第12話 醜悪で下劣なお屋敷・下

 清く正しく生きなければ、神様を信じなければ地獄に落ちる。

 言葉と文字だけで教わった言葉、地獄。


 あの時は思い浮かばなかったけど、今ならこの光景を思い浮かばせるに違いない。


「救世主様のおかげ…だよ」


 背中の感覚が無くなるほどの恐怖。

 ギロチンの時は見えない恐怖だった。でも、今回はまざまざと見せつけられる恐怖。

 それにボイルの筋肉が硬直していく。


 逃げなきゃ…、殺される…


 けれど、足が動かない。恐怖で微塵も動けない…、というわけではなかった。


「どこに行こうとしているのかしら、救世主様。」


 足下から聞こえる声。その主の手が足首を掴んでいる。

 女の声、なのにという言い方は間違っているかもしれないが、足の感覚がなくなるほどの握力で掴まれている。


 ドン‼バチャ…


 その直後、少年は背中からも衝撃を受けて、血の海に飛び込んでしまった。

 動物の血だと思えば、どれだけ心が救われることか。残念ながら、転んだ先に見えたのは人間の顔の一部だった。

 さらに言えば、見覚えのある革靴も見える。

 短剣を持つ殺人鬼・ルシアンの革靴とそっくり。いや、残念ながら本人。


 殺される…


「おっと、失礼。救世主殿。ちょっと強めに押し過ぎましたかな。」


 そして別の声、この主に突き飛ばされた。主の名はデーモスだ。


 救世主…ってなんだよ‼


 半身を捩って、ルシアンから離れようとすると、デーモスの姿が見えた。

 そして違和を覚えた。いや、それは本来なら違和感ではない。

 彼の体だけ綺麗、それが違和感の正体だった。

 リリアがどうなっているのかは分からないが、血まみれで肉塊に埋もれている。

 この肉の塊はすべてルシアンがやったように見えるが、実際にその通りなのだろう。


「いやいや、逃げてしまうかとハラハラしたよ。君が本当に勇敢で助かった。これで私と息子と娘は救われる」

「それだけではありませんよ、父上。王が死に、王の従兄弟がこれだけ死んだんです。もはや王族に傅く必要はありません。だから領民も救われるんです。やっぱり、彼はボクが思った通りの英雄でした。ボイル様のお陰だ。全部、ボイル様の…。ボイル様、本当にありがとうございます‼」


