7

 その日の夜、ベッドに寝転んで天井を見上げた瞬間、携帯が通知を告げた。

 明日香からの連絡だった。何気なく開くと、神奈川旅行で行きたい店の情報が写真付きで送られていた。

 それを見た時、涼哉はあ、と思ったのである。それは小学生の頃、ランドセルにこれから使う教科書が入っていなかった時のような感覚に似ていた。そういえば昨日ランドセルの中を整理して、その時教科書を一回出してしまっていたのだ。だから教科書がランドセルに入っていない。それに学校で気づいてしまった。忘れていたことに今まで気づいていなかった。そんな感覚だ。

 そうだ。そうだった。涼哉には彼女がいた。別に忘れていたわけではないのだけれど、それがなぜかとても他人事のように思えたのである。

『良さそう。行ってみようか』

 と返信をする。するとすぐに知らないキャラクターのスタンプが返される。

 携帯を傍に放り出し、もう一度天井を見上げた。

 明日、散歩に行ったら芦屋はいるだろうか。逆に少し気を使わせてしまって、いつも通りの時間に彼女はあそこを通らないかもしれない。そうだったら悪いことをしてしまったなと思う。そもそも明日は晴れるのだろうか。

 そこで涼哉はやはり考えることにした。だめだ、このままではと思った。避けようにも涼哉の心が向き合えと言っていた。

 これは浮気なのか。いいや、そんなわけがないのだ。涼哉はすぐに否定した。

 そもそも別に芦屋のことは好きとかではない。かつて好きだった人なだけで、今の芦屋を好きとはいえない。涼哉が好きだった芦屋千晴はせいぜい十二歳の頃の芦屋までで、二十二歳(誕生日がいつかは知らないので仮に二十二歳としておく)の芦屋が好きということにはならない。別にまた会う約束をしているわけではない。また『会えたら』と言っただけである。明日香に後ろめたいことなんて一つもしていない。かつての同級生に、また会ったらその時はという会話をしただけだ。

 瞼を閉じると芦屋の姿が浮かんだ。あまり変わっていなかった。大人になっている、という感想こそあれ雰囲気はあの頃のままだ。あの頃のまま、同年代の他人が持つものよりも色が違う感じ。

 明日も会えるだろうか。ただ、久しぶりに会った同級生という意味でだ。本当にただの同級生として、彼女に会いたいと思っていた。


 夕方が近づくにつれ、涼哉はそわそわしだした。

「デートでも行くの?」

 茜は不審に涼哉を見つめる。

「違う。散歩」

「だったら早く行ったら?そんなにソワソワしてるんなら。別に今行こうがちょっと後から行こうが関係ないでしょ」

「関係なくは……」

 ないのだ。

 しかし、このまま家にいても落ち着かないのは事実だ。家を出るだけ出て、その辺をふらついていれば昨日と同じ調子であのベンチに辿り着けるだろう。このままここにいると茜にあらぬ誤解をさせることになるかもしれない。

 涼哉が家を出ようと玄関に向かったとき、夕斗が部屋から出てきた。前髪をヘアバンドで上げているのは、前髪がすっかり伸びているからだ。

「あれ、兄貴どっか行くの」

「ああ、ちょっと。つかお前、今起きたのか?」

 夕斗は寝巻きのTシャツと短パンで、いかにも眠そうな顔をしている。

「昨日……ていうか今日か。朝までゲームしてたからさあ」

「お前な……ゲームすんのは勝手だけど、やることはちゃんとやれよ。集中講義とかあんだろ」

「まあね」

 その日はちゃんと起きてるよ、と夕斗は言い残して洗面所へ向かった。ふと茜の言葉が過ぎる。『反動ね』と茜は言った。長く辛い受験勉強が終わって大学生になった反動か、と涼哉は思った。


 今日も今日とて夏は暑く、高い空と湿った風は外に出たことを後悔させる。それでもなんとか進もうと思うのは、芦屋がいるかもしれないからだ。昨日はあまりにも突然すぎて思い出話もできなかった。せめて今日は思い出話の一つや二つはしたいものだ。

 もし叶うのであれば、あの日のことも聞いてみたい。かつての放課後、一人泣いていたあの日のことを聞ければ、涼哉の胸のしこりのような異物感はなくなるような気がするのだ。

 そうすればちゃんと、芦屋のことをかつての同級生として真っ直ぐ向き合える。

 公園に着くと涼哉はまずあのベンチの方へ向かった。そこには芦屋の姿も、確か『みちよさん』だったか、彼女の姿もなかった。やはり時間帯が多少なりとも違うと会えないのかもしれない。それか今日はそもそも来ていないのか。そう思うとこの暑さの中出歩いたことが無駄足に思えて疲労感が募る。

