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 翌日、涼哉は昨日の公園に出掛けた。日中に行くのは早々に諦めた。あの炎天下で出歩いていたらあっという間に熱中症になる。少しでも日が傾きかけている方がいい。しかし、昨日ほど真っ暗になっていても変わり映えしない。四時ごろ、小学生が帰り始める時刻に家を出た。

 この時刻なのにまだまだ茹だる暑さは健在だ。やはりここ最近の真夏はおかしい。まとわりついてくる暑さに汗が噴き出す。夕方でも長居はできないなと思う。

 公園の入り口に着く頃にはしっかり汗を掻いてしまった。涼哉は道すがら自販機で買ったペットボトルのスポーツドリンクを飲む。甘い、と思った。

 こんなに暑いのならば出歩くべきではなかったと思い始めていたが、川沿いだからなのか風が通ると若干の涼しさがある。それに木が多く植えられているから日陰も十分にある。街中を歩き回るよりはよっぽど快適である。

 それにしても懐かしい光景だ。公園内の一角にさらに小さな運動場には何度か来た覚えがある。それこそ炎天下でも追いかけっこをする体力があった時代だ。いつからか遊ぶのは家でゲームになってしまっていた。なぜなのだろう。

 蝉があちこちで鳴いている。鳴くのはオスだけなんだということを、いつかの自由研究で調べたことがある。あの時はそうか、としか思わなかったけれど、今は生存戦略としてそれが一番蝉にとって効率がいいんだと現実的に捉えられるようになった。

 メスを探して大声で鳴く。自分はここにいると必死に鳴いているのだ。

 川風を浴びながら遊歩道を進む。スポーツウェアに身を包んだ中年の夫婦通りすがる。夏休みでどこかへ出かけていたのか、家族連れが通り過ぎていく。その先にはベンチが二脚、藤棚の下に置かれていた。

 涼哉は少し休憩しようと思ってそのベンチに腰を下ろした。一方のベンチは既に客がいた。親子だろうか、時折楽しそうに笑っていた。

 スポーツドリンクを口に含む。すっかりぬるくなってしまい、あまり美味しくない。部活に励んでいた頃を思い出して、少しうんざりした。西日が眩しい。太陽を浴びるとセロトニンが分泌されるらしいことを思い出した。確かに、少し落ち着いたような気がする。なんだか最近はどうでもいいことを悶々と考える日々が続いた。自分の長所とか、そんなものはもう内定を貰ったのだからどうでもいいではないか。就職活動なんて皆少なからず嘘をついて飾って見せるものだ。涼哉の場合は、もともと悪くない素材にどこにでもあるような飾りをつけたら良い見た目になるのは当然だ。結果が全てだ。過程なんて問題ではない。それが本当かどうかもどうでもいい。ただ、他の人と同じ型に見えているのなら、それでいいのだ。

 涼哉はベンチから立ち上がった。スポーツドリンクの中身も無くなりそうになったので帰ることにした。隣のベンチでは親子がまだ会話を続けている。

 頭の中がクリアになった気がする。散歩を続けるのも悪くないかもしれない。


 翌日もほぼ同じ時刻に出かけた。今度は事前に凍らせておいたペットボトルを持参することにした。これならばぬるいスポーツドリンクを味わう必要がなくなる。

 昨日とは別の道を歩いてみた。どこへ行っても蝉の声は聞こえる。小学生が木に張り付いている。その側で父親が見守りながら、あと少し、そーっとだ、と声かけをしている。微笑ましい光景だと思った。いつか自分にもああいう日が来るのだろうか。その頃にはもっと暑くなっているのではないかと思うと、少しの絶望感を覚える。いや、もしかするとそう遠くない未来なのかもしれない。数年後には結婚して、それからもうしばらくしたらあっという間に父親になっていたりするかもしれない。決してありえない話ではないし、むしろとても現実味のある話だ。

 少し歩くと、対岸に昨日腰掛けたベンチが見える。そこには昨日の親子が同じように座っていた。年配の女性と若い女性がのんびりと会話している。親子と思ったが、もしかしたら祖母と孫かもしれないなと思った。昨日は帽子を被っていたからわからなかったが、年配の女性は真っ白な髪が印象的だ。若い方は涼哉と同じくらいだろうか。キャップを目深に被っているので表情は見えないが、Tシャツにジーンズという軽い装いと着こなしがなんとなく若そうだし、涼哉とさほど変わらないかもしれない。 

 遠目で観察していると、ふいに年配の女性が立ち上がった。そして若い女性に手を振るとすたすたと歩いて行ってしまった。涼哉はあれ、と思った。もしやあの二人はただの知り合いで、血縁関係などはないのかもしれない。

