4.情動


「いいか、まず冷静になれ。誰かときそう時、特に試合の前なんかは頭に血が上りやすいんだ。だがそんな状態だと無駄に力が入っちまう。何でもそうだ、最初にすることは落ち着くことだ」


「落ち着くこと……」


「……で、実践じっせんだが、足を後ろに蹴るだろ? その時に蹴るスピードを速くするよう意識するんだ。ちょっとやってみろ」


「うん」


「……よし、そんな感じだ。でも繰り返しやんねえと体が覚えねえぞ」


「うん、わかった」


「あと、前に足を持っていく時にしっかり上げとけ。そう、ももを……もうちょっとまっすぐ……そうだ、それを体にしみこませろ」


 夏休みが始まってからはほぼ毎日特訓で、じいちゃんは僕につきっきりで教えてくれる。時々、図書館で借りてきた本でフォームをチェックしてくれたりもする。「俺のやり方は古いかもしれねえからな」と、じいちゃんは言っていた。わざわざ借りに行ってくれたんだ、ありがとう、と言おうと思ったけどやめた。じいちゃんはすぐに照れるから。


 僕たちをよく見に来ている瑞雲みくもの定位置は、お社の真上だ。ふわふわ浮いているように見えるけど、本人曰く、座っているらしい。


 今日は天狐てんこ様もいる。僕がお小遣いで買った水ようかんを瑞雲と一緒に食べながら、「見ているだけでもおもしろいものだな」「そうですか? 僕はちょっと退屈なんですけど」なんて言って、僕たちを見守っている。それだけでもにぎやかで楽しい。


 僕がランニングに出ている間、じいちゃんは瑞雲相手にボールを転がしたりドリブルで運んだりして遊んでいるらしい。瑞雲は鼻や前足で器用にボールを操るんだって。時々来る天狐様も、前足でボールを持って思い切りじいちゃんに投げ付けたって、じいちゃんが苦笑いしながら言っていた。ボール一つでみんなが楽しめているなら、僕もうれしい。


 僕は相変わらず汗をだらだら流しながら階段を往復したり、ドリブルの練習もしたり。天狐様はシュートの練習にも付き合ってくれるようになった。速く走れるようになったか、サッカーが上手になったか自信がないけれど、じいちゃんは何度も褒めてくれた。前よりずっと走るフォームが良くなったって。


「……はぁっ、はぁっ……、じ、ちゃん、ペット、ボトル……」


「おう、飲んどけ。ほら」


「あ、ありがと。じいちゃんも、飲んで」


「俺は飲んでるよ」


 汗で出てしまう水分を、じいちゃんが持ってきてくれるスポーツドリンクで補給する。じいちゃんは何でこんなに僕を助けてくれるんだろう。


「ぷはっ……、ねえじいちゃん、僕のこと面倒見てくれるの何で?」


「は? んなの決まってんだろ、ガットがやる気になってっからだよ」


「でも前から、よく話しかけてくれてたでしょ。何で?」


「……あー、それは……、あれだよ、おまえの顔が……」


「顔?」


「まあその、何だ、姿勢よく歩くのはいいが、表情がいつもけわしくてな。父子家庭だって聞いてたし……無理してんじゃねえかって天狐様も心配してたぞ」


 そんな風に思われてたなんて、全く知らなかった。驚いて目を丸くする僕に、じいちゃんは「ほら、もっと飲んでいいんだぞ」なんて言っている。


「そうだったんだ……心配かけてごめん」


「いいって、んなの。子供は大人に心配かけてなんぼだ」


「……うん」


 少しだけ休憩を挟んだりして、僕はじいちゃんに言われるとおりに体を動かす。ストレッチもしっかりやるようにしている。体が硬いと怪我をしやすくなってしまうから。テーピングや包帯や湿布がどの段ボール箱に入っているか、僕はわからないんだ。かゆみ止めの薬や虫除けスプレーと同じ箱かもしれないけど。


