対立の要因

第一話 1936年 横須賀


 東京の冬は基本的に晴れた日であることが多い。大陸側から吹く風は日本列島を縦断する山で湿気を無くし、乾いた風が吹き下ろすからだ。

しかしそれゆえに乾いた空気は実際の気温以上に凍てついて肌に刺さるのだ。

 そんな中でも人々は生活の営みを止めることはなく、正確な時計の歯車のように社会を回していた。

(東北よりマシな寒さだ)

 

冷房はなくとも機関車の蒸気を使った暖房はある二等客車にゆられて新堀帝次海軍大佐は横須賀駅にやってきた。走行風で必要以上に冷える列車は基本的に暖房が強い。やや暑いくらいの車内を嫌って大船を過ぎてから車端部のデッキに外套を着込んで立っていた彼は列車が停車したのを確認して横須賀駅のホームに降り立った。


海軍鎮守府の正門の真正面にある軍直結の駅と言っても過言ではない横須賀駅を後にし横須賀鎮守府に入る。海軍工廠と一体化した鎮守府は彼が前まで居た大湊警備府よりも喧騒に包まれていた。

招集令により指定されていた煉瓦造りの建物に向かうと、見た目とは裏腹にまだ真新しいその建物には海軍人事部と書かれた木の立て札が入り口横に設置されていた。

 

関東大震災で倒壊した旧人事部の建物を二年ほど前に再建したものだが立てかけられている看板は兵部省発足時からある年季の入ったものだった。

その、一部が妙に古めかしいのは軍では珍しくもない。

軍と言っても結局は役所であり国の決済や予算配分を受けて機材の更新が測られるため新旧入り混じるのは当たり前で更新される物も意外にも民間のものより1世代古いなんていうのもザラではない。


建物の中は廊下こそ冷たいものの、各部屋には後付けの石炭ストーブが設置されておりほのかに暖かかった。

 

その部屋の一室、人事部長の成田恭平大佐はやってきた新堀大佐を見てどうにもどこか捻くれているように感じた。

初対面での新堀大佐の評価は、理想などには目を向けない現実主義者。どちらかといえば軍人より学者のような雰囲気を持っている。大学で雄弁を奮っている方が似合っているようで、何故か軍服を普通に着こなしている。と言ったものだった。

新堀の艦長任命の通達を改めて行った成田大佐に、新堀は不満でやや不機嫌な顔を隠さないでいたからだった。

その原因に心当たりがある成田大佐は、新堀に尋ねた。

「何か問題が?」

 

 

「はい、私の昇任についてですが、些か早すぎると思われます」

確かにそうなのだろうと成田は思った。彼が大佐に昇進したのは40をすぎてだいぶ経つ46歳の時だ。江田島の海軍士官学校を中くらいの成績で卒業した彼で1番平均的か平均よりやや遅いくらいといったところだ。

それが新堀は一回りほど若い32歳ながら大佐である。相当なエリートであればありえなくもないが新堀の経歴書には特段優秀で上位数パーセントというような輝かしい経歴はなかった。中の上、砲術に関して才能があると書かれている程度で至って平凡だった。

戦時であれば士官不足のために特務大佐などの名目で引き上げることはあるがあくまでもそれは戦時の話であり今はまだ平時であった。

「確かにいくら江田島で砲術科のトップの成績を収めているとはいえ中佐昇任から一年で大佐というのは異例だな。納得がいかないか?」

 

「はい、自分では経験も不足しています。参謀の中にも妬むものもいるでしょう。そうまでしてどうして戦艦の艦長を拝命する事になったのでしょうか?」

しかし成田もその事情については承知していた。少なくとも大湊警備府にいた新堀よりも海軍省が近い分情報は入ってきやすい環境だったと

「貴様だけではない。今や戦艦や巡洋艦の艦長には若い者を当てている」

 

「それはまたどうして?」

 

「一つには戦争に備えてと言うことがあるだろう。特に扶桑型の四隻はいささか事情が事情なだけあってまもなく行われる改装工事に前後してより一層乗組員の艦の習熟と秘密保全が重要となる。だからこそ改装段階から艦長含めての固定化を行いたいのだろうな。あとは条約失効後の軍拡に備えた士官ポストの増員対策だ。船は二、三年で作れるがそれを操る士官は育成に三倍は必要だからな」

 

戦争の準備。

二月に発生した陸軍のクーデター未遂事件から徐々に日本国内は戦争へ傾倒し始めている節があったのは新堀も感じ取っていた。

さらには第二次ロンドン軍縮条約が米国の脱退で締結が行われず、米国脱退によるロンドン軍縮条約自体の無効化が行われる中ワシントン軍縮会議の議定も更新されずに今月末でその条約は失効する。

本格的な海軍軍拡が始まろうとする年に起こったクーデター未遂事件は事前に計画が露呈したことによりどうにか発生前に鎮圧することができたものの、陸海軍を束ねる兵部省の責任問題に発展し、政府と軍の合間に不穏な影を落としていた。

 

しかし新堀の考えでは現在戦争に発展しそうな場所といえば満州を含む大陸であり海軍の出番は少ないようにも思えた。少なくとも戦艦などの海洋決戦兵器は陸で運用することは当然だが出来ない。

 