 ルシアンが興奮気味に英雄を褒め称える。

 すると血の塊の一部が動き、そこから血塗れで裸の女が身を起こした。

 先ほどボイルの足首を掴んだ女、リリアだ。

 今は彼女だろうとしか言えない程に血に染まっている。

 そして、麗しの彼女とは思えないほど、酷い形相だった。

 本当に本人か、疑ってしまうが、瞳の色と辛うじて血に染まっていない髪の毛の一部はリリアと一致する。


「何、一人で感動しちゃってんのよ。私はまた犯されて──」

「う…」


 声を聴けば、リリアだと確定すると思ったけれど、どうやらそれは難しいらしい。

 それに、その言葉をボイルは途中までしか聞けなかった。

 赤く染まる女の足がボイルの下腹部を蹴飛ばし、意識が飛びかけたから。


「やっと蹴飛ばせた。あんたの厭らしい目もうんざりだったのよ!ほんっと、気持ち悪い。この租○ン野郎!」


 あの清潔感溢れる少女の言葉とは思えない。

 呼吸ができないだけでなく、眩暈まで感じる。

 何度も蹴られて、全身に激痛が駆け巡る。


「やれやれ、力が戻ったのか。一応、手加減をしないと——」

「分かってるわよ、クソ親父!私もこいつらを八つ裂きにしたかったの‼」


 悪夢だった。でも、定期的に襲う内臓まで響く痛みが現実だと言っている。

 デーモスは父親で彼女は娘。

 彼女は父親に向かって暴言を吐いた。


 全く意味が分からない。

 いや、どう考えてもおかしい。

 なんで、今まで何も考えていなかったんだろ。


 最初の出会いから。ルシアンがボイルが蹴飛ばした力、リリアが服を無理やり脱がした力、そして、今蹴っている力。

 孤児院はとても厳しくて、折檻も当たり前だった。

 でもこれは、ボイルが知っている大人の力じゃない。


 ——これが貴族の力。


 そして、殺人鬼ルシアンが紡いだ『英雄を受け継ぐ力』


「こいつも傷つくべきだわ。これだけの人数を平民のこいつがヤレるわけないじゃない!」


 彼女の凶暴な足がさらに大きく振りかぶられる。

 あれを喰らえば痛みで死ぬかもしれない。


 だが、途中でその蹴りは止められた。


「おいおい。その前にやるべきことがあるだろ。すでに救難信号は送ってある。ルーシアは被害者じゃなきゃ」


 その言葉にリリア……いや、ルーシアの表情が恐ろしいほど歪む。


「…そうね。あの薬、すごかったわ。口で受け止めるのが大変だったくらい…」


 醜悪な顔をした女は父親の元に歩き、見た事のある白濁液が入った容器を受け取る。

 そしてそれを手で掬い、自身の股ぐらへと塗りつける。


「リリアン、あんたもケツに塗っときなさい。私だけ気持ち悪いなんて不公平だわ。」

「いやー、それはちょっと。ほら、王様からは体液が検出されなかったんでしょ?」

「そうだな。ルーシア、貸しなさい。私がその辺の女に塗り込んでおくよ。私にもっと力があれば、こんなことにはならなかったんだから、責任をもって救世主様の体液を下衆な豚共に塗り付けておくよ」


 口応えが許されぬ、彼らの独壇場の中、ボイルは激しい嘔吐を繰り返していた。

 そんな中、大切な言葉だけはちゃんと鼓膜が拾ってくれた。


 え…?今、なんて?

 王様からは体液が検出されなかった…って、言った?


 髭男は肉塊を漁っては、容器に入った液体を丹念に塗りつけている。

 女は嬉々として死体を切り付けている。

 男性の汚らしい部分を壁に貼り付けて、醜く笑っている。

 若い男は唾棄すべきアートを眺めて、ニヤニヤしている。


 俺が知らないことまで知ってたんだ。こんなにも…、狂っていたなんて…


 どうして、そこまで残酷になれるのか。

 あの優しかった二人は、こんなにも狂っていた…?


「いやぁ。ほんと夢精してくれて助かったよ。もしも人違いだったらって思ってたからね。ほら握って……。おい、なにやってんだ。握るんだよ!あーあ。精液以外の体液を流すなよ。なんで強姦殺人鬼が自分の犯行で吐くんだって疑われるだろ?」


 ルシアン、いや、リリアンがついには悪態を吐いた。


 俺の罪は王殺しだけじゃなかった。…強姦殺人鬼って?


 漸く、ボイルは自身の罪状を知ったのだ。

 そしてあの日何が起きたのかも分かった。

 どうして同じ手法を取ろうと思ったのか。それは考えるまでもないだろう。

 彼らはどこかでその方法を知り、模倣をしただけだ。


 このままだと、また僕の犯行になってしまう


 そしてちょうど少年の手には短剣がある。

 間抜けにも、そこに活路を求めてしまっても仕方ない。

 だって、孤児院から出て出会った大人は、全員悪魔だったんだから。


「うううううううう!」


 戦い方なんて習っていない。

 この子は短剣が上手に扱えます、なんて孤児は良い家に引き取られないに決まってる。

 でも、やるしかなかった。この短剣で、あの貴族たちは死んだんだ。

 だったら…


「へぇ。戦う意志はあるんだ。ちゃんと受け止めてあげるね。ボクは君に本当に感謝しているんだよ」


 だから少年は殺人鬼を斬りつける。

 そして、ルシアンでなくなったリリアンが、それを片腕だけで受け止めた。

 盾をつけている訳ではない。でも、何故か途中で短剣が止まってしまう。

 この短剣でたくさんの人間を斬って、油がついて切れなくなったから?

 いや、そういう意味ではなく、単に硬い。


「今、君はボクを殺してでも逃げたいと思っている。…分かるよ。それが人間の本質なんだ。誰だって一人か二人くらい殺したい奴がいるもんだよねぇ」


 その言葉に目眩を覚える。


「ふふふ‼ふふふふふふふふふ‼」


 俺をお前達と同じみたいに言うな!


