3

『夏休み、どこ行く?』

 秋成がバイト終わりの疲れ果てた体に電話で聞いてきた。

「夏休み……今年は実家戻ろうかな」

『え。嘘だろなんで。昨年までそんなことなかったじゃん』

 涼哉はコンビニで買ったそばを机に置く。もう少し食べたい気分だったが、あいにくこの時間ではろくなものが残っていなかった。残っていたのはエビドリアくらいしかなかったが、涼哉はエビが嫌いだ。嫌いなエビドリアを食べるわけにもいかず、そばで我慢するしかなかった。

 スピーカー通話にしたスマホをそばの横に置いて割り箸を割る。

「親孝行みたいなもんだよ。この四年間、碌に帰ってなかったんだから、今の内に帰っとかないとな」

 それに家にいなければ自動的にエアコン代が浮く。電気料金も気温もますます高くなる今夏は、実家に逃げるのが最善だと考えた。

『確かに。社会人になったら大型の休みなんてそうそう取れないもんなー。つか、それなら尚更遊ぼうよ。三日くらい俺にくれってば』

「別にいいけど……あんまり遠いところはパス。近場で頼むわ。金無いから」

 弟妹のいる涼夜にとって夢の一人暮らしは、意外と楽では無いということを三年前に知った。金が無いからといってバイトばかりしては単位を落とす。学費も一部自分が負担しているから、勉強を疎かにする気にもなれない。おかげでいつもカツカツだ。

『オーケー。んー、じゃあ箱根とかどう?温泉、よくね?』

 箱根、と聞いて即座に涼哉は断った。

「ダメだ。箱根は明日香と神奈川旅行で行くから」

『だめかー。ってか、神奈川旅行ってなんだよ。近場すぎね?』

 涼哉は苦笑する。確かに、改めて聞くと東京にいるのに神奈川旅行とは変な感じだ。旅行というほどの距離でもない。

 恋人の明日香とも当然夏休みは共に過ごす予定だ。少し前に明日香と立てた予定は、二日間で横浜や鎌倉、箱根を回ろうというプランだった。どうせなら熱海あたりに行くのもどうだと言ったのだが、明日香は以前静岡に住んでいたことがあるらしく、静岡には戻りたくないと言った。熱海に住んでいたわけでもないのに。あんな田舎には二度と足を踏み入れたくないとのことだった。その後も日光や川越といった関東圏の観光地をいくつか挙げてみたのだが、明日香は最後まで譲らなかった。

『じゃあ俺とは日光行くか?』

「悪くないな」

 日光といえば小学校の修学旅行で行ったきりだ。あの頃は連れて行かれたという印象が強くてあまり楽しめなかったが、今なら日光東照宮も違った目線で見られる気がする。物理的な目線も変わっているのだから景色が違うのは当然なのだが。

『日帰りでいいか?俺も金無いし、泊まりっていうのはちょっと気が重くね?』

「ああ。それがいい。バイトもあるしな」

 了解ー、と秋成が軽く返事をする。おそらく彼の手元にはスケジュール帳があって、そこに書き込んでいるのだろう。意外と几帳面な彼はスケジュール帳に予定やメモをびっしりと書き込む。

『日光とか、小学生以来かも』

「俺も。移動教室で行ったよな」

『そうそう。つーかあれだな、なんか涼哉とは最近昔の話ばっかりしてるな』

「え?あー、確かに。教科書とか初恋とか」

 不思議なものだ。あるいは、昔のことを話したから少しずつ思い出しやすくなっているのかもしれない。過去の記憶を掘り返していくうちに、土の中から目的のものでは無い思い出がふと見つかる。

『なあなあ、涼哉にはねえの?』

「何が」

 そばを食べる手を止める。ビデオ通話ではないから秋成の顔は見えないが、声の感じから少しニヤけた面をしているのだろうと思う。

『初恋。それか、小学生の頃好きだった子とか』

 記憶の土を掘る手が止まった気がした。だが記憶というのは自分の思いとは裏腹にざぶざぶと湧き出てくるもので、それを止める手立てはない。

 思い出してしまう。あの頃の苦い思いと後悔が、段々とはっきりと輪郭を成しそうになる。

 涼哉、と呼びかけられてはっと我に帰る。

「あ、悪い。ちょっとそばのつゆこぼした」

『おいおい。てか、さっきからずるずる聞こえてたのそばなのかよ。で、いねーの?涼哉の黒歴史聞きたいんだけど』

「勝手に黒歴史にするなよ」

 湧いてきた記憶の源泉を秋成がさらに掘り進めてついに間欠泉のように吹き上がった。あの日がはっきりと脳裏に浮かんだ。温度も匂いもそのままに思い出す。

 ふう、と少しだけ息を吐いた。整えたのかもしれない。ここで誤魔化して話を逸らしても、秋成は逃してくれないだろう。今度会った時に聞かれるだけだ。対面してこんな話をするのは素面では到底できない。それに、一度吐き出してしまえば少しは気持ちに整理がつくかとも思った。

