8

 芦屋を次に見かけたのは二日後のことだった。夕方、五時半を過ぎた頃だ。涼哉は前日、それまでと同じ時刻に芦屋を見かけなかったので、少し時間をずらしてみたのだ。すると本当に芦屋はいた。歩いている彼女を後ろから見かけた。

 話を聞くと前日はそもそも散歩には出なかったようだ。公園の先にある図書館で午後は過ごしていたという。会えるはずもなかった。

「じゃあ今日はどうしてこんな時間に」

「特に理由は」

「……俺のせい?」

「そこまで西垣のこと気にしてない」

 それはそれで傷つく。

 遠く鳥の鳴き声が聞こえた。二人は歩きながら話を続ける。

「芦屋はその、決まってんの。四月からのこと」

 通信制大学の就活とはどんな感じなのだろうと気になっていた。

 芦屋はあっけらかんとして答えた。

「さあ。就活諦めたから」

「え」

「向いてないって思ったから、辞めた」

「そう……それでいいのか」

「生きてはいけるんじゃない?」

「そういうもん?」

「知らないけど。私はそう思ったから、そうしてる。自分で決めたから、それで良くない?」

 芦屋は自由だと思った。彼女にとっては世間でこうするべき、ああするべきだということは大して重要ではなくて、むしろ自分の美学で動いている。気ままといえばそれまでだが、短絡的な人間だとは思わない。十年のブランクがあれど、少し会話しただけでもよく思考して考えが隅々にまで行き届いているのだと人に思わせるのが芦屋だ。

 そこで涼哉はふと思い出す。

「そういえば、絵は描いてんの?小学生の頃めっちゃ上手かったじゃん」

 憧れていた芦屋はなんでもできて、特に図工、美術的なセンスがずば抜けていた。学年の中で一番上手かったといっても決して過言ではない。むしろ校内一だったかもしれない。

「描いてない。高校まではやってたけど」

 思いがけない答えに涼哉は芦屋を見つめた。その横顔には特別なんの感情もなく、ただ事実を語った顔があった。

「意外。芦屋は絵で食べていく人だと思ってた」

「ははは。難しいこと言わないでよ」

 そんなことを言うとは思わなかった。何せ思い出の中の芦屋はなんでもできる天才で、特に美術の才能は本物だと思っていたからだ。それは素人目から見たって確かなものだと思う。

「……なんかあった?」

 芦屋は意外そうな顔で涼哉の方を向いた。そして少しだけ笑って、口元だけで笑って、言った。

「別に、特別何か言われたってわけじゃない。ただまあ、世間にはすごい人がいて、そこについていくのは無理だって思っただけ」

 世界が広がれば広がるほど、自分より才能のある人間がこの世にいることを知る。そしてそれに気づいて、自分でも感じていなかった無意識に身についていた天狗の鼻はへし折られ、挫折を経験する。

 それは涼哉も同じだ。涼哉の場合は陸上競技が手放し難い光だった。

 幼い頃から体を動かすことが好きで、特に走ることは大好きだった。子供の頃はただ速く移動できることが面白くて、通り抜ける風が気持ちよくて、走っているといつもの景色が特別なものに見えた。成長するにつれて、もっと速く走れたらどんな景色が見られるだろうと思った。だから中学で陸上部に入ることに迷いはなかった。

 初めて入る部活という環境は小学校とは全く違って、上下関係や独特のルールなど制約も多かったけれど、放課後に走りに熱中できる環境があるということに満たされていたし、何より自分の走りを磨けることが嬉しくてしょうがなかった。

 熱心に打ち込んだこともあって、涼哉の記録はぐんぐんと伸び部内でも上位に食い込むほどになった。そのうち大会にも出るようになり、地区大会の表彰台には何度か登った。

 だが、それだけだった。地区大会で記録を残すことはできても、その先の都大会ではまるで歯がたたない。全国大会なんて夢のまた夢で、三年間で一度もその地に立てたことはことはなかった。

 涼哉は最後の大会が終わったその日の夜、ベッドに体を横たえながら思った。自分はこんなにも頑張ってきた。部活は誰よりも真面目に取り組んだし、風邪以外で欠席したことはなかった。理不尽な上級生のいびりや命令にも挫けず文句も言わず従い、下級生にはそれを反面教師にして優しく接した。プロの映像を見て研究し、データだって細かく集めて穴が開くほど見つめて改善点を考えた。部活だけに打ち込んで勉強が疎かになるのも格好悪いと思ったから勉強だって頑張った。

 それでも、それでも届かない。自分はこれほど頑張っているのに、部内の一位にもなれない。部内で一番の記録を持っているのは涼哉が親しくしていた後輩だった。監督と彼が話しているのを聞いた。どうやら強豪の高校が彼の走りを見ていたらしく、その学校から推薦が貰えるかもしれないという話だった。それが悔しくて、羨ましくて、辛くて、どうして、どうしてと何度も唱えた。お疲れ様でした、という後輩たちの声も届かず、涼哉は帰りのバスで疲れたと眠ったふりをした。自分のことは話題にあがらないでくれと心で必死に願いながら。