しかし上層部はそうとは思っていないようだった。

「満州の大陸利権絡みでアメリカと不和が出ているだろう。その件でだ」


 満州は新堀も知ってはいるが複雑怪奇で歪な国家故に個人で何かを考えるのは諦めかけていた。

 満州王国は、1911年の辛亥革命の影響で、当初中国に利権を持っていた列強の思惑により1912年に誕生した。

 以後しばらくは日本、アメリカの好景気の影響もあり、経済力、国力、人口も大きく拡大していった。日米蜜月と呼ばれる時代でもあった。

 その状態が続けばよかったが、そういうわけにはいかなかった。

 きっかけは大恐慌の発生で、満州王国にも大きな変化が訪れる。

 アメリカに端を発する世界恐慌の影響でアメリカからの資金の流れはほとんどなくなり、むしろ大規模で急速な引き上げが相次いだ。満州国内のアメリカ人の姿も大幅に減った。そこに入り込んできたのが、比較的経済が好調なままだった日本の資本でありこれで日本の影響力が一気に増した。また軍備増強の中で、満州王国軍部と日本軍、特に関東軍こと遼東駐留軍との関係が深まり、彼らは協力して満州王国から欧米、特にアメリカの影響力排除を画策するようになる。

元々満州建国前から日本の大陸での利権運用は資本をアメリカかイギリスから投入してもらって成り立っていた。そうでもしなければ日露戦争の負債で日本の経済は債務不履行すら起こりかねない状態になっていたのだ。

しかしそれを快く思わない人が多かったのも事実である。

 事が起こったのは丁度5年前、1931年9月に満州王国のクーデターが勃発した。

 1932年3月には国号を「満州帝国」に変更し、伝統的な式典を経て国王は皇帝とその称号を変えた。

そこに日本の影響がどれほどあったのかは新堀は知らなかった。だが完全に無かったわけではなく関東軍が絡んでいるのではないかくらいには考えていた。


この時のアメリカだが、クーデター当初は進出企業や資本が無事で利権も保護されるならと、むしろ事態を歓迎していた。これは賄賂ばかりを要求する支那出身の役人が消え、治安が向上して商売できる範囲が広がる可能性があると考えていたからだ。

確かにそのようにアメリカが方針的に考えたのも納得はいくが、満洲国建造の経緯と本来であれば日本の植民地であるという特性を考えればそのようなことはあり得ないとすぐにわかるはずだった。

 しかし、形ばかりでも存在した立憲君主体制が、皇帝となった溥儀を名目上の中心にして王権が強まり、その下で全体主義、国家社会主義路線に染められていくと、次第に反発を強めていくようになる。このため新政府、新国家承認はアメリカ議会が許さなかった。

さらに間が悪い事にちょうどアメリカでは大統領選挙が迫っており有効的な対策を出すことができない状態だった。

 このためアメリカ側が対策を取れないまま満州帝国の全体主義化と日本の影響力拡大が進み、強圧的な支配を嫌ったアメリカ資本は次々に満州から立ち去っていった。


 そして1932年11月に民主党のフランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領となると、ようやくアメリカは満州の現状に対してノーを突きつけ、旧体制の回復、アメリカ利権、アメリカ資本、アメリカ人の保護と状態復帰を強く要求するようになる。しかしすでに遅すぎた。

 これに対して日本側では、アメリカの傍若無人に対し独自路線選択を決意。ルーズベルト政権中に、日米関係はどんどん悪化していく事になる。

 アメリカ資本も、急速に姿を消していった。これは満州帝国政府が国家政策として実施した、独裁的な国家社会主義的な政策、つまり政府による統制と重要産業の国有化、準国有化による国力増強政策を、アメリカ資本が徹底的に嫌った結果だった。

 そしてアメリカ資本は、満州撤退に際して主に日本資本や満州政府への売却を実施した。

こうして主要なアメリカ資本のほとんどは1935年頃にはほぼ姿を消し、アメリカ人の姿も極端に減った。しかし満州帝国政府は、特に人種差別したり阻害した事もなかったので、アメリカから移民した地方の開拓農民の多くはそのまま残り、重要都市のアメリカ人も全てが消えたわけではないため、満州帝国、日本、アメリカにとって微妙な問題として横たわり続けることになる。

そんな満州を他所に日本とアメリカの対立は決定的とまでは行かなくとも、軍縮会議の不調という形で国際社会に色濃く映し出していた。




「海軍は本気で米軍と戦うと?」

「何事にも備える必要があるからな。それに戦争になってから改修を行っても間に合わないだろう」

 

上層部の勝手な都合と言うものだった。

扶桑型戦艦は海軍の中でも機密の多い艦と呼ばれている船であった。事実新堀も簡単な諸元程度は知っていたが射表、燃料搭載量、巡航速度、航続距離、装甲性能など殆どが機密によって守られていた。そのような得体の知れない船に対して、彼は最初から関わりたくはなかった。海軍出世コースを外れない程度の位置にいるのがちょうど良いと、中佐昇任とともに大湊で海防艦の艦長を拝命した時は思ったほどだった。

 

それが辞令により大佐昇任の上で戦艦扶桑艦長に任命されたのだ。

東京へ行く軍用列車の中で辞令書と共に渡された戦艦扶桑の大規模改修工事の計画書を頭に入れていた新堀は特段扶桑が機密にする必要などがどこにあるのか訝しんでいた。

 

同時にこの改修工事の艤装員長でもあった彼には機密を知る権利もあった。だがそれは横須賀に着いてからでないと出来ないものでもあった。

「艤装に必要な情報は工廠長に用意するように連絡はしてある。現在工廠事務所にいるはずだ」

 

 

埠頭に面した窓に目を向けた成田につられて新堀も窓に目を向けた。そこには埠頭に横付けされた戦艦扶桑の姿があった。ドッグ入りの準備を行っているのか船体にはいくつものラッタルが設けられ、ガントリークレーンが甲板から物資を集めた袋を運び出していた。

大規模改修工事の準備は着々と勧められていたのだった。

 

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