第2話 ちがう、これは恋じゃない
いろいろあって疲れていたのに、僕は一睡もできないまま朝を迎えてしまった。
明け方にようやくうつらうつら……と、睡魔と手をつないで夢の国へ行こうとしていたのに、六時を知らせる目覚ましが容赦なく枕元で鳴り響いて、僕はゆっくりと目を覚ました。
「はあ……どうなることやら」
僕は働かない頭を掻きながら、いつもの倍の時間をかけて朝のしたくをした。ゆっくり着替えてゆっくり歯磨きをしゆっくりと朝ごはんを食べる。
「幸喜! 遅刻しちゃダメだからね!」
いつもより寝不足でスローペースな僕にお母さんも気づいていたけれど、きっといつもの夜更かしだ、ぐらいにしか思っていないみたいで、僕の肩を軽くたたくとさっさと仕事へ行ってしまった。
僕はカギが閉まったドアに向かって「いってらっしゃい」と言う。
「あーあ、こういうときに学校を休めたらなあ」
根津に会いたくない。
根津と遭遇して、もし〈アレ〉な態度を取られてしまったら、僕はしばらく立ち直れなくなりそうだ。それでも学校を休む理由にはならないんだから、行くしかない。
するとインターホンが景気良く鳴った。
「おーい、幸喜。善次郎さまが迎えに来てやったぞ」
普段なら通学路の途中でばったり会えば一緒に登校する善次郎。
なのに今日はわざわざ、僕を迎えに来たらしい。しかしこの善次郎の行動は僕にはすぐに理解できた。
(きっと根津と遭遇したときの反応がみたいんだな)
僕は男だけど、こういうときの勘は結構鋭い方だったりする。
「はあ……。どうもありがとう」
やれやれと僕はため息まじりに玄関を開ける。そこにはジャムを塗ったトーストをくわえた善次郎がニコニコと立っている。
「楽しそうだな」
「おいしいだけだよ」
意味深な笑顔の善次郎に、僕はあえて何も言わず、肩をすくめてみせた。
「カバンもってくるから待ってて」
「オッケー」
部屋に戻ってリュックを拾うと、つくえの上の透き通った天使の石をポケットにつっこんだ。
リコは昨日の失敗から少し元気を失くしていて、石の中に塞ぎがちだった。
(まあ、反省していてくれ)
僕は責める気にはならなかったけれど、許す気にもまだなれていなかった。だからリコにわざわざ話しかけたりもせず、ぶっきらぼうに接していた。
「いってきます」
だれもいない家に向かってひと言。
僕はガチャッと玄関のカギを掛けた。
学校に着くまで、僕は善次郎と何度もくり返し〈根津と会った時の対応〉を協議していた。
たとえばAパターン。
「おはよう、根津」
僕は明るく声を掛ける。
天使の天使の矢が効いていればきっと昨日のように真っ赤になるかもしれない。その様子を見た僕と善次郎はあくまで普通のクラスメートとして「またね」と言う。そして立ちすくむ根津を置いて教室へ……。
ちなみにこの場合、僕は天使の矢の無効化を考えないといけない。
Bパターンは善次郎に天使の石の話をしたことで、運良く天使の矢の効力が切れている場合だ。
「おはよう、根津」
僕が明るく声を掛けても、根津は昨日のことを忘れたように素っ気なく「おはよう」とだけ言うだろう。そしてピシャリと心の窓がシャットアウトされる。
この場合、ちょっと傷つくけど万事解決である。地道に宇佐美先輩への攻略にもどれば良い。
さて、それではCパターンはなんだろうと善次郎と話している間にも学校に着いた。下駄箱で靴を履き替えて階段に足をかける。
「Cパターン、根津が欠席、とかかな」
善次郎がいたずらを考えるように楽しそうに言うのを横目に見ていると、視界に根津が入ってきた。
僕らとひと足遅れで下駄箱に来たらしい。
「根津! お、おはよう!」
僕はできるだけ普通の態度であいさつをした……と思う。それに対して根津は。
「い、いいいい、猪野っ!」
なんとか僕の名前を言うと、根津は真っ赤になってしまった。そして教室へ向かう階段を無視して、反対側のろうかを走っていってしまった。
「おいおい、そっちは職員室だぞー。っていうか、ろうかは走るな、って根津の口ぐせなのに、本人が走ってんじゃん」
善次郎はおもしろそうにケラケラと笑っている。けれど、当然ながら僕は笑っていられない。
「Aパターンの亜種だな。立ちすくむんじゃなくて逃げたぞ」
「どっちでも結果は同じだろ」
そう。つまり、根津にはたしかに天使の矢が当たってしまい、僕と〈縁〉ができてしまったのだ。
「どうしよう」
「どうしようもねえな」
善次郎はそう言って階段を上がっていく。僕は予鈴に背中を押されるようにゆっくり階段をのぼっていった。