 不思議な関係だと思って、涼哉はなんとなく残った女性のことを見つめた。女性は川面を眺めているが、川面には何もない。時折きらりと反射するだけで、ただゆっくりと流れていく水の塊が細かく波打っている。しばらくすると向こうもこちらに気づいたのか、パチリと目が合った気がした。女性はベンチから立ち上がり、早足でその場から去ってしまった。流石に少し反省した。


 次に公園に向かったのは翌週のことだった。バイトがある日は自分の部屋で寝起きする。卒論をちまちまと進めつつ、秋成や明日香との旅行の日程を詰めてから、実家に帰った。

 秋成との旅行は九月の初め、明日香とは八月の真ん中に設定した。明日香は本命の企業との面接が七月の末に控えているので、それが終わってからと言われた。秋成は少しでも暑さのピークを避けたいとのことで九月に入ってから行こうと決めた。それ以外の日はバイトと卒論にだけ従事すれば良いのだから、涼哉としてはシンプルな夏休みだ。

 人生で最後の夏休みなのだ。それくらい単純な方が覚えていられる気がする。十年経った頃、案外思い出すものかもしれない。この公園を燃えるような暑さと歩いたことはなかなか忘れられないような気がする。

 植えられている紫陽花はすっかりカラカラに乾いて、花びらが茶色く変色している。綺麗なものも盛りを過ぎればこんなものである。老いを象徴するように、醜く変化していく。若さとは儚く、しがみついていないとあっという間にこの手をすり抜けて、二度と拾うことはできない。

 道端では別の花も咲いている。名前も知らないその花もやはり枯れ始めている。背丈の高い花だ。派手な花がいくつか咲いていたが、終わりが近そうだ。

 涼哉はいつものベンチに辿り着いた。ちょうどいい休憩スポットになりつつあって少し笑えた。西日はいつも通り眩しく涼哉の目の前にあって、隣のベンチにはあの年配の女性がいた。今日は若い方の女性はいないらしい。

 手持ち無沙汰な涼哉はスマホで日光東照宮を調べた。秋成との旅行で行こうと思っている東照宮だが、事前に背景を詳しく調べておこうと思ったのだ。小学生の時は強引に調べさせられ面倒だと思ったが、自分で興味を持って調べるとなると楽しい。

 日光東照宮は徳川家康を御祭神に祀った神社。家康は七十五歳で亡くなったらしい。今でもそれなりに長生きだと感じるのだから、当時からすれば相当長生きと捉えられただろう。平成には大修理がされたのか、歴史的建造物の修理って大変そうだ、などと素人じみた感想を持った。

 涼哉がスマホに気を取られていると、ふと隣のベンチに腰掛けていた女性が声を上げた。

「あら、こんにちは」

 誰か来たようだ。しかし涼哉は日光東照宮のホームページをスクロールするのをやめず、耳に女性の声だけがなんとなく入っていた。

「こんにちは」

 女性の声だ。少しハスキーだが芯のある声、おそらくいつものあの若い女性だと思われた。

 次は鎌倉の大仏を調べるか、と思った時だった。

「今日も暑いわねえ、ちはるちゃん」

 涼哉は思わずスマホをいじる手を止めた。というか、止まったのだ。

 ちはる、という名前に反応した。今、確かに年配の彼女は「ちはる」と言った。

 どきりとした涼哉だったが、すぐに冷静さを取り戻す。別にちはる自体は特別珍しい名前でもなんでもない。よくある名前だ、学生生活の中でも何度か見かけたことはある。

 鎌倉だ、鎌倉の大仏を調べようとしていたんだ。涼哉はそう思って検索エンジンに「鎌倉 大仏」と入力し、検索キーを押す。高徳院のホームページがヒットする。迷わず押した。

「聞いてちはるちゃん。さっきね、カワウがそこで羽を乾かしてたのよ」

「たまにやりますよね、カワウ。あれ、見ちゃいますよね。羽が綺麗で」

「そうなのよ。なんていうのかしら、昔の絵画みたいよね」

「日本画の絵師たちのデッサンが結構忠実なんだなってわかります」

「さすがちはるちゃんねえ。物知りだわ」

「そんなことないですよ。たまたま知ってるだけです」

 ホームページをクリックしたはずなのに全く情報が入ってこない。一二五二年という数字だけが何度か目に入ってくるのに、頭の中では隣の会話が流れている。カワウってどの鳥だ、日本画ってどういう意味だ。そんなもの見たことない、思わず検索しそうになるのを必死で止める。

