2.天狐様のお使いのポメ……狐


 スポ少から家に帰ると、お父さんがもう帰っていた。「ただいま」と言っても返事はない。きっと料理中だからだろう。


「お父さん、かゆみ止めの薬どこ?」


「まだ箱の中かも。それくらい自分で出してくれ」


「……うん」


 お玉を持ったままガスコンロのなべをにらんでいるお父さんに「どの箱に入っているかわからない」と言える空気じゃないことくらいは、僕にもわかる。リビングの端にまだいくつか積み上がっている段ボール箱を一つずつ開けて確認すると、二つ目で見つかった。


「あっ、虫除むしよけもあった! よかったー!」


岳人がくと、洗濯機はもう回したか?」


「え? ううん、まだ帰ってきたばっかだし……」


「早くしないと」


「……じゃあお風呂入る」


 お父さんの返事は聞こえてこない。勝手に脱衣所に行って、脱いだ服も全部まとめて洗濯機に入れる。洗剤を入れてからスイッチを押して、僕は洗濯機の中をじっと見つめた。半透明のプラスチック越しに見える洗濯槽に水が溜まると、茶色っぽい水と一緒に洗濯物が回り始める。蓋のつるりとした表面には僕の顔もぼんやり映っている。最近あまり笑っていないから、僕はきっと大人になりつつあるんだろうな。洗濯機は説明書を見るだけで使えるようになった。洗濯物を畳むのはまだ下手くそだけど、掃除だってがんばっている。


「……あのお社も、きれいにしてあげよう」


 きれいにしておいたら、誰かが喜ぶかもしれない。僕のしたことで誰かが喜ぶ。それって最高だと思う。



 ◇◇



 今日は土曜日で、学校に行かなくてもいい日だ。スポ少用のバッグに虫除けスプレーとかゆみ止めの薬、それから段ボール箱で眠っていた大きめのビニールシートを畳んで入れて、僕は家を出た。お父さんは毎日残業をしない代わりに土曜日は出勤だと暗い顔で言っていた。雨が降るかどうかは、教えてもらえなかった。


 スポ少ではいつものとおり、特に話しかけられることもないまま時間が過ぎていく。他のみんなは思い思いにドリブルの練習や、ゴールシュートの練習をしている。こちらをちらりとでも見る人はいない。僕はボール磨きを終えると誰にも何も告げず、バッグを体に斜めがけしてグラウンドの外に出た。走る時にバッグが少し邪魔だけど、あの涼しい場所で休憩できたら気持ちよさそうだからがまんしよう。


 そろそろ大粒の汗が出てくるかなという付近で走るのをやめ、腕や足などの服が被っていない部分にしゅっと虫除けスプレーをかける。急な階段を上れば、蚊がいっぱいいる草むら。これで準備万端じゅんびばんたんのはずだ。


 だるくなっていく足を動かして、僕は階段を上りきった。今日はもやはかかっていないようだ。はあはあとうるさい息を整えようと、和菓子の匂いの空気を大きく吸い込む。すると、後ろから誰かの足音が聞こえてきた。


「……あれ? ガットじゃねえか」


「えっ……、じいちゃん?」


「おー、珍しい客もいたもんだ。きっと天狐てんこ様もお喜びになるだろう」


「……てん……なに?」


「ここの神様、天狐様ってんだ。お空の『天』に『きつね』って書くんだぞ」


「てんこ……天狐、様」


 じいちゃんが教えてくれた聞き慣れない言葉を口の中で繰り返す。


「そういえばじいちゃん、この階段上っても息切れないの?」


「ああ、まあ、毎日来てるからな」


「毎日なんてすごい」


「今日は草むしりでもしてやろうと思ってな、とりあえずゴミ袋持ってきたんだが」


 そう言いながらじいちゃんは市のマークが入ったゴミ袋と軍手をポケットから出した。


「軍手もある。これがねえと手が切り傷だらけになるんだ」


「あっ、そうか、軍手……持って来てない……」


 じいちゃんに虫除けスプレーをかけてやりながら、僕は考える。何か僕にもできることはないかと。


「……僕、できること思い浮かばない……」


「別にいいだろ、んなこと。俺の話し相手でもしといてくれ」


「うん……」


 僕は顔を下に向けた。何の役にも立っていない自分に嫌気いやけが差す。本当は洗濯物だってもっときれいに畳みたいんだ、でもきれいな畳み方なんか誰も教えてくれない、誰か教えてくれたっていいじゃないか。料理は家庭科で教わったものしか作れない、もっといろいろ教えてくれたっていいのに。スポ少でだって、誰も何も教えてくれない。引っ越してきてもう三ヶ月も経つんだから、そろそろ仲間に入れてくれたっていいのに。そんな汚い何かが、僕の中で洗濯物みたいにぐるぐるし始めてしまった。こんな嫌な自分は誰にも見せたくない。


――こんな僕でいたら、また、離れていってしまうかもしれない――


「……ごめん、僕、戻るね」


「え、せっかくここまで上って来たのにか? ……ん? ガット、おまえ今日サッカー……」


「あ、うん、サッカーの日だけど……、僕、どこのポジションにもなれてないから……」


「あぁ?」


「……僕は……あそこにいても何もできないんだ。だから、足腰を鍛えようと思って抜け出してきて……」


「おう」


 じいちゃんは、むしった草を持った手を止めて僕の言うことを聞いている。顔は怖いけど、不思議と安心する。


「ランニングしてたらここを見つけて、その……誰かが喜んでくれるかもしれないから、掃除しようかなって……でも掃除道具とか考えてなかった……」


「へっ? おまえ自分で掃除しようって考えたのか。俺が子供の頃なんて自分のことしか考えてなかったぞ」


 じいちゃんは「陸上バカだったからさぁ」なんて、深いシワを見せながら笑っている。いつもへの字口しか見ていなかったから、何だか新鮮だ。


「そうか、だから軍手持って来てないなんてしょんぼりしてたのか。そりゃ天狐様も気に入るわけだ」


「……?」


「おまえのこと気に入ったんだってよ、天狐様が。……おっ、お見えになるか……?」


 草をゴミ袋に入れながら、じいちゃんがお社の上のあたりに視線を移した。僕も同じところを見ようとしたけれど、目は足元に引きつけられた。もやがかかったと思うとすぐに消えて、代わりにそこに犬がいたから。


「ん? 瑞雲みくもだけか」


「うん、天狐様は今お忙しいから」


「うわっ、ポメラニアンがしゃべった!」


「……ポメ……。僕は狐で、ここに祀られている神様……天狐様のお使いだよ。名前は『みくも』。『瑞雲ずいうん』って書いて『みくも』ね。よろしく~」


「か、神様のお使い……! ええと、狐、なの? ポメラニアンじゃなくて?」


 くるくるした丸い目ではないけれど、瑞雲は形も大きさもポメラニアンそっくりだ。薄茶色の毛並みがきれいで、室内で飼われている小型犬みたいに見える。僕と同じ年くらいの男の子を思わせる声ではっきりとしゃべっている……しゃべっている、よね? まさか、誰かのドッキリだったりして……?


「何でみんな僕のことポメラニアンと間違えるんだろう。顔はすごく狐だと思うんだけど」


「わぁ、本当にしゃべってる……ドッキリじゃない! ええと、顔は狐みたいに見えるけど、体のふわふわの毛が狐っぽくはないかな……」


 僕が言うと、ポメ……ではなく狐の瑞雲は「そう?」と言いながら、細い目をもっと細めた。

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