それからというもの、クラスで根津と目が合うたびに僕は気まずくなったし、根津は顔を真っ赤にさせていた。
クラスメートは僕と視線が合ったことに気づいてなかったけれど、顔が赤いのには気づいていて、何人もの女子生徒から「根津さん、顔が赤いよ?」「熱があるの? 保健室に行く?」と代わる代わる言われていた。けれど根津はそのたび「なんでもない」とか細い声で答えるものだから、しまいには担任まで「おい根津。ムリは体に良くないぞ」と心配されていた。
僕だって根津と目が合うたび、居心地が悪い気持ちになっていた。
いや、そもそも今日は異様に根津と視線の合うタイミングが多い気がした。
偶然だろうし、僕の意識のしすぎなんだろうけれど、それでもふと顔を上げればそこに根津が笑っていたりすると、僕も無駄に意識しちゃって、顔が熱くなった。
赤くはならなかったと思うけれど、根津と目が合って顔が熱くなるたびに「早く夏が終わればいいのに」ってかっこつけてた。
「何言ってんだ。これからだろうに」って善次郎はツッコむし、僕もその通りだとは思うけれど、もっと平和な……あるいはもっとウハウハな夏を想像していた僕にとって、根津の存在は少し――いや、かなり荷が重かった。
「やっと終わったぁ」
放課後の学校裏の小さな公園で、僕はブランコに腰かけながら大きなため息を吐き出した。
「おお、おお。立派なため息だな」
公園の端の自販機でジュースを買って来た善次郎は、落ち込んでいる僕と比べてやはり楽しそうだ。
「他人事だと思って。善次郎は良いよな」
「ああ。幸喜のおかげで恋愛はリスクが高いって知ったよ」
そう言って善次郎は缶のプルを開けた。炭酸特有のプシュ! という明るい音が僕ののどを誘惑する。
「そう言って、実は善次郎も好きな子とかいるんじゃないの?」
「いるっていったら?」
僕は目を見開いて絶句した。
まさか善次郎に好きな女の子なんていないはずだと思って言った軽口だったから、思わぬ解答に返事ができなくなってしまった。
「なに、その顔。冗談だよ、いないって。女子はみんな、うるさいだけだし」
「いや、それはないぞ。少なくとも宇佐美先輩はうるさくない」
「それを言うなら、根津も案外静かだよな。目が合うたびに固まって顔を真っ赤にしてるだけなんだから」
善次郎はジュースを飲みながらうなずく。
「というか、宇佐美先輩みたいに澄ましてる感じよりは、根津みたいに幸喜を見るたび真っ赤にしてるような女子の方がかわいげがあるよな」
僕は善次郎のその言葉にギョッとした。
「譲るぞ」
「いや、まだ幸喜のものでもないからな」
「そうだけど……」
僕はリュックの中をまさぐった。
「あった」
僕はひんやりとしたステンレス製水筒を取り出して一気に中身を飲み干した。と言っても、それほど残りは多くなかった。
中学校は水筒の持参が許されている。
特に夏は熱中症対策のために、水筒を持ってくることが推奨されている。授業中以外なら飲むことが許されていたんだけど、今日に限っては根津と目が合うたびに気まずくなって水筒をちびちび飲んでいたから、残りは少なかった。
あまりのどが潤わず、逆に渇きがひどくなる。
同時にいら立ちも強くなった気がした。
「そもそも根津の気持ちは、恋じゃないんだよ」
僕はリュックを放り投げると、足元を蹴ってブランコをこぎだした。キーキーと金属の擦れる音が小刻みに聞こえてきた。
「それ、どういう意味?」
善次郎は缶ジュースを飲み干すと、スクールカバンの脇に置いた。手すりをにぎったけれど、善次郎はブランコをこがなかった。
僕は「だからさぁ」と善次郎に説くように答えた。
「だって、リコの天使の矢でこうなったんだ。つまり間違い……いや、勘違いってやつだよ」
ブランコのこぐ音に消されないよう、僕は大きな声で答えた。すると善次郎がふと首を傾げた。
「でも、その天使の矢で宇佐美先輩と付き合おうとしたんだろ? 幸喜は」
「そ、それは――……」
僕は二の句が継げないまま、体が硬直した。
ブランコもしだいに勢いを失っていく。
「だから、それは……」
完全にブランコが止まってから僕は苦し紛れに言い訳を口にした。
「……それはでも、善次郎が天使の石を紹介したからじゃないか」
「はあ?」
僕の言い訳を聞いた善次郎は、完全にいらだった様子で「マジで言ってんの?」と聞いた。
「俺は〈恋愛運が爆上がりするお守り〉として教えたんだけど。天使の矢とか、むしろそんなの初耳だし、知っててもまさか当たるとか思わないじゃん? ましてや天使が本当に現れるなんて思えないし、未だに天使の矢だとかリコとか言われたところで信じ切れてないんだよね」