「初恋じゃない。小学生のとき好きだったのは」

 なんだか唇が乾燥する。一度舌で湿らせた。

「大人しくて、器用な子だった」

『へえ。なんか意外』

 秋成が電話越しにリアクションする。そんな声も届かないほど、静かに涼哉は記憶を汚れから払って鮮明に思い出す。

「普通の小学生の雰囲気じゃなくて……そんな彼女のこと、俺はずっと」

 好きだったんだよな、と口からこぼれたことに涼哉ですら気づかなかった。


 小学校の低学年だったと思う。クラスが同じだったその人は、他の子供達と少し違った。

 テストは満点を取り、先生に指名されればすぐに正解を答える。運動もそれなりに得意で、音楽では歌もリコーダーも上手で先生に好かれていた。特に図工は他の児童よりもずば抜けていて、よく展覧会にも出品されていた。先生からは褒められるし、怒られている姿は見たことがない。

 いわゆる天才だった。何をやらせてもそれなりにできる。大人の目から見れば才能に溢れ、将来が楽しみな子供だった。

 彼女の名前は芦屋。芦屋千晴だ。

『へー?』

「なんだよ」

 声だけでもニヤついていることがわかる秋成に照れからくる苛立ちを覚える。秋成はいや、とおどける。

「ちゃんと名前とか覚えてるんだなーと。しかもフルネーム」

 涼哉はしまった、と思った。別に名前まで明かすつもりはなかったのに、口を滑らせた。いらない弱みを秋成に教えてしまった。

『で?なんで好きになったの、その千晴ちゃんのこと』

 お前が下の名前で呼ぶな、と涼哉は心の中で毒づいた。知り合いでもないくせに、馴れ馴れしいやつである。大体、涼哉自身でさえ千晴なんて呼べたことはないのに。

 芦屋千晴とまともに話したのは席替えで隣になったことがきっかけだった。それまではクラスの背景の一部であった彼女であったが、隣の席というのはなかなか背景にならず、否が応でも具体的な情報として涼哉の世界に現れる。

 授業中は先生の話をよく聞いていた。発言はほどほど、けれど打率は高く、正当率はほぼ百パーセント。いつも先生の方を見ていて、真面目だった。他の子供達がお喋りを始めるような場面でも集中力を絶やさない。テストの点は高い。満点かほぼ満点のどちらかだ。休み時間はあまり外に出て遊ばない。本を読んでいるか、自由帳に何かを描いていることが多いが、その絵を見たことはない。放課後も誰かと遊ぶような感じではない。友達が多いわけではない、というか、いなかったように思う。あまり感情を表に出す人ではなかった。笑ったり泣いたりしない、少し不気味にも見えたから、クラスメイトも積極的に話しかけるわけでもなかったのだと思う。

『絵に描いたような優等生、つーか天才だな』

「ああ」

 幻だったといわれても、馬鹿げていると思いながらも信じてしまうかもしれない。そんなわけではないことはわかっているのに。

「それでも俺は、なんか……憧れたんだよな。あのくらいの時って、人と違う才能持ってるとすげぇって思うじゃん?」

『あーわかる。足速いとモテる、みたいな。俺はモテなかったなー』

 秋成の言う通りだ。足が速ければ女子に人気が出る。その要領で涼哉は芦屋千晴の魅力に気づいてしまった。

 他の人と何か違う。具体的な何かは分からないけれど、その人と違う何かが魅力的だった。癖毛なのだろう、クルクルと強めに巻いている髪も人と違う。切長の目は大人びていて射抜かれるようだった。

 外見も中身も雰囲気も、何もかもが普通の小学生からはかけ離れていて、涼哉はただ憧れた。

『フゥン。それで幼き日の涼哉くんは大人びた千晴ちゃんに恋に落ちたわけだ』

「いや、そうじゃない……と思う。そりゃ憧れてたけど、あれは恋っていうか、サッカー選手とか映画のヒーローに憧れる感覚だった……と思う」

 好意が微塵もなかったと言い切ることはできないけれど、それでもまだ自分の理想に近い姿に対する憧れや尊敬といった感情が強かったと思う。

 明確に心に想いが灯ったのは、鮮明に覚えている放課後のことだ。

 詳しいきっかけは覚えていない。ただ、涼哉はあの時忘れ物か何かをして、帰りの会を終えてからしばらくして教室に戻ったのだ。階段や廊下にも人はおらず、少しの恐怖心を覚えた涼哉はさっさと忘れ物を回収して帰ろうとしたのだ。