 真っ暗な天井を見て、陸上はもうやめようと誓った。このまま続けてもなんの意味もない。プロには絶対になれない。なれないとわかっているのなら続ける意味はない。そんなの時間の無駄だ。部活に使っていた時間はもっと有効に使おうと決めた。勉強して、友達と遊んで、彼女でも作って楽しく過ごす。少しだけ涙を流して眠った。

 あれほど手放し難いと思っていた光であっても太陽は東から上がり、朝は来た。光を失うことなんかないと思ったのは、ゴミ置き場に陸上で使っていた道具や本を捨てに行った時だった。

 なんとなく、生きていくのが楽になった気がした。昨日まで命よりも大事だと思っていた陸上を失っても自分はこうして普通に息をして、飯を食べて眠ることができる。この世にかけがえのないものなんて本当は一つもなくて、それが欠けたところで代替品はいくらでもある。そういうものなんじゃないかと思えた。

「わかる。自分より才能あるやつなんてザラにいるよな」

 正月にやる駅伝が見られなくなったのは部活を辞めてからだ。自分は短距離の選手だったのに、同じ陸上を今も続けている彼らのことはどうしても見られない。

 最後に全力で走ったのはいつだっただろうか。もう何年も前のような気がした。

「でも一番辛いのは」

 ふいに芦屋が空を仰ぐ。

「自分で諦めたことだったりするんだよなあ」

 じり、と肌が灼けたような気がした。

 芦屋は涼哉の方を見もしないで続ける。

「自分より才能がある人がいたところで、続けたければ続ければよかったんだよ。私の周りには辞めろっていう人いなかったんだから、あのまま続ければよかった。悔しさをバネに、ってやつで続ければよかった。でも、私は自分で判断して、自分で辞めた。誰のせいにするつもりもないけど、しないしできない。全部、自分で決めたから」

 全部、自分で決めた。涼哉は芦屋の言葉を聞きながらあの日見た天井を思い出していた。

 オレンジに染まった空が芦屋の横顔を照らす。

「芸術科のある高校に行ったの。ずっと絵を描くのは好きだったから、将来は絵を描く仕事に就きたいって本気で思ってた。何も疑わなかった。その学校に行くために受験勉強も頑張って、合格したら珍しく学校に行くのを夢に見たりして。それで一番最初の美術の授業、私はすごく楽しみにしていたわけで」

 芦屋は熱心に授業に臨んだ。最初の課題は基本的なデッサンだった。鉛筆の削り方、真っ新な画面はいつだってワクワクさせるものだった。中学までの美術の成績はいつだって良かった。だから自信を持って授業を受けていた。

 けれどその自信はすぐに姿を消した。

 一つの課題が終わった時、全員の作品を並べて飾る。美術作品ではよくあることだし、美大受験に熱心だった先生は自分の位置を把握することを何より大事にしていた。

「その時気づいたよ。私、大したことないんだって。わかるもんなんだよね、上手い下手っていうのが明確に」

 それでもその時は悔しさが新しいガソリンになって火がついた。二年生からは本格化して授業も課題も増えた。一つ一つの課題は大変だったが、好きなことができる喜びは確かに本物だった。

 けれど、どの課題もピンと来なかった。それは成績のこともだが、何より自分自身で以前のように描けなくなったと感じていた。何かが違う、けれど何が違うのかは忙しない日々が思考するのを許さない。得体の知れないもやが胸を覆いながら、手を動かしていた。

 そしてそれはついに表面化し、具現化し、明文化された。

「三年になったら当然、皆受験のことを話し始める。私は美大を何個か考えてた」

 だが同じ学科にいる人と話をしたとき、確実に何かが壊れた。

「私はどこに行きたい、どこに行くためにはまだまだ頑張らないと、そういう子達が多くてね。まあ受験生なんてそんなものだから、その時は気にならなかったんだけど」

 引き金を引いたのは一年から芸術科を担当していた先生だった。

「授業が受験のための授業になった。美大に行くために石膏デッサンをやる、デザインの課題はこういうのが出やすいから、同じような課題をやる。私その時、あ、違うって思った」

 ずっと胸にあった違和感。その正体に気づいて、そしてその穴から熱が吹き出してしまったような気がした。

「受験のために絵を描くの、私、違うなって。私は美大に行きたいんじゃなくて、絵を描き続けたかったの。おばあちゃんになってしわしわの手で絵筆を握って、自分の好きな世界を描きたいっていうのが私の願いで、美大に行くことが目的じゃない。だから、ここで頑張れないって、このまま頑張れないって思った」

