会議」が開催される。







 軍縮会議で特使としてワシントンに降り立った

兵部大臣加藤友三郎は、アメリカという国の次元の違いを見て半分呆れ返っていた。

ニューヨークの街並み一つとっても高層ビルがいくつも立ち並ぶ摩天楼、大量に走る自動車。そして近代的な造船所。世界経済の中心と言っても過言ではないものだ。

(おそらくアメリカも見せつける目的もあってワシントンで開催する事を望んだのだろう)

すでに外交は始まっているのだ。

 日本全権は首席全権を持つ加藤友三郎兵部大臣、藤山希亮海軍本部局長、徳川家達貴族院議長,幣原喜重郎駐米大使。


 議会で問題になるのはなんと言っても軍艦の保有率だ。そしてそれは各国の経済実態や軍事力によって左右される。

現在日本が完成させて保有している新造艦は長門と陸奥。それ以外は戦艦土佐が進水式をあげただけで残りはまだ船台で建造が始まったばかりだった。

新造艦2隻だけでも守らなければならない。加藤は2隻の保有をどうにか認めさせなければと考えていた。

だが藤山は、海軍局の考えはやや違っていた。

加藤と共に会議の席に座った彼だったが、彼にとって戦艦の保有は最優先事項ではなかった。

彼は海軍ではまだ新しい派閥である航空派だった。

この時海軍局内部では大きく分けて二つの勢力があった。

発展著しい航空機を新たな主兵とする航空主兵論派、従来通りの砲雷撃戦を主体とした戦艦主兵論派。

そして八八艦隊計画は戦艦主兵論派が中心となって作り上げたものでありその予算の大半が戦艦の建造に使われていることも航空主兵論派は気に入らなかった。

今はまだ航空機の性能が砲戦に匹敵する事はない。だがその発展の速度は大砲の比ではない。あと10年もすれば戦艦を凌駕する兵器になることは間違いないのだ。

それが藤山の持論だった。

この時期に開催されたのは彼にとってはまさしく千歳一隅の機会でもあった。

浮いた予算を航空機の発展に注ぎ込める。そのチャンスだった。

 もっとも当事国のアメリカは、当初は自らのコロラド級戦艦4隻の完成を待ってから会議を開催しようとしていた。しかしそれらが完成する1923年には日本はより多くの新造戦艦を完成させる可能性があった。

 そのため会議を予定より前倒しで開催にこぎ着けさせたという経緯がある。しかし藤山としてはアメリカが戦艦に拘り続けてくれればという奇策めいた考えがどこかにあった。それは戦艦扶桑の16インチ砲搭載計画に似たところがあった。

こうして日本はすでに特使の合間で考えにズレが残ったまま会議に臨むことになった。


 ワシントン会議は、イギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアが参加し、世界初の国際的軍備縮小会議と言うことで大きな注目を集めた。会議の争点は、どの程度各国の戦艦保有量を削減するかだった。

 

 会議において、問題にされたのが、建造中の戦艦だった。

特に日本が建造中の戦艦は、どれも16インチ砲を備え4万トンを越える巨体のため、完成したら軍縮の理念に反する存在になりかねないと考えられた。

 最も日本としては長門、陸奥の保有が認められるのであれば建造中の艦の廃棄は問題ないとする方針を早々に打ち出していたため会議は比較的荒れることはなかった。


むしろ日本側で問題になったのが対米英70%の保有比率を認めるかどうかだった。

この日本側の要求にアメリカは6割を主張して真っ向から対立していた。しかしイギリス、フランス、イタリアも日本の肩を持ったため、会議は日本70%の保有が大勢を占めた。これは、世界大戦での貢献度が、外交に反映された形だった。

しかし頑なに認めないアメリカとの対立が続いてしまいこのままでは会議自体が失敗の様相を示していた。


そこが潮時と考えたのか藤山は加藤ら全権代表にある提案をした。

「戦艦の保有で対米6割、それは認めましょう。代わりに空母保有枠で対米7割は絶対に認めさせてください」

「しかし対米6割だけでは逆に陸奥廃棄を蒸し返す可能性が高いぞ?」

疑問を呈したのは幣原だった。駐米大使である彼はアメリカ側の事情にも精通しておりアメリカがどう動くのかはある程度予測がつけられた。


「そうなれば金剛型二隻も追加で廃棄です。薩摩型なども退役させればアメリカも文句は言えないでしょう」

海軍局長として海軍の全権を担う彼の言葉はそのまま海軍の考えとなる。


その上でアメリカが粘ってきたとすればその時は対米6割としつつ保有排水量枠は現在の日本の保有排水量を基準としたものとすると打ち出せば良いと言った。

元々日本の戦艦保有量は6割すら満たないのだ。



 そして加藤もここが落としどころと考え、上記条件で改めて交渉がまとめられる事になった。

当初こそ対米6割を認めてることに渋々と言った態度であったアメリカだったが内心では金剛型の破棄を達成できた事で機嫌は良かった。

アメリカが最も恐れていたのは金剛型を使ったシーレーン破壊にあった。

 火力で対抗できていても足が速い金剛型をアメリカは捉えることができないと考えていたからである。


 この決定は、日本海軍内の一部に不満を持たせることになり、日米関係に影をもたらす結果を生む。

 こうして日本が保有する主力艦は、超弩級戦艦の長門型戦艦の長門、陸奥。扶桑型戦艦の扶桑、山城、伊勢、日向となり、同時に砲の換装などは条約の理念に反するとして禁じられることとなった。

また個艦制限は、基本は排水量3万5000トン、主砲16インチ砲以下。

日本は現状以上の16インチ砲戦艦を建造せず、日本の保有枠は、最大で戦艦31万トン、空母は対米7割の空母9万4500トン。

巡洋戦艦天城、赤城、高雄、愛宕は破棄。

調整で天城、赤城は空母への改造が決定される。



 アメリカは16インチ砲の保有で日本側が有利になるということから未完のレキシントン級2隻を建造することになった。

その代わりにコロラド級二隻は空母へ変更となる。これはアメリカが高速戦艦を持てなくなる事を回避する狙いがあった。

金剛型が消えても扶桑型も長門型もアメリカから見れば十分高速なのだ。


イギリスは既存の軽巡洋戦艦を空母に改装。

さらに16インチ砲艦枠に引っ張られる形で二隻の枠を与えられた。

ただしすぐに建造できるほどの余裕がないため艦建造まで代替として3隻の旧式戦艦の保有を認められる。


 このほかに太平洋の諸島の軍事基地化の禁止、日本とイギリスが主張したハワイ王国の永世中立国化と中立海域の設定が認められる。

この二つは当然ながら恒久的なものとされ、自然災害などの緊急事態を除いて、周辺海域を含めて軍艦が許可なく入ることが堅く禁じられることが各国間で約束された。これにアメリカ代表は反対を唱えたが、国内からアメリカの安全、太平洋の安定に大きく寄与するとして猛反発に合い、諸外国からも強い非難を受け、ハワイの永世中立国化を認めざるを得なくなる。

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