 何度も何度も斬りつける。

 全く切れないわけではないらしい。斬りつける度にリリアンの腕に傷は出来る。

 けれど、彼の不気味な笑みは変わらない。


 まるで、ワザと傷を負っているみたい。

 ってことは。


「ボイルゥゥゥゥゥウゥウウ‼見つけたぞ‼」


 やっぱりワザと。

 ボイルには周りが見えていなかった。

 いや、カーテンで分からなかった。

 闇の魔法と静寂の魔法はいつの間にか消えていたのだ。


「大丈夫ですか? みなさん……って、これは一体……。おぇぇぇ」


 そして、駆けつけた兵士達は、悲惨な現場に声を失っていた。

 最初に駆けつけた彼のように、その場で嘔吐する者が続出している。


「お……遅いですぅ!私、こ、こ、こ、怖かった……。怖かったんだからぁぁぁ」

「ルーシア、もう大丈夫だよ。王宮の兵隊さんが来てくれたからね」


 ボイルは猿轡のせいもあるけれど、言葉を失った。

 リリアンとルーシアの顔は、いつの間にか被害者のソレに変わっていたのだ。


 そして、被害者を守ろうとする兵士たちに囲まれる。

 現場の壁に張り付けられた被害者たちの局部に騒つく兵士たちもいた。

 こんなヤツもいた。


「この悪魔め!俺がぶっ殺してやる!」


 間違いない。こんなことが出来るのは悪魔に違いない。


 だが、悪魔は言った。


「待ちなさい。ここで彼を殺す権利は君にはない。」


 悪魔の父親デーモスの言葉、いや多分この男も名前を変えている。

 彼らは名を変えて、役を演じていたのだ。

 その言葉に兵士の剣が止まった。

 そしてその声に呼応するように、兵士の後ろから茶色い髪、顎髭の男がぬいっと現れた。


「もしかして……、モーデス殿ですか。確かにここはフレーべ家の所有地ですが、貴方は確か……」


 顎鬚男はデーモスだったモーデスを訝しんでいるように見えた。

 何を訝しんでいるかなんて、ボイルには分からない。

 剣が止まったことに安堵している、愚かな自分でもある。


「今宵はフレーべの恒例行事だった、と言えば君には伝わるかな?ええっと、君の名は……」


 フレーベ?恒例行事…、これが?


 戸惑うボイル。その言葉に急に青ざめた顔になった髭男。


「じ、自分は、悪魔捜査部隊隊長、ジェームズ・ライザーです。ということは…」

「あぁ。君たちが逃した悪魔のせいで、私は大切な兄と姉を一度に失ってしまったのだよ…」


 モーデスの言葉は、悲惨な現場の責任を兵士たちに押し付けるものだった、らしい。

 兵士の中には「モーデスって誰?」「聞いたことないけど」なんて言葉も聞こえてくる。

 そんな若い兵士の言葉に一番腹を立てたのが、ジェームズ・ライザーだった。


「静粛に! モーデス様はたった今、フレーべ公爵家の嫡子になられたのだ。お前達、言葉を慎め。そして今すぐ、現場の保管に移れ。」


 完全にボイルそっちのけで、繰り広げられる会話劇。現場検証。

 愚かで矮小な少年は呆けた顔でそれを眺めていた。

 自分の置かれた立場が理解できない程の愚か者である。

 手枷、足枷が戻ってきたが、それでも呆けている。


 平民はどうやっても貴族には勝てない。英雄の血が濃いほど、魔法も体力も優れている。だから、天地がひっくり返っても敵わない。


 何がどうなっているのか分からないし、貴族から逃げ切れる気がしない。


 結局、猿轡は外れていない。

 アウアウと言ったところで、ただの狂人扱いされるだけ。

 そして暫くは殺されないのではないか、という意味不明な確信。


「隊長、男女合わせて八名の死体を確認。そしてモーデス様のご子息二名も負傷。御息女に至っては悪魔の体液が検出されております。そしてその体液も王を殺害した者と同じです。これはやはり…」

「うむ。とにかく我々は目的に到達した。だが、ここはフレーべ領なのだ」


 ジェームズはモーデスの顔色伺いに忙しい。

 それほど、深刻な事態だったらしい。

 王族と親戚筋の長男、次男、長女をあの悪魔が殺した。

 王族直属部隊の責任と言えなくもない。


「ジェームズ君。私たちはきちんと記録をとって貰いたかっただけだ。悪魔の命になど興味はない。さあ早く。あの悪魔をこの地より追い払ってくれ。そうそう。後ほど、フレーべ家としての方針は伝えるとも言っておいてくれたまえよ」

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