「僕がウソを言ってるって言いたいわけ?」
「そんなこと言ってないだろ」
「でも、リコは本当にいるし、天使の矢だって……」
すると今度は善次郎が大きなため息をついた。
「根津の態度を見てれば信じざるを得ないって。何も幸喜がウソを言ってるとも言ってないだろ」
「けどさ、善次郎がそう言ってるように聞こえるんだよ」
「お前がカッカ、カッカ、してるだけだろ?」
男二人だけの公園。
ブランコも動かず、セミの鳴き声だけが遠くに聞こえる。熱く苦しい空気が陽炎と相まって僕の息を詰まらせていく。
「そもそも、善次郎が宇佐美先輩にアタックしろってうるさいから――」
シャツのボタンをブチブチと開けながら吐き出す。すると善次郎はしずかに立ち上がった。
「そうか。全部ぜんぶ、俺のせいか。幸喜はそう言いたいんだな」
(なにも、そうは言ってないだろ――)
僕はそう言いたかったんだと思う。けれど乾いて張りついたのどは声がかすれて言葉がでなくなった。
「勝手にしろよ」
まるで味のしなくなったガムを吐き捨てるように、善次郎は僕を一瞥すると、そのままカバンと空き缶を持って公園を出て行ってしまった。
「な……んだよ。なんだよなんだよ、なんなんだよ!」
ようやく口から出た言葉は、同じ言葉のくり返しだった。
「善次郎のやつ……善次郎のヤツ!」
僕はそう言って立ち上がると、うつむきながら下唇をギュッとかみしめた。
「……幸喜……」
だれもいなくなった公園で、優しい声が耳もとに聞こえた。リコの声だった。
「リコか……」
「大丈夫? なんか辛そう」
リコは眉を八の字にして悲しい顔をしていた。僕が辛そうだと言うけれど、リコの表情こそ辛そうだった。
(そうか。リコは僕の心が読めるから、どんなことを考えているか、ぜんぶ分かってるんだよな)
たとえば根津を見るたび、罪悪感とか居心地の悪さを感じていたこととか、リコは知っているんだ。
でも――。
「もとはと言えば、リコが矢を外すからこうなったんだろ」
僕は思ったこと……そして言わなくて良いことをわざわざ口にしてしまった。
言わなくたって、リコには分かるというのに。
リコは悲しそうな顔で「幸喜ぃ」と僕の名前を切なく呼んだ。
「幸喜……でも、それは――」
「天使の石なんて、買わなきゃよかった! リコなんて当たらなきゃよかった!」
僕はポケットから天使の石を取り出すと、それを地面に叩きつけた。
「ひどいっ――。もう、知らない! 勝手にしなよ! 幸喜のバカっ」
リコはそう言い残して消えてしまった。僕は舌打ちをしながらリュックを拾って自販機へ向かう。
のどがひどく乾いていた。そして善次郎の飲んでいたジュースが羨ましくてしょうがなかったんだ。
財布を出して百円玉と十円玉数枚を取り出す。十円玉から順番に自販機の投入口へ滑り込ませていった。最後に百円玉――。
「あっ!」
その百円玉が、指先をすべって自販機の下へと勢いよくコロコロと転がっていってしまった。
「ちくしょう!」
僕ははいつくばって自販機の下をのぞき込んだ。薄暗い地面。手も顔も夏の暑さで熱々のアスファルトに耐え切れず数秒で立ち上がる。財布をのぞけば百円玉は今ので最後だった。
「ちくしょう、ちくしょう!」
投入口近くにあるおつり・返却のレバーを押して十円玉を回収すると、僕は唐突に走り出した。
(なんだよなんだよ。神も仏もないんだな)
泣きたいような悔しいような気持ちで僕は走る。
(天使がいたところで役立たずだし。なんて世の中だよ、この世界は!)
僕は息を切らしても走り続けた。
家が近づく途中、信号が赤に変わってしまってようやく足を止めた。その瞬間、のどの渇きと息切れが同時に来てせき込んでしまった。
「けほっげほっ……」
なだれ込むようにせきが吐きでる。長距離走のときのようなのどの痛み、口に広がる血の味。
「最悪っ」
僕は息も絶え絶えに吐き捨てると、青に変わった瞬間に横断歩道を歩きだした。走る気力も尽きた僕は、残りの道を重たい体を引きずるように歩き続けた。
家に帰った僕は、ジュースを飲みたいとすらもう思えなかった。ただ、水道の蛇口から流れる無限の水を頭から被ってしばらく冷やしてから、同じ蛇口から水をガブガブと飲んでのどをうるおした。
おいしいとか癒されたとか、そんな感動もついになくて、僕はただ心底どうでもよくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます