僕の熱い夏
祐里〈猫部〉
1.変なあだ名
窮屈なランドセルを背負って、僕は学校に行く。まだ
転校してきてから三ヶ月、もう学校の雰囲気にも慣れてきた。ただ――
「よ、ガット」
「……おはようございます」
通学路の途中、朝から店の前の椅子に座って怖い顔を見せている酒屋のじいちゃんに話しかけられるのには、まだちょっと慣れていない。怒鳴られたりはしないけど、むっとした顔を向けられるから。甘い匂いがするのも、僕の知っている大人とはだいぶ違うから何だか困る。
「……あのさ、僕の名前……」
「名前?」
「何でそんな変な呼び方するの?」
「別に変じゃねえよ、あだ名ってやつだ。学校でもあだ名付いてんだろ?」
「……学校はあだ名禁止だよ……」
酒屋のおじさんはまじめだから、きっと今日も朝早くから配達に出ているんだろう。シャッターが半分開いている店内には誰もいないようだ。
「何だそりゃ、おかしな学校だな。ああ、そうだ、今日はサッカーある日か?」
「おかしな……ええと、そうだよ、今日はサッカーの日」
「あら、おはよ、
二階のベランダにいるおばさんから明るく言われ、そちらを見ながら「おはようございます」と挨拶をする。僕がまた視線を下ろすと、じいちゃんと目が合った。
「んじゃ、息子がグラウンドに行く日か。楽しみにしてろよ、キンキンに冷えたやつ持ってくよう言っとくから」
何で僕としゃべってくれるんだろう。他の子供にはこんなに話しかけていないみたいなのに。初めて会った時からそうだった。だから僕は、いつも口がへの字になっている表情には慣れていないけど、じいちゃんを嫌いになれないんだ。
「……うん」
「気を付けてな、がんばれよ」
「行ってきます」
しゃがれ声で送り出してくれたじいちゃんに言葉を返して、僕は六年三組の教室を目指した。
◇◇
週に三日、放課後の校庭はスポーツ少年団のサッカーチームが使っていいことになっている。僕はサッカーが好きで、転校前もスポ少でやっていた。お父さんとお母さんが
「
「えっ?」
「同じ名字なのに、おまえは全然だけど」
「…………」
グラウンドの隅でボールの空気圧を調整していると、コーチに話しかけられた。ドイツのプロサッカーリーグで活躍している伊田選手と僕は、同じ名字だ。だから時々こんな風に比べられることがある。
「ま、おまえ体デカすぎて鈍いもんな」
それだけ言うと、コーチは別の男の子と話しに行ってしまった。その男の子は僕と同じ六年生で、
「……走ってきます」
僕の言葉は聞こえているはずなのに、誰も答えようとしない。でも僕は、そんなことに負けたりしない。体が大きすぎてもストライカーになれるって信じている。今は百六十センチだから六年生にしては大きい方だけど、これからあと十センチしか伸びないかもしれないじゃないか。未来なんて誰にもわからない。
昨日動画で見たプロサッカー選手たちのシュートシーンを思い出しながら、グラウンドの外に出る。素早い動作で相手ゴールを刺すためには、足腰を
酒屋のおじさんがスポーツドリンクを持って来るまでにはあと三十分くらいあるよな、なんて考えていると、ふと道の脇から続く急な階段が目に止まった。段の角が丸くなっているくらい古くて、危ないから
「……ちょっとなら、いいよね」
どうせ僕なんかいなくたって誰も気にしない。戻るのがちょっと遅れたところで、叱られることもないだろう。僕は走るのをやめて、『なごみ神社』と縦に書かれている汚れた看板を横目にそろそろと階段を上り始めた。神社にお参りしたら何かいいことがあるかもしれない。
普段からなるべく鍛えるようにはしているけれど、さすがに急な階段が続くのはつらい。太ももやふくらはぎがだるくなってきた頃、僕の目の前に現れたのは草が生い茂った狭い空き地だった。風があまりないからか、一面に白いもやがかかっている。
「なんか、不思議な場所だなぁ」
走ったうえに階段を上った僕の体は熱くなっているはずなのに、すっと汗が引いていくくらい涼しい。もやの向こうに何があるのか見たくて、僕は目をこらしながら息を大きく吸った。
「ん? 甘い匂い……?」
酒屋のじいちゃんと同じ甘い匂いが漂っていることに気付く。何だろう、同じ香水……香水? いや、これは――
「……そうか、これ、和菓子屋さんの匂いだ……!」
僕がそう言い終えると同時にさあっともやが晴れ、目の前に古い鳥居と小さなお
しげしげと眺めているうちに、半袖のユニフォームから出ている腕に蚊が寄ってきたことに気付いて、振り払うようにそこから小走りで立ち去った。蚊に刺されても困るんだ。かゆみ止めの薬がどの段ボール箱に入っているかわからないんだから。
「すみません、また来ます」
そう小声で言うと、僕は転ばないように気を付けて階段を下りた。
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