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夏の始まりの風が吹く。熱気を帯びた風に涼哉はうんざりする。
「夏は嫌いだ」
「おれもー」
大学の食堂、西垣涼哉は友人の松野秋成とカレーを頬張っていた。
「冬は着込めばどうにかなるけど、夏はどうにもなんないもんなー」
「ったく、最近の夏は暑いってレベルじゃない。何をするにも暑さが邪魔する」
学校まで来るのにも一苦労だ。まず朝、目覚めた時に暑い。エアコンはタイマーにしてあるから夜中に勝手に切れ、朝目覚めるまでに部屋はすっかり熱する。エアコンをつけようとも思うのだが、朝、家を出るまでの間だけつけるのも電気代がもったいない。だから汗を垂らしながら朝の支度をする。支度を終えて早くサウナのような家から出たいと思うのだが、外はさらに暑いし、体はすでに疲労しているようで何をする気も起きない。それでも渋々外に出ると案の定、熱気がすでに町中に溜まっている。
「日本はいつからこんなに暑くなったんだ」
「いつからだろうなー。子供の頃はここまでではなかったとは思うけど……あ、そうそう子供の頃といえばさ」
秋成は食べかけのカレーからスプーンを離し、丸い目を輝かせた。
「俺この前、初恋の人とたまたま会ったんだよ!池袋で!」
「へー」
「興味なさそうだなあ。それでな」
「どうせ勝手に喋るからな、お前は」
「うん」
秋成は人が興味があろうがなかろうが関係なく自分の話をする。うざいと思うこともなくはないが、話をするのが上手い彼は最後まで人に聞かせてしまう。自覚はしていないがろうが、彼の長所だと涼哉は思っている。
それはこの前の休日のことだという。
「友達と遊んでてさ、その帰り。腹減ったなーと思ってふらっとコンビニ入ったの。ちょっと混んでたからレジ待ってて、お、空いたなって思ったそのレジに……」
秋成は涼哉に目で合図する。涼哉は静かに期待に応える。
「初恋の人」
「当たり!俺は運命だって思ったんだよねー」
秋成は今も夢の中にいるかのように目を更に輝かせる。少女漫画だったらハイライトでキラキラしているだろう。さながらベルサイユのばらのアントワネットのように。涼哉はカレーを食べながら聞いた。
「よく気づいたな、その人だって。子供の頃なんだろ?初恋」
「まあな。俺も最初はあー、山本さんかー、山本ってどこ行ってもいたなーって感じで名札見てたんだけど、ふと顔見たら面影があるのよね、これが」
幼きあの日憧れていたあの顔、雰囲気。脳の奥からぶわっと想い出が込み上げてきたらしい。
「そんで、山本さん?って聞いたらすっげえ不審がられてさ」
「だろうな」
確かに山本という苗字は小中高全てでいた気がする。山田よりもいた確率は高いようにも思えた。
「慌てて説明したよ。どこどこ小学校の松野ですって言ったら、向こうも思い出したみたいで。久しぶりーなんつってさ」
秋成は照れくさそうに、けれど楽しそうに語った。
「でもレジだからさ、時間取るわけにもいかないじゃん?」
「そりゃそうだな」
「それっきりになっちゃったんだよなー。残念」
秋成はそう言って悔しがった。そういえば彼は半年前に彼女と別れて以来フリーだったことを思い出す。
秋成の話を聞いている間にカレーを完食した。四年も経つと学食のカレーの味にも慣れてくるもので味気なく感じる。久々に実家のカレーが食べたくなった。
「運命の出会いなんてそううまいことはなかなか無いもんだよ。期待するだけ無駄だ」
「涼哉は冷たいねえ。クールなんだからまったく」
秋成もカレーを完食する。どうして自分たちは同じメニューを食べているのだろうとふと疑問を持つ。学食のメニューは豊富なのに、カレーライスという王道なメニューを二人で食べている。
カレーライス、という単語に記憶の蓋が開く音がした。
「カレーの話あったよな」
「は?何に。ドラマ?」
「いや、教科書に。小学校かな」
「あー……なんとなく思い出したかも。確かにあった気がする。ぼんやり覚えてるわ」
秋成はスマホで検索をかける。見慣れたグーグルの検索エンジンに「カレーライス 教科書」と入力した。
検索結果の一番上に新潮社の試し読みページがヒットした。
「へー、あれ結構有名な人が書いてたんだな。俺知らなかった」
秋成はスマホを涼哉にも見えるように机に置いた。涼哉も画面を覗きこむ。
「小六の教科書だって。今から……十年前?やば、小六ってもう十年前なんだ」
「十年前……すげえな、なんか」
大学生の終わりが小学生の終わりから十年。そしてこの一年を以て涼哉は長い長い学生生活を終え、社会人となる。
「俺らも大人になるんだな」
特に意味もなく呟いた。
「ああ。残り少ない学生生活、楽しもうぜ」
涼哉と秋成は既に来年の四月からの生活が決まっていた。早期内定を勝ち取り、早々と就職活動を終わらせた。記念受験の気持ちで同じ会社を受けたら、二人とも部署は違えどするすると面接を通り気がつけば内定の通知をもらっていた。
秋成は多分、コミュニケーション能力の高さを買われた。彼は誰とでもすぐに仲良くなることができるし、多少の不器用さや要領の悪さも彼の愛嬌として捉えられる。人に愛される顔もしている。愛嬌のある童顔でよく笑う。その笑顔は彼の長所だ。印象がいいことは面接において何より大事だ。
「この後どうする?」
「俺は図書館行く。卒論進めないと」
「あー、就活終わったと思ったら卒論だよ。ほんと嫌だねー、四年は」
涼哉は苦笑した。
秋成と別れ、図書館で一人卒論に必要な文献を精査しているとき、涼哉の頭は研究とは別のことを考えていた。
秋成の長所は人の良さだ。それが面接官に買われた。では、自分はどうだったのだろう。何が良かったのか、いまだにこれといえるものが涼哉にはわからなかった。けれど、自分の何が悪いかというのも浮かばない。
というのも、涼哉は就活の指導で言われたことは全てやったからだ。スーツはこういう風に着て、仕草はこうで、受け答えはこういう風にするように。こういうことはしてはいけない、NG行動だから絶対にやらないように、こういうことは書かなくてもよい。規則は全て守った。そうするのが就活という課題をクリアするのに最短距離だからだ。実際、そうしたことで内定は早期に勝ち取った。
側から見れば自分は羨ましがられる。それはそうだ。この時期に既に就職活動を終わらせ、卒論を進めている。まだ内定を一社も貰えていない人もざらにいる中、涼哉は一歩も二歩も先を歩いている。その卒論だってあまり行き詰まってもいないのだから、きっと理想の大学生活を送っている。
勉学や就活の話だけではない。涼哉には恋人もいる。明日香という同じ大学の恋人は、流行りのファッションに身を包んだ女性だ。見た目がいい彼女はそれなりに学内でも人気で、そんな彼女に告白されたのは大学一年の時。そこからの付き合いなので、それなりに長く交際してきた。このままいけば将来、彼女と結婚というのもあり得ない話ではないのだなと最近考える。
将来も友人も恋人も、おまけに見てくれも悪くないものを持っている。それなのに、自分の長所というものがいまいちわからない。就職活動の時に使ったのは計画性があると責任感が強いだったが、それは数ある長所一覧の中からこれなら当てはまる、というものをピックアップしただけだった。秋成にも確かに、と言われたのだから嘘ではないのだと思う。けれど、何かが違うような気もする。ただそれは気という言葉でしか語れないのだから、具体性がない。
あるような気がするのに、確証はない。宇宙の果てみたいなものだろうか。いや、宇宙には果てがあることは科学的に証明されている。辿り着くことが今のところは不可能というだけだ。あるのだ。そこに果ては。ただ、涼哉のこの心の、穴か異物かなんなのかわからないそれは、あるかもわからない。
大学まで学んで得たものはこんなものか、と思う。このまま大人になるのか、と少しだけ不安になった。
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