5.落ち着け、落ち着け


「ガット、頼みがある」


 初めて家に現れた天狐てんこ様は、僕の顔を見るなりそう言った。お父さんはぽかんと口を開けて見ているだけだ。


「な……何かあったんですか……?」


「今すぐ電話をしてくれ。私はできないんだ。頼む」


「電話、どこに?」


「救急車を呼んでほしい。あいつが、広臣ひろおみが、顔を真っ赤にさせたまま倒れてしまったんだ……苦しそうに息をしている。意識はあるようなんだが……」


「広臣って……じいちゃんのこと……?」


「ああ。今日は息子夫婦が旅行に行っていて、酒屋の二階に一人でいる」


「わ、わかりました、電話します」


 僕の返答を聞いて天狐様は一つうなずいてから、すっと消えてしまった。あのお社の近くではないから長く姿を見せていられないのかもしれない。まだ乾いていない頬の涙を手の甲でぐいっと拭って電話の受話器を取る。


「お、おい、岳人がくと、今のは……」


「お父さんうるさい。……いち、いち、きゅう……でいいんだよね」


 黙り込んでしまったお父さんは放っておけばいいだろう。緊張してしまって手がうまく動かないけれど何とか緊急きんきゅう通報つうほうの番号を押すことができ、数秒も経たないうちに電話が繋がる。


「……あっ、その、救急、です。僕は伊田いだ岳人といいます。木崎きざき酒店の二階で、木崎広臣さんが……ええと、年齢はたぶん七十歳くらい……はい、倒れているらしくて……意識はあるけど、顔が真っ赤になっているそうです。……ああ、やっぱり熱中症……。僕はそこにいないんですけど、走って行きます。たぶん五分くらい……はい、わかりました」


 電話を切って玄関へと走り出した僕の後ろから「おい、どこ行く気だ!」とお父さんの声がする。


「酒屋さんだけど」


「何でおまえが行くんだ」


「僕、じいちゃんを助けたいんだ。熱中症の疑いがあるって言われたし」


「だから、何で……救急隊員がすぐ行くんだろ?」


「僕が、救いたいから! ああ、お父さんも来て。もしかしたら何かできることがあるかも。早くして!」


 玄関でスニーカーをはきながら、僕はお父さんに向かって怒鳴った。今は一刻を争うんだ、これくらいいいだろう。お父さんは「あ、ああ」と言いながら僕の後ろまで来た。


「僕は走って行くから。あとから来て」


 深呼吸を一度してから、じいちゃんに教わったフォームで走り出す。足を後ろに持っていく時は力強く蹴る。前に持っていく時は腿をまっすぐ上げる。僕はできるようになったんだ。速く、速く走らないと。じいちゃんが苦しんでいる、今度は僕が助ける。そればかりを考えながら走り続けて、気付いたら酒屋の裏手の玄関まで来ていた。


「はぁ、はぁ……、鍵は……」


 僕はここでも一度深呼吸をする。息を吸って、吐いて、落ち着こうとする。じいちゃんがそう教えてくれたから。


 玄関の引き戸をそろそろと開ける。鍵はかかっていない。暗がりの中、手探りで明かりのスイッチを探しているとお父さんが走ってくる足音が聞こえてきた。


「……あ、あった。お邪魔します」


 ぱちりと音をさせて明かりを点け、階段を目指す。幸い階段はすぐに見つかった。二階の一室から漏れている光を頼りに進むと、お父さんも後ろから付いてきた。


「おい、人様の家に勝手に入るなんて」


「そういうのあとにしてよ。今はじいちゃんを助けるのが先」


「う……」


 お父さんがよけいなことを言い出したけれど、足を止めずに階段を上る。夜になっても気温が下がっていないうえに走ったせいでひたいや首筋を流れる汗が、僕を急かす。でも僕は冷静にならないといけない。ふうと息を大きく吐いて、明かりが点いている部屋のドアノブを回した。


「木崎さん!」


「じいちゃん……!」


 お父さんと僕がほぼ同時に声を出すと、畳の上に横たわっているじいちゃんが、ぴくりと身じろぎして応えてくれた。でもしゃべる元気はなさそうだ。


「ごめん、ちょっとお店から何か持ってくるから……お父さん、エアコンのリモコン探して温度下げておいて。あと、服のボタンゆるめておいて」


「わ、わかった」


 リモコンを探し始めたお父さんを横目で見ながら、僕は一旦部屋を出て階段を下り、店へと急ぐ。お金はあとで払うから、ごめんなさい、と心の中で言ってみる。


 玄関を入ったところから店へとすぐに行けるようになっていることに気付き、今度は店の明かりのスイッチを探した。少し手間取りながらも照明を点けた店内には冷えたスポーツドリンクやミネラルウォーターも置いてあり、両方を手に持ってまた二階へと上がる。


「じいちゃん、ペットボトル持ってきたよ。飲めるかな……大丈夫……?」


 じいちゃんは荒い息を繰り返すだけで、返事をしない。お父さんがエアコンの設定温度を下げてくれたおかげで部屋の中は涼しくなりつつあるけど、もしじいちゃんがこのまま意識を失って……そんなことを考えたらひゅっと胸が冷たくなり、怖くてたまらなくなった。


「……じいちゃん、じいちゃんっ! これっ、飲もう!」


 僕を襲った恐怖は、じいちゃんがわずかに頭を動かしてうなずいた瞬間に去っていった。じいちゃんは生きようとしている。僕の言うことを聞いてくれているんだ。それなら、僕も応えなければいけない。怖がっている場合じゃない。落ち着け、落ち着けと、何度も心に言い聞かせる。


 僕が震える手でスポーツドリンクのペットボトルの蓋を開けると、お父さんが気を利かせてじいちゃんの上半身を持ち上げてくれた。薄く開いている口元へ持っていって、少しずつ少しずつ中身を飲ませる。じいちゃんは目を半開きにして飲んでいる。喉が動く。だんだん一度に飲める量が多くなってくる。「がんばれ」と励ますと、お父さんの手に支えられている頭が、少しだけ縦に動いた。


「救急車呼んだから、大丈夫だから、じいちゃん、もう少しだから……!」


 そう言葉をかけた直後、救急車のサイレンが聞こえてきた。

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