3.天狐様登場
「……あの、じいちゃんは
「あるよ。おまえもな」
「えっ、僕はそんな不思議な力ないよ」
「俺だって何の力もねえからなぁ。ただ、天狐様が俺に毎朝くっついてくんだよ。おまえと話す時もくっついてんだぞ」
「……毎朝?」
「毎朝」
「……くっついてくる?」
「くっついてくる」
「……暑くない? 瑞雲みたいな狐なんでしょ?」
「くくっ、最初にする心配がそれかよ。暑くはねえぞ。頭の上にいるのはわかるが見えねえし、体温も感じねえ。ガットはおもしれえなあ」
じいちゃんはまた大笑いしている。僕も何だか楽しくなってきて、「ふふふ」と笑ってしまった。
「普通信じないよ、そんなの」
「でもおまえは信じるんだろ」
「うん、僕は信じるよ。瑞雲がしゃべってるし。ポメ……狐なのに」
「ポメ……」という言葉に反応した瑞雲が、何となく複雑そうな顔をしている。狐の顔なのに表情が豊かだ。じいちゃんは、また草むしりの手を止めて僕をまっすぐに見た。さっきまで笑っていた口はへの字に戻ってしまっている。
「天狐様はな、瑞雲より大きくて立派な神様なんだ。気に入った人間に毎朝会いに行くって言ってたぞ」
「じいちゃんは、気に入られてるんだね」
「おう、たまに和菓子を捧げてるだけなんだがな。でも最近ではおまえを気に入ってるんだってよ。な、瑞雲?」
「うん、何か、ガットみたいな子はお好きらしくて」
「あ、あのさ、僕のなま」
「おっ、天狐様!」
「いや天狐様じゃなくて僕の名前、が……」
僕の言葉が終わらないうちに、じいちゃんと僕の間の空間が一瞬だけ白いもやで覆われ、晴れると同時に大きな狐が現れた。瑞雲の二十倍くらいの大きさはあるだろう。登場から少し遅れて、ふわっと和菓子の匂いが漂ってきて、朝のじいちゃんの甘い匂いはこれだったのかと納得する。
「ガット、私が見えるか」
「……が……、あの、見えます。
「初めてではないんだが」
天狐様は落ち着いた大人の女性のような声で話し、くつくつと喉を震わせるように笑っている。そのたびに少しだけ波打つきれいな毛並みに見とれてしまう。
「うっ、そ、そうかもしれないですけど」
「よくここに来たな。うれしいぞ」
「あ……、はい、きれいにしようと思って。でも掃除道具がないんです……」
「いつでもいい、待っている」
「は、はい。……あっ、そろそろ戻らないと……僕サッカー抜け出してきてるから……すみません」
「気を付けて戻るんだぞ。階段でコケるなよ」
「う、うん。役に立てなくてごめんね、じいちゃん。じゃあ……また来ます」
そう言うと、僕はくるりと体の向きを変えた。やっぱり何もできなかったことが心に引っかかっていて、何となく天狐様に申し訳ない気がしてきたから。
天狐様や瑞雲、じいちゃんの視線を背中に感じながら、僕は階段を小走りで下りた。
◇◇
「じいちゃん、そっちの袋取って。ゴミ入れちゃうから」
「おう」
天狐様は毎朝じいちゃんにくっついているみたいだけど、あの酒屋の前だと僕には姿が見えない。どうやらこのお社にいる時しか見えないらしい。また会いたいと思うけれど、僕が外出する時間帯は天狐様は忙しいからなかなか会えないかもしれないと、瑞雲が言っていた。
「……よし、これであとは邪魔な石をどかして……っと。ああ、じいちゃん、ちゃんと水分取ってよ」
「ガットは頼りになるな」
「そ、そうかな」
僕は毎週土曜日にお社の掃除に来るようになった。じいちゃんはここで初めて会った日以来、よく笑ってくれるんだ。
「俺、ガットくらいの頃は陸上ばっかやっててさ、こんなに熱心に掃除なんてしたことなかったから。本当に自分のことしか考えてなかったガキだったよ」
「僕だって……、最初はお参りしたら何かいいことあるかなって思って来ただけだし……ビニールシート持ってきて、ここ涼しいからちょっと掃除したら休憩しようかな、なんて思ってたし。自分勝手なんだ」
「そうか? ああ、サッカーの方は調子よくやれてるか?」
「……サッカーは……、僕、全然だめで……」
「は?」
じいちゃんは石を持った手を止めて、僕のことをじっと見始めた。いつもそうだ、僕が落ち込んだりするとちゃんと見てくれる。そんな姿にほっとして、ちょっと涙が出てきてしまう。
「体が大きいから、動きが鈍いみたいなんだよね。コーチにも相手にされないし、他の上手な子はいっぱいいるから。しょうがないんだ」
「……んだよそれ。
「諦めてるわけじゃ……」
「しょうがないってそういうことだろ。何でおまえが諦めないといけねえんだよ。コーチ? んなのほっとけ、俺が教えてやる」
「お、教えてやるって、じいちゃんサッカーわかるの?」
「サッカーはわかんねえ。けど、速く走る方法は教えることができる。短距離なら」
「速く走る……方法……」
じいちゃんは手に持っていた石を端にぶん投げて僕に近付いてきた。口はまたへの字になっている。でも怖くない。きっと、じいちゃんは本気なんだ。
「俺、サッカーの試合たまに見るけど、速いドリブルでボール持ってってゴールしたらすげえカッコいいぞ」
「あ、それは……、僕と同じ名前の伊田選手がドイツでやってることだから……比べられるかも」
「あ? そういうやつらが集まってんのか。んじゃ尚更同じことやれよ」
「何でそうなるの」
「どうせ比べられるんなら、とことん比べてもらおうじゃねえか。どんだけおまえが速くなったか見せつけてやりゃいい」
ここは涼しいはずなのに、体が熱い。じいちゃんの熱い思いが僕を熱くする。
「じいちゃん、本気……」
「おう、俺は本気だ。ガット、おまえも本気になれ」
じいちゃんの言葉全部が僕にしみてくる。真正面から見据えられているからかもしれない。
「……わかった、やる。本気になるよ」
「もう掃除も大体終わったから、これからは特訓だ」
「うん」
「ここにサッカーボール持ってこいよ」
「家に一個あるから持ってくる」
「サッカーの、えーと、スポ少だっけ。あれはやめんなよ、目にもの見せてやれ」
「……スポ少……みんなに無視されたりして自分が嫌いになりそうだったけど……、本当は、がんばりたい……! シュート決めたい!」
「よーし、よく言った! 来週からな。ああ、和菓子持ってこねえと。今の時期なら水まんじゅうがいいか、天狐様と瑞雲は何でも食っちまうが」
「あはは、何でもって。……じいちゃん、ありがと。僕がんばるよ」
「おう」
じいちゃんがそっぽを向く。照れ屋だなと思ったけど、言わなかった。
こうして、僕とじいちゃんの秘密の特訓が始まった。
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