「始祖鳥を思い出します」

「始祖鳥?」

「カワウが羽を広げてる姿、どこかで見た始祖鳥の化石を思い出すんですよね。ポーズが似てて」

「そうなの。私は見たことないわぁ」

 始祖鳥なんて言葉随分久しぶりに聞いた。中学高校の授業で聞いて以来だ。そんな単語が日常生活の中で自然に出てくるなんてどんな人間だ。

 涼哉は目だけを動かして隣のベンチを見る。右側のベンチに座っている涼哉からは、ベンチの右側に座っている年配の女性が見え、奥に座っている「ちはるちゃん」の姿はよく見えない。前屈みになればその顔が確認できそうなものだが、あまりにも不審者すぎる。

 涼哉は冷静になれ、と自分自身に言い聞かせる。何度も言うが「ちはる」は別に珍しい名前なんかじゃない。松山千春だって同じ「ちはる」だ。世界に一人しかいないわけでもないのだ。だが、この地域で「ちはる」というのはどうなのだ。いや、そもそもこの「ちはるちゃん」がこの地域で生まれ育ったかなんてわからないし、可愛い名前だからつけたがる親はいくらでもどこにでもいる。でも、年齢は涼哉と変わらなそうだと初見で思ったのは事実だ。それならばこの思い込みはもしかして、もしかしてだ。

 どうにかして確認したい。ふと脇に置いていた凍ったペットボトルに目がいく。そこで涼哉は名案を思いついた。このペットボトルを落とし、それを拾うついでに顔を見てみようという作戦だ。それならば不自然ではないし、相手の顔も見ることができる。

 涼哉はぺットボトルを飲もうとして落としてしまったふりをする。ペットボトルはころころと二歩先に転がる。おっと、と装いそれを拾いにベンチから腰を上げる。立ち上がったところでベンチに腰をかける彼女の顔を見た。

 帽子を目深に被っている彼女の顔は正直わからなかった。

 涼哉は静かにペットボトルを拾ってベンチに戻る。なすすべもなく、涼哉は落としたペットボトルの蓋を開けた。甘い冷たさが口の中に広がる。

「今度、孫と一緒に旅行に行くのよ」

「どちらへ行かれるんですか?」

「函館。あっついから、涼しいところ行こうって娘たちと相談したの」

「それは良いですね。お孫さんいくつでしたっけ」

「六歳。来年から小学校」

「小学生か……楽しみですね」

「ええ。ちはるちゃんは、子供の頃から利発そうね」

「そんなことはないですよ。器用だっただけで」

「あらぁ、そう?」

「学校も好きじゃなかったし。集団というか子供のというか、独特のルールがあるから、あんまり慣れなくて大変でした」

「そうだったの」

「出席番号早かったのも嫌でしたね。いっつも出席番号順に発表とかするから、ア行の人はいっつも嫌だって思ってたんじゃないですかね」

「あら、それを言ったら私だっていっつも最後で嫌だったわぁ。ワタナベはいっつも最後よ」

「確かに。最初も嫌だけど、最後も嫌だなあ。時々先生が気を利かせて最後から発表、とかやられても嬉しくなかったな。それって私が最後じゃん、みたいな」

「ちはるちゃんは『アシヤ』だから尚更早いものね。イグチさん、とかエンドウさん、なんかよりも」

 今度は本当にペットボトルを落としそうになった。今、確かに「ワタナベ」と言った女性は、その名を口にした。その時点で涼哉の思い込みは確信に変わった。心臓が段々と強く速くなっていくのを感じる。呼吸が荒くなるのを必死に落ち着かせる。ペットボトルを両手でギュッと握って、蓋の辺りをじっと見つめた。

 ちはるという名前はさほど珍しくない。けれど芦屋という苗字はあまり聞かない。これまでの人生で、彼女以外の芦屋に出会ったことはない。涼哉の人生において芦屋はただ一人、彼女だけだった。

「あら、もうこんな時間。じゃあ、私帰るわね。ちはるちゃん、気をつけて帰ってね。暑さに注意してね」

「はい。みちよさんもお気をつけて」

 隣のベンチが一つ空になる。彼女は背もたれにゆったりと腰をかけて、川面を見ている。彼女は目深に被った帽子を、一度被り直した。その時、今まで帽子の中にしまっていたポニーテールが現れた。それは癖毛なのか、強く巻きがかかっている。

 西日が照らす。切長の目が眩しそうに太陽を睨んでいた。

「芦屋」

 気づけば涼哉は、彼女の名前を呼んでいた。

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