第47話 悪魔は死んでいない・8
帰り道、マチルダの姿はなかった。
ボイルには、それがどういう理由でか、分かっていなかった。
頬はまだヒリヒリする。それはアリスからの愛。きちんと叱ってくれた。
その痛みのお陰で、少し落ち着いていた。
大きな袋を引き摺った跡があった。袋詰め自体はやってくれたらしい。
で、血痕が途中で止まっているので、その先が分からない。
でも、感覚で分かる。
「アダム…か。最近、独り歩きしすぎる情報を気にしていたし、ってか争った跡もがないから、多分そう…」
勿論、アダムが彼女を保護したとなると、その前の話の時に彼は知っていたってことになるのだけれど。
でも、きっと正しい。
だから、ボイルは袋を背負わずに、グランスロッド邸と呼ばれる廃教会に帰っていく。
ガッツキすぎだ、俺。先ずは世界の平和があって、それからなのに。
これもこの下半身のせい。
女を侍らせる夢、全ての女の上に君臨する夢。
アレのせい。その欲求を抑えられなかったから、再び弟妹は死んだ。
それにあの夢の内容、なんで天下を取っているのか。
ラマトフは別に…。いや、そんなことはどうでもいい。
悍ましい貴族街はやっぱり悍ましい貴族が住んでいる。
目を凝らさなくては駄目だ。
グランスロッド公爵家の邸宅は別に存在している。だって廃教会だから。
侯爵家、伯爵家が立ち並ぶ地区より、見た目上は治安が悪く見える。
実際は治安が良さそうな場所ほど、治安が悪い。
上流貴族の邸宅は、踏み込んだが最後、二度と出てこられない。
「いや。廃教会と言ってもグランスロッドの家だ。グランスロッド家がその気になれば、あそこも…」
公爵家だったフレーべは独立したし、グランスロッドは廃教会。
危険を感じるのはゾンビーヌから領地を奪い取ったロドリゲス侯爵家と公爵に匹敵するほどの政治力を持ったグレイシール家、未だ目立った動きを起こさない元ガーランド邸に住むケイネマン公爵家の三つの家。
廃教会はさておき、その三つは城のようにも見える。中で何が起きているのか、想像したくない。
いつかは踏み込まないといけない。
だけど、公爵家とそれに匹敵する家々。グランスロッド公爵の嫡男をいつも見ているだけに、生きた心地がしない。
「グレイシール。あの城みたいな場所に僕の手足が保管されている。あいつが胴元になって孤児を売り捌いている。孤児も中身は貴族の可能性があるから、死体にして引き取っているのかも」
ボイルはそのグレイシール家にあったことがない。
存在だけはアダムの口から何度も聞かされているので知っている。
そも侯爵家で名前を知っているのは、ロドリゲス、ボルシェ、グレイシール、バーベラの名前だけ。
もしかしたら他にも侯爵家は存在しているのかもしれない。
「結局、飼い犬の俺は飼い主のアダム・グランスロッドに頼らざるを得ない…。今回だって…、いや。これはもう忘れよう」
□■□
胸の鼓動がおかしい。不整な脈を打っている。
たぶん、今の自分は良くない方向に向かっている。
でも、それは貴族殺しをする上で良くないのであって、人間としては良い方向に向かっている。
今日の飼い主は、生かしたことにがっかりするのか。
でも、大丈夫。
無我の境地とは違う。
俺とアリスは繋がっている。
彼女の愛情が心を清らかにしてくれる。
正しく清らかな正義を教えてくれる。
やっぱり自分には貴族と真正面から戦える勇気はない。
そんなに逞しい、いや卑しい人間にはなれない。
既に汚れている?
