5.落ち着け、落ち着け
「ガット、頼みがある」
初めて家に現れた
「な……何かあったんですか……?」
「今すぐ電話をしてくれ。私はできないんだ。頼む」
「電話、どこに?」
「救急車を呼んでほしい。あいつが、
「広臣って……じいちゃんのこと……?」
「ああ。今日は息子夫婦が旅行に行っていて、酒屋の二階に一人でいる」
「わ、わかりました、電話します」
僕の返答を聞いて天狐様は一つうなずいてから、すっと消えてしまった。あのお社の近くではないから長く姿を見せていられないのかもしれない。まだ乾いていない頬の涙を手の甲でぐいっと拭って電話の受話器を取る。
「お、おい、
「お父さんうるさい。……いち、いち、きゅう……でいいんだよね」
黙り込んでしまったお父さんは放っておけばいいだろう。緊張してしまって手がうまく動かないけれど何とか
「……あっ、その、救急、です。僕は
電話を切って玄関へと走り出した僕の後ろから「おい、どこ行く気だ!」とお父さんの声がする。
「酒屋さんだけど」
「何でおまえが行くんだ」
「僕、じいちゃんを助けたいんだ。熱中症の疑いがあるって言われたし」
「だから、何で……救急隊員がすぐ行くんだろ?」
「僕が、救いたいから! ああ、お父さんも来て。もしかしたら何かできることがあるかも。早くして!」
玄関でスニーカーをはきながら、僕はお父さんに向かって怒鳴った。今は一刻を争うんだ、これくらいいいだろう。お父さんは「あ、ああ」と言いながら僕の後ろまで来た。
「僕は走って行くから。あとから来て」
深呼吸を一度してから、じいちゃんに教わったフォームで走り出す。足を後ろに持っていく時は力強く蹴る。前に持っていく時は腿をまっすぐ上げる。僕はできるようになったんだ。速く、速く走らないと。じいちゃんが苦しんでいる、今度は僕が助ける。そればかりを考えながら走り続けて、気付いたら酒屋の裏手の玄関まで来ていた。
「はぁ、はぁ……、鍵は……」
僕はここでも一度深呼吸をする。息を吸って、吐いて、落ち着こうとする。じいちゃんがそう教えてくれたから。
玄関の引き戸をそろそろと開ける。鍵はかかっていない。暗がりの中、手探りで明かりのスイッチを探しているとお父さんが走ってくる足音が聞こえてきた。
「……あ、あった。お邪魔します」
ぱちりと音をさせて明かりを点け、階段を目指す。幸い階段はすぐに見つかった。二階の一室から漏れている光を頼りに進むと、お父さんも後ろから付いてきた。
「おい、人様の家に勝手に入るなんて」
「そういうのあとにしてよ。今はじいちゃんを助けるのが先」
「う……」
お父さんがよけいなことを言い出したけれど、足を止めずに階段を上る。夜になっても気温が下がっていないうえに走ったせいで
「木崎さん!」
「じいちゃん……!」
お父さんと僕がほぼ同時に声を出すと、畳の上に横たわっているじいちゃんが、ぴくりと身じろぎして応えてくれた。でもしゃべる元気はなさそうだ。
「ごめん、ちょっとお店から何か持ってくるから……お父さん、エアコンのリモコン探して温度下げておいて。あと、服のボタンゆるめておいて」
「わ、わかった」
リモコンを探し始めたお父さんを横目で見ながら、僕は一旦部屋を出て階段を下り、店へと急ぐ。お金はあとで払うから、ごめんなさい、と心の中で言ってみる。
玄関を入ったところから店へとすぐに行けるようになっていることに気付き、今度は店の明かりのスイッチを探した。少し手間取りながらも照明を点けた店内には冷えたスポーツドリンクやミネラルウォーターも置いてあり、両方を手に持ってまた二階へと上がる。
「じいちゃん、ペットボトル持ってきたよ。飲めるかな……大丈夫……?」
じいちゃんは荒い息を繰り返すだけで、返事をしない。お父さんがエアコンの設定温度を下げてくれたおかげで部屋の中は涼しくなりつつあるけど、もしじいちゃんがこのまま意識を失って……そんなことを考えたらひゅっと胸が冷たくなり、怖くてたまらなくなった。
「……じいちゃん、じいちゃんっ! これっ、飲もう!」
僕を襲った恐怖は、じいちゃんがわずかに頭を動かしてうなずいた瞬間に去っていった。じいちゃんは生きようとしている。僕の言うことを聞いてくれているんだ。それなら、僕も応えなければいけない。怖がっている場合じゃない。落ち着け、落ち着けと、何度も心に言い聞かせる。
僕が震える手でスポーツドリンクのペットボトルの蓋を開けると、お父さんが気を利かせてじいちゃんの上半身を持ち上げてくれた。薄く開いている口元へ持っていって、少しずつ少しずつ中身を飲ませる。じいちゃんは目を半開きにして飲んでいる。喉が動く。だんだん一度に飲める量が多くなってくる。「がんばれ」と励ますと、お父さんの手に支えられている頭が、少しだけ縦に動いた。
「救急車呼んだから、大丈夫だから、じいちゃん、もう少しだから……!」
そう言葉をかけた直後、救急車のサイレンが聞こえてきた。
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