 まあとにかくもう少し時間が経たないことにはわからない。涼哉は踏み出して道を進んだ。

 サギが空を飛んでいく。この公園の中でよく見る鳥だ。遠目で見ていると気にならないのに、いざ空を飛ぶ姿を見るとその大きさがよくわかる。鳥の羽は人が思っている以上に大きい。

 眩しい。そう思って日陰を探すと、藤棚があることに気づく。もちろん藤の花は咲いていないのだが、葉で覆われているのでちょうどいい日陰だ。

 そのベンチの側、川面を眺める後ろ姿を見つけた。キャップを被った頭は縛った髪をその中にしまっていてうなじが見える。落ち着いた青のTシャツにジーンズというシルエットは、昨日の彼女の姿とほとんど変わらない。

 すう、と息を吸ってから近づいた。

「芦屋」

 ベンチ一個分離れた距離から声をかける。芦屋は顔半分だけ涼哉の方に向けた。

「どうも」

 小さく答えた芦屋は川面に目を戻してしまう。涼哉はそれが少し悔しかった。

「なんかいんの?」

 かつての同級生との再会よりも劇的なものがあるのかと思って聞いた。

「別に何も。ただ綺麗じゃない?それ以外に理由って必要?」

 どこか突き放すような言葉に涼哉は焦った。

「いや、そんなことは……。てか、偶然だな。また会えた」

 芦屋は横目でちらと涼哉を見て偶然、と呟く。

「偶然ではないでしょう」

 涼哉はえ、と思う。まさか必然、なんてロマンのある言葉が続くのかと思った。だが、芦屋は声の調子を変えずに続ける。

「私はほぼ毎日この公園の中うろついてる。だからこの公園に来さえすれば高い確率で私に遭遇する。別に珍しいことなんかじゃないし、偶然でもない。偶然というには、いささか状況が出来上がりすぎてるように思う」

 涼哉は一瞬時間が止まったかのように思えた。芦屋の発する言葉の意味を理解するのに多少時間がかかったのだ。芦屋は毎日うろついてるのか、ということは会うのもそこまで難しいことではないのか。いや、そんなことはこの際どうでもよくて、涼哉が呆気にとられたのはその言葉と彼女の思考だ。涼哉は久しぶりに再会した同級生との会話として当たり障りないテーマを考えなしに発言したのだが、芦屋は思いもよらない返しをしてきた。

 そうか、偶然ではないのか。納得しかけたところで涼哉はふと気づく。

「でも、場所がわかってたって時間はわかんないだろ。芦屋がいつ公園の中にいるかなんて、本人しか知らない」

「この暑すぎる夏に日中散歩しようって人の方が少ないと思うけど。実際、日中よりも日が落ちて来てからのほうが散歩してる人多いし。それに」

 芦屋は涼哉の目を見た。切れ長の目が射抜くように涼哉を捉える。

「もし、西垣がまた会えたらって本気で思ってたら、昨日と同じ時間を選ぶでしょ」

 その瞬間鋭く芦屋の視線が涼哉に刺さった。血液の代わりに汗が噴き出すのを誤魔化すように川面に視線を逸らす。強い風が吹いて川の水面がわずかに動く。そのくせこの気温じゃ風は生ぬるくて、ちっとも涼しくなんてなかった。

「だから偶然でもなんでもない。それなりに高い確率の中、私たちは『また会った』だけ」

「……じゃあ昨日は?」

 涼哉は気を取り直して芦屋に言った。

「俺、普段はこの街にいないんだよ、大学で家出たから。たまたまこっちに戻ってきてただけ。そんな俺が突然この公園に来て、芦屋と会ったのも、高い確率?」

 芦屋は少し考えるようにしてから答えた。

「地元なんだし、別に珍しくはないんじゃない。でも、なんでここなのかは……わかんないね。それは偶然かも」

 そう言って芦屋は少し笑った。それを見た時、涼哉はとても安心した。彼女は今もちゃんと笑って過ごしているのだと身をもって実感したのだ。それほど上手に、素直に彼女は笑えていた。

 芦屋は口元に笑みを残したまま涼哉に聞いた。

「なんでわざわざ公園なんか歩いてんの?暑いじゃん」

 涼哉はその質問がおかしくて笑いながら答えた。

「その言葉そのまんま返すわ。実はこの前、妹と夜にこの公園通ってさ。久しぶりに来たもんだから、懐かしくてな」

「ああ……確かに。小学生の時とかよく来てたな」

「そうそう。課外活動でも来たよな」

「そうだっけ」

「覚えてねえ?」

「あんまり。人の記憶には差があるからね」

「なんだその名言っぽいの」

「同じものを見ていても、経験しても、人によってどう思うかは違うからさ。覚えてることだって違うもんじゃない?」

「まあ、確かに」

 そういえば最近父や母と必然的に思い出話に花を咲かせるが、その中にもそうだっただろうか、そんなことがあったのか、と思うことがある。涼哉の見ている視線と両親の見ている視線は違い、思うことも違う。だから覚えていることも違う。語りたい思いもまた違ってくるのだろう。