「さ、今日もボール使ってやってみろよ」


「じゃあ相手してくれる? じいちゃんボールの扱いうまくなったし、ちょっとディフェンスやってみて」


「お、俺うまくなったか? いやぁ、ますますカッコよくなっちまうな」


 がははと明るく笑うじいちゃんがおもしろくて、僕も一緒になって大笑いした。



 ◇◇



 八月に入ったある日、お父さんが仕事から帰ってきてすぐ、リビングのソファに座る僕に話しかけてきた。タブレット端末でプロサッカー選手の動画を見ていた時だった。


岳人がくと、最近毎日のように出かけてるみたいだな」


「うわっ、お父さん帰ってきたんだ、びっくりした。うん、サッカーの練習に行ってるから。今日は、てん……えっと、キーパー相手にシュートの練習もさせてもらえたんだよ」


 うれしくて、カバンを床に置くお父さんによけいなことまで言いそうになってしまう。天狐様や瑞雲のことを話したところで信じてもらえないだろうから、じいちゃん以外の人には黙っておきたい。


「それもいいが、家のこともしっかりやってくれよ」


「家の……」


「洗濯物が乾いたら早めに取り込まないと。外から見たらまだ干してあったぞ。今日は晴れたから早く乾いただろう」


「……忘れてた、ごめんなさい……」


「サッカーなんて毎日しなくたっていい」


 お父さんは、疲れた顔で、暗い声できっぱり言った。機会があったら話そうと思っていたことが行き場をなくす。機会なんかなかったんだ。僕は勘違いしていたのかもしれない。


「夏休みだからって、真っ黒になるまでサッカーばかり……そんなんだから、デカい図体で満足に洗濯物畳むこともできないんだ」


 サッカーなんて。デカい図体で。お父さんは僕を傷付ける言葉を投げてくる。僕は何を言っても傷付かないって思われているのかな。そう考えたら無性に腹が立ってきた。いつも話なんてしてくれないくせに。こちらを向いてもくれないくせに。僕のことなんか、何もわかっていないくせに。ぐるぐるぐるぐる、洗濯機の中みたいに、僕の中の汚いものがうずを巻いてあふれ出てくる。


「……し、てよ」


「何だ? 聞こえないぞ」


「……教えてよ」


「何を」


「家のことしろって言うなら、洗濯物の畳み方教えてよ。サッカーなんてってバカにするなら、サッカーよりおもしろいこと教えてよ。デカい図体なんて言うなら、小さい図体に生み直してよ。なん、で、掃除だって、いっしょ、けんめ、やってるのにっ……、何で、怒られるのさ!」


 お父さんは驚いて僕を見た。目が合うのは久し振りかもしれない。お父さんは僕を見ないから。


「お、とさんは、僕のこと、何も、知らないじゃないか! 僕の、言うことなん、て、聞こうとも、しない! いつも怒って……何を、何を知って、るんだよ……!」


 悔しい。悔しい。僕だって役に立ちたいんだ。でもできないんだ。悔しい。悔しくて涙が出る。ぼろぼろとカーペットの上に落ちていく。そこで僕はやっと、自分がいつの間にかソファから立ち上がっていたことに気付いた。


「……そ、そうは言っても、忙しくて……しょうがないんだ」


「忙しいと僕を傷付けること言ってもいいの? 忙しいならしょうがないの? ……しょうがないって、諦めるってことじゃないか。お父さんも僕から離れていくの? 僕を捨てるんだ?」


「何だよ、それ……」


 じいちゃんは言っていた。『しょうがない』って、諦めるってことだろって。お父さんは僕を諦めている。僕はお父さんにいろんなことを話したいと思っているのに。


 お父さんがうつむいて深いため息をつく。何を言ったって無駄なのかもしれないと僕が思っていると、突然目の前に白いもやがかかった。


「ひっ……! な、何だこれ!」


「……天狐様……?」


 もやはいつものようにすぐ消えて、天狐様が姿を現した。

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