彼女と二人、幸せになる為には仕方がないこと。
だから、やっぱり俺には腹上殺ししかない。
あぁはなりたくない。もっと冷静に、もっと正しく。
ってことは、魔力が足りない。
だから、正面から貴族は殺せない。
「あの…、今日の仕事…」
いつもなら憮然とした態度で貴族の一部を渡す。
でも、今日はおずおずと、だって手ぶら。
彼の目は嫌いだ。心の底を見透かしているようで。
彼の表情は何も変わらない。教誨師の時だって変わらない。
教もいつもの笑顔だった。
「貴方に幸せそうな顔は似合いません。良い方向に向かっているようで」
とは言え、口は悪い。
「仕事の話をしてるんだけど」
「流石は平民。怯える顔はよく似合っていますね」
貴族は狂っていて、平民はまともな世界だ。
それは本当の意味では褒め言葉の筈だ。
「いや、だから仕事…」
「狙った首は悪くないですね。私の予想より一体少ないですが、それはそれで都合が良いです」
「え…、それじゃやっぱり」
「妙な拡散をされると不味いので、私が保護しました。今は地下牢にマチルダ様はいらっしゃいます。ですが、ご安心を。君が受けたサービスをする価値もないので、五体満足ですよ」
「どのサービスのことだか。…ま、あの人は情報を吐いてくれたから、生かした。それだけだ。そ、そういえば…」
ってことは、例の件は誤解だったってことになる。
だけど、その前にアダムは言葉を挟んだ。
「私のことはお気になさらず。だって、君の存在は間違いなく、悪魔に愛されています」
「悪魔って……。俺は正義を…」
「君は無意識のうちに、私が提示する交渉ポイントを獲得しています。つまり世界をかき回す為に必要な道を歩んでいます。これを悪魔に愛されていると言わず、何と言うのです」
ポイントを稼げている。それは嬉しい言葉。
そんな態度で言われなかったらの話。
「…お前の命令で動いてる。つまり愛されているのはお前だろ」
「いえいえ。私など…とてもとても。共に喜びましょう。あと一回仕事をすれば、奪われた君の体のほとんどは戻ってきますよ」
そして、その言葉にボイルの思考は一時停止する。
前回までのポイントでも、一割程度しか回収できていなかった。
ただ、この件に関して、彼が嘘を言うとは思えなかった。
考えられるとしたら、いや、貴族の考えなんて分かりたくもないが…
「本当?次で俺は…」
「えぇ。自由です。私としては残念としか言いようがありません。もっと楽しみたかったのに。君が余りにも…」
自由。アダムからの卒業。孤児院の時は後ろ髪ひかれたけど、今回は別。
コイツは間違いない変態だ。一緒に居たら変態がうつる。
そんなボイルの顔を見て、アダムは更に残念な顔。
とは言え、それはそれで楽しそうな顔をした。
「別れを惜しんでくれないようですね。どうします?ガーランド領に行って、残りの体を取り戻します?ロドリゲス領に行って、君に嫌な思いをさせたサマンサとボルシェ侯爵を惨殺します?もしくはバーベラの双子姉妹を君の奴隷にしますか? フレーべに行って、騙された借りを返しますか?」
「お前…、やっぱり…」
この男は全部知っていた。
薄々気がついていたけれど、実際に言われたのは初めてだった。
でも、それも彼の希望通り。奥に引っ込んで機会を窺っている大物を引っ張り出すと、ほとんど同義である。
こんなのを卒業とは言えない。
院長先生に言われるがままに「貴族の殺し屋」という職に就職するだけ。
そんな手に乗ってたまるか。アリスと共にどこまででも逃げてやる。
そんな思いを込めて、睨み返すことを返事とした。
「私の読みでは明日の夜です。だからその時まで、せいぜい魔力の研鑽に励んでくださいね」
そして彼はいなくなる。
今日は致し方なく、妹たちを殺した。
研鑽なんてこの心境では……、なんてことはなかった。
ここからボイルの時間の始まり。やっぱりほんの少しだけど…
ボイル…ごめんなさい…
「アリス…。本当に連絡くれた…」
うん。だって…今日私、とても酷いことを…
今日も約束してくれた。夜、連絡すると言ってくれた。
謝る必要なんてないのに。
「俺こそゴメン…」
あ…、駄目…。…ごめんなさい。いい…の。私が……もっと…もっと…
「だ、大丈夫?アリスは気にしないで。…俺、もうすぐ体を取り戻せる」
そ…なの?凄い…凄い…
「うん、だから…」
ボイル、愛してる‼
「え…?えと俺もアリスのこと…愛してるよ」
駄目…。私の方が貴方のことを…凄い…凄い…凄い…。ダメ…もうそろそろ…
「あ、うん。だから次は君を…」
来て…。私、受け止めるから…。私ももう限か…
「…うん。必ず手足を取り戻して、君を迎えに行くよ。連れ去りに行くから…」
返事は来なかった。
彼女も急いでいる様子だったし、義手や義足と同じなら魔力が必要な筈だ。
慣れないからとぎれとぎれ。
もしくはバレないように頑張っているのか。
「でも。元気…もらえた」
明日には手足が戻っている。
そして、その夜が明けたらここを卒業。
彼女はあそこで待っていてくれている。
いや、こっちから居場所を突き止めたって良い。
自由。そこから先は何をしても自由。
「その後、直ぐに…。俺はアリスを思いっきり抱きしめて」
結婚なんてごっこでいい。どっかの教会に突撃して、勝手に愛を誓って。
そして共に——
「不味い…。集中しないと。絶対に負けられない戦いだ。俺とアリスの戦い。最後まで頑張れ、俺。頑張ろう…、アリス」
先程までの清らかさはなんだったのか。
彼は即行で性欲の研鑽に励む。悶々と考える。
彼女との初々しい初夜が楽しみで仕方ない。
数々の淫行を見てきたから、初めてがどんなか分からないけど。
きっと、神聖なもの。ん?神聖なもの?作法…とか?あ、駄目だ。
彼の頭はそのことでいっぱい。
今回の襲撃に夜が選ばれたことなんて、頭からすっ飛んでいた。
以前にも話したが、夜中に堂々と性行為できるのは強者のみである。
つまりは過酷な戦いになる。
でも、全身男性器たる童貞ボイル君は、そんなことを一切考えず、自慰禁止を続ける。
実に三十時間、彼は寝ずに卑猥な妄想に耐え続けた。
悟りではなく、ただの我慢。
その全てをアリスなら受け止めてくれる。
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