 そこから芦屋はある意味肩の力が抜けたらしく、適当に課題をやるようになったという。もちろん手を抜いているわけではない。ただ、以前のような熱量は無くなった。いつもどこか俯瞰で自分を見ているような感覚だった。

「先生たちからすれば受験のために教えてるから、あれで良かったんだろうけどね。他の教科だって受験のために授業をしてる。普通のことだってわかってる」

 受験のために勉強するのは普通。普通じゃなかったのは私、と芦屋は呟いた。

 美大に行きたい生徒の気持ちはわかる。将来絵を描いたり、美術を活かして職に就くなら美大や専門学校に行くのが一番だ。そこに行けば就職が有利に働くことだってある。だから彼らのことを責めたりはしない。むしろその情熱は美しいと思ったし、応援だってしていた。先生たちだって熱心に指導してくれたと思う。それについていけなくて、勝手に道を逸れたのは誰でもない自分自身だと芦屋は自覚していた。

「楽しくなかったんだよね。いつか夢中になって絵を描いてたのは、それが楽しくて何より自分を昂らせるものだったから。でも、受験のための絵は全然楽しくなかった。私の本質は、美大に行くことじゃなくて楽しいかどうかだったんだよ」

 言って芦屋は寂しそうに笑った。

 芦屋の話を聞いて涼哉は自分自身のことを顧みた。自分で決めた、という言葉がずっしりと胸に沈んでいる。そうだ、涼哉だって自分で決めたのだ。陸上を辞めることを自分で決めた。家族に相談もしなかった。自分自身で決めて、辞めた。

 それでも涼哉はどこかで自分が陸上を辞めたのは他に才能がある人がいくらでもいるからだと思っていた。自分が辞めた理由は自分に才能が無かったからで、もし自分に才能さえあれば今だってきっと続けていた。心のどこかでそう思っていた。どこかで、人のせいにしたいと思っていたのだ。それが一番楽だからだ。

 だって、全てが自分の責任だなんて、あまりにも残酷だ。

 その残酷さを受け入れて芦屋は今、生きている。怖くなかったのだろうか。それでいて本質まで彼女は見つけていた。何のために絵を描いていたのか、楽しいからだという。他の人が美大に行くことを目的にしていた中、彼女だけがその本質に気づいていた。

 自分はどうだろうか、と涼哉は考えた。自分は役に立たない、辛いからという理由で陸上を辞めた。でも本当は陸上のことを嫌いになってなんかいなかったのかもしれない。役に立たなくても続けたのは続けたかったからで、辛くなったのもこのままじゃ大人になっても続けられないと思ったからなのではないか。走ること自体を嫌いになったことなんて、一度もなかったんじゃないのか。それなのに役に立たないと勝手に判断した。あれほど愛していたはずの陸上を貶してしまった。

「まあそれでも辞めたけど。どうも筆を持つとあの頃を思い出してトラウマ再生、みたいな気がして、しんどいから」

 結局美大に行くことを信じた彼らが正解だったんだよ、と芦屋は不自然に明るく言った。

「この世は疑問を抱かず続けたもん勝ちだよ、やっぱり」

 涼哉ははっきりと告げる。

「俺は芦屋のこと、間違ってたとは思わない」

 涼哉は芦屋をまっすぐ見つめた。切長の目が少し大きく見開かれている。

「芦屋は自分で考えて、先生と生徒の歪さに気づいたんだろ」

「いや、でもそれは普通のことだし。授業なんだから」

「それでも、学業の本質としては芦屋の方が正しい」

 楽しいと思えることで学びは深まる。そういうものの積み重ねで人生はできているんじゃないのか。嫌いなことを続けようとは思わない。涼哉が陸上を選んだ理由だって、ただ走ることが楽しかったからだ。役に立つとか内申点が上がるとかそういうのではなく、ただ続けたかったから続けたのだ。その選択を間違いだとは思いたくない。

「そう思えた芦屋の方が、俺はかっこいいと思う」

 今の涼哉の一番素直な言葉を伝えた。たとえ今の芦屋が美大に行った彼らよりも絵が描けていなくても、絵を描く仕事をするという夢が叶えられていなくても、本質に気づいている芦屋が劣っているわけがない。そんなのどうしようもなくかっこいいではないか。

 そして芦屋の本質を射抜いた言葉が涼哉を救った。いつまでもずるずると引き摺っていた重い荷物に向き合うことができた。あの時の気持ちに気づかせて、言葉にできたのは芦屋のおかげだ。

 芦屋は少し前を歩いていた。その背中から感情は読み取れない。不意に足を止めると、「自分語りしすぎた。ごめん」と言った。涼哉は首を横に振った。

「俺の話も聞いてくれない?」

 雲の隙間にオレンジと青が混ざり始めていた。

「今日はもう遅いから、また今度ね」

 芦屋はに、と笑った。

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