 教室のドアは開けられていて、涼哉は人がいたら怖いなどと思いながら中を覗いた。

「そしたら本当に人がいたんだよ」

 しかも涼哉の席の近くだった。一瞬声が出そうになったが、それは自分の席に座る芦屋千晴だったのだ。

 涼哉は驚いた自分を誤魔化すためにわざと明るく振る舞った。なんだよ、芦屋か、びっくりした、こんな時間に何してんだよ、そんな感じのことを喋った気がする。

 でも、その先の言葉は出なかった。止められたのだ。

 芦屋は机に伏すようにしていた。しかし、涼哉が声をかけると顔を上げた。そこにあったのは眠そうな顔でもなんでもなく、涙で濡らした切長の目であった。

 心臓が止まりそうになった。あまりの出来事に言葉がすぐには出てこなかった。泣いてるなんて思わなくて、芦屋が泣くなんて思わなくて、とても驚いたのだ。どうしたとか、何かあったとか、なんでここにいるのかとか、散々聞くことも聞きたいこともあったのだけれど、動揺し尽くしてなんと声をかけたのか涼哉はまるで覚えていない。

 声をかけられた芦屋は手の甲で涙だけ拭って、なんでもないと言った。そしてそのまま教室を出てしまったのだ。一人教室に残った涼哉はなすすべもなく、それでも宿題に使う忘れ物だけ思い出して机の中から取り出して帰ったことを覚えている。

 それでもあの瞬間が確かに涼哉の人生に芦屋千晴が現れた瞬間なのだ。

「あの時、泣いてる芦屋を見て俺は……恋に落ちた、って言ったら、酷い感じがするな」

『ははは。確かにな』

 涼哉自身、どうしてなのだろうと思う。泣いてる姿を見て好きになるなんて歪んだ性癖を持っていると思われないだろうか。だからといって明日香が泣いているところが好きとか見たいなんて思ったことは一度もない。そんな面倒臭いことはないに越したことはない。

『そんで?千晴ちゃんとは結局どうなったの』

「……どうもない。その日以降もただのクラスメイトだったし、泣いてたことに関してはお互いなんも言わなかった。クラス替えでクラスも離れたし、卒業して中学も別。連絡先も持ってないし、共通の友人みたいなのもいないから、何をしてんのかも知らない」

 生きてるかどうかすら分からない。そう思うと強烈な不安が涼哉を襲った。

 もし今、芦屋がこの世にいなかったのなら。既に酷い不幸が彼女を襲い、短い一生を終えていたとしたら、なんだかそれは途轍もなく悲しいことのように思えてしまった。そりゃあ若くして命を燃やし切ってしまったことは誰にとっても悲しいことではあるのだけれど、この不安感は涼哉中心の感情に思えた。涼哉自身が酷く不安なのだ。大した関係でもない、ただクラスメイトだったことのある旧友でもなんでもない、昔一時期好きだっただけの彼女のことなのに、こんなにも悲しく思えるのだ。

『つーか、よくそこまで覚えてたな』

 秋成の言葉に我に帰る。心臓はやけに強く脈打っていた。

『俺もまあ覚えてたけどね。やっぱあれだな、成就しなかった恋っていうのは覚えてるもんなんだな』

 そう笑った秋成は風呂に入るからと言って電話を切った。

 静かになった部屋の中、涼哉は食べ切ったそばのトレイやフィルムのゴミを机の上にそのままにして、ソファに横になった。クッションを顔に乗せ、視界を真っ黒にしてみた。黒に塗られた画面にはあの日の光景が蘇った。

 顔を上げた芦屋の濡れた目。見られたくないのかすぐに涙を拭った頼りなげな手の甲。

 クラスが別れた芦屋は気の合う友人ができたらしい。低学年の頃には見せなかった笑顔は珍しくもないほど見られるようになり、徐々にあの日の芦屋は幻のように記憶の砂に埋もれていった。お互いの道はそこから交わることはなく、二度と会うことはなくなった。

 彼女は今も、その才能を存分に発揮して華々しい人生を歩んでいるのだろうか。一流企業に就職が決まっているのかもしれない。あるいは、海外へ留学なんかもしていたのかもしれない。涼哉の知らない世界で生きて、幸せになっているのだろうか。幸せならばそれでいいのだ。彼女が彼女なりに生きて、素晴らしい世界を渡り歩いているのなら、涼哉も良かったと思える。その陰で泣いていなければいいなと、心から思う。

 あの日、どうして彼女は泣いていたのだろう。その疑問だけが、十年以上経っても涼哉の中から消えない。それは強すぎる思いで、余計な感情で、どうしようもないものなのはわかっていた。本人からすれば黒歴史だろう。教室で一人泣いていたところを親しくもない男子に見られて、それを何年も覚えられていて、その理由を知りたがっている。気持ち悪いことこの上ない。それがわかっているからずっと芦屋を思い出さないようにしていた。それなのに、秋成のせいで思い出すことになってしまった。

 秋成は初恋の人と再会した。もし今、芦屋に会ったとしたらなんと言うだろう。あの日のことを聞くだろうか。そもそも芦屋は涼哉のことを覚えているのだろうか。多才な彼女が日本に留まっているのか。生きているのだろうか。

 問いは尽きない。そんなことを考えているうちに、涼哉は睡魔に引っ張られそのまま眠りについていた。

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