 涼哉は芦屋をちらと見る。その横顔は尚も川面を見つめている。大人びた雰囲気だと思っていたが、もしかするとそれはもはや悟りにも近い何かを得た人の空気なのかもしれない。こんなことを普通に喋る人は、大学の先生くらいでしか会った事がない。もしかすると、芦屋は本当にすごいところまで行っているのかもしれない。

 気になって涼哉は聞いた。

「芦屋、今何やってんの」

「川を見つめてる」

「いや、そうじゃなくて。大学生?」

「んー、一応」

「一応?」

「通信制の大学」

 涼哉は驚いた。決して顔には出さなかったけれど、そうか、とそっけなく返事をしたけれど、確かに驚いた。あの芦屋がまさか通信制の大学を選んでいるとは思わなかった。てっきり東大や有名私大のどこかに行っているもので、そこでしっかり大学生をやっているものだと思っていた。だから驚いた。そしてそれ以上に、その事実にどこか傷ついている自分自身に涼哉は驚いてしまった。なんだかあの時、自分が憧れていた優等生の彼女が壊れていくような気がして、それが思った以上にショックだった。

 学歴が全てではない。そんなことはわかっていて、わかりきっていて、理解を示していた。有名大学に行くことが全てじゃない、専門学校や高卒の人を下に見ているつもりは全くなかった。それなのに、あの芦屋が通信制の大学に進学したという事実が、どうも引っかかる。ショックを受けている自分がとてつもなく嫌な人間に思えた。

「西垣は……大学って言ったよね、さっき」

「え、ああ」

 動揺していたからか、聞かれてもないのに自分が通う大学の名前を出していた。都内にある有名私大のうちの一つで、知らない人はあまりいない。受験生から見れば憧れの大学の一つで、立派なキャンパスが自慢の大学の名前。

 芦屋はそれを涼哉の方を見ることもなく聞いて、

「ふーん」とだけ言った。

 ああ、芦屋は大学の名前で人を判断したりはしないんだな、と涼哉は思った。むしろそんなことはどうでもいい情報で、時折魚が跳ねる川のほうがよっぽど面白いと思える人間なのだ。数合わせで行った合コンで、他校の女子が涼哉の大学名であんなに盛り上がっていた事が無性にアホらしく思える。そしてそれにいい気になっていた自分自身にも。

 自分の中に積み上がっていた当たり前の何かが崩れたような気がした。世間一般から見たら当たり前のことでそれに納得して大切にしてきたのに、芦屋の言葉で全部壊れていく。だからって芦屋を嫌いになるわけじゃなくて、むしろその嫌悪の刃が自分に向けられる感覚は初めてだった。

「芦屋、明日も会える?」

 無意識で聞いていた。

「さあ。雨降ったらわざわざ外出ないし、暑いのが嫌だって思ったら嫌だし」

 私の自由、と芦屋は答えた。

「昨日私が話してたおばさまいるでしょ」

「ああ」

 名前はワタナベミチヨさんだと記憶している。

「別に約束なんかしてないの。どっちかがあのベンチに座ってたら声をかける、くらいの距離感。何日の何時にここにいるとか、そういうの全く知らない。お互いの時間が重なった時だけあそこで話してる。それが好きでさ。だからまあ、約束みたいなのはね。いらないんじゃない?」

 拒絶のように受け取れる彼女のそれは、涼哉の心に確かに影を落とした。だが、裏を返せば、作られた偶然の中ならば彼女に会うことはなんの問題もないということを示していた。だからそれは決して拒絶ではなく、むしろもっと軽い挨拶のようなもので、涼哉にとってはありがたいものだった。

「そうだな」

 涼哉は答えて、芦屋はふらっと帰っていった。その背中を見送りながら、涼哉は決意する。

 涼哉の中には自覚すらしていない問題点がある。今日気づいた嫌悪の刃はきっとまだ涼哉の中に無意識的に仕舞われていて、この先使ってしまうかもしれない。これから涼哉は社会という大海で船を漕がねばならない。そこで刃の使い方を間違えて仕舞えば、取り返しのつかないことになる。ならば、その刃を先に壊しておくべきだ。そうしたいと思ったのだ。

 芦屋の言葉を聞いた時、刃が自分に向いた。今まで信じていたものが壊れた。でも、不思議とどこか爽快感を覚えている。ああ、そうだったのかと思えている。まるで数時間悩み続けた数学の問いが思ったよりも簡単に解けると知った時のような、そんな感覚だ。

 幾つもの問いが涼哉の中にある。それを芦屋が解いてくれるような気がするのだ。その問いがなくなればきっとちゃんとした大人になれる、そんな気がした。涼哉はこの偶然を手放すわけにはいかなかった。

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