第11話 醜悪で下劣なお屋敷・中

 ボイルの膝はガクガク震えていた。

 あの後、リリアは自ら服を着崩しながら、こう言った。


「英雄様、ご存知ですよね? そのような状態では魔力が乱れて、大魔法使い様の力を弾いてしまいます。教会での『ご起立』はご法度。それは知っておいでですよね?…身も心も綺麗でなければ神の声は聞こえません」


 少年はこれまで散々我慢をした、——夢精までした。

 でも、発散なんて出来ない。胸が熱い、心臓が痛い、熱っぽい。


 自分が自分じゃないみたいだった。


 別の意志を持った何かが、体の一部に取り憑いているようだった。


「本当に、ダメな方ですね。」


 そんなこと言われたって。それならどうしてキトンを脱いだの?そんな巻衣じゃ…、肌が見えちゃうし。


 理性はそう言っている、でも、中枢神経は脳にある筈なのに、動眼神経が別の指令を聞く。

 巻衣の美しいドレープが、動くたびにその内部をチラリと見せる。

 それを追いかける、少年の瞳。その瞳に宝玉のような瞳が近づく。

 そして耳元に息がかかる。


「私がなんとかいたします。おまじないです…よ…」


 そして彼女の視界が下に消える。

 いや、目で追ったらすぐに分かる。

 そして抗えない自分がいる。抗いたくない自分がいる。


 全ての血が集まっていく。

 だから、考える力が失われた。


 でも…、これは。


 ——あの時と…同じ


     □■□


 孤児院時代の話。時々覗きに来る綺麗な女の話だ。

 彼女は孤児たちの憧れだった。

 彼女は孤児院にいつも『お金』をくれる。

 だから好きという意味ではない。

 おそらくは母を求めていると分かるそれ。

 でも、彼女の年齢は分からない。

 ただ大人の女の人。そして、とても良い匂いがする女の人。

 説明ができないほどに魅力的な女性。男子、女子問わず、彼女に憧れた。


 アリスも頬を膨らましつつ、甘えるのを許してくれるほど、あの女の人は特別だった。


 そしてあの日に遡る。

 例のおねしょ事件の翌月、俺の卒業が決まった。

 孤児院自体は裕福なわけではないし、人手も足りていない。

 というより、いつまでも子供のままではいられない。

 だから、必ず卒業を迎えるのだが、卒業とは雇ってくれる誰かが現れることを意味する。


 それ故にスパルタ教育が施されている。どこに行っても使い物になるように育てられる。


 卒業生のことはあまり知らない。

 貰う人、雇う人によって全然違うっていうのは手紙を読めば分かるし、それはそうだと思っていた。

 とても良い人に貰われたら、幸せになれる。

 悪い人に雇われたらボロ雑巾のごとく、こき使われる。

 卒業とは博打。っていうか、怖い。


 ただ、そこで奇跡が起きた。

 俺を雇うと言ってくれたのが、あの綺麗な女の人だったのだ。


 天にも昇る気持ちだった。

 あの時の喜びは、今でも覚えている。

 羨ましいと妬む弟と妹を覚えている。


「良かったね。私も鼻が高いよ。例え、私がはずれを引いても、ボイルは幸せって思えるし…」


 そして、素直に喜んでくれた、あの子の笑顔も覚えている。


「多分、凄い人だし、アリスのことも言ってみるよ」

「ダメだよ。そんな我がまま言っちゃ」

「分かってる。だから…、頑張る。何でも言うことを聞いて、頑張って気にいってもらえるようにする」

「ふーん。それじゃあ…、期待してる。っていうか、気に入ってもらいたいのはボイル自身でしょ」

「そ、それは…」

「冗談。…がんばって」


 いや、図星だったかも。

 ちなみに仕事はとても簡単だった。彼女の部屋のお掃除をするだけ。

 最初の日は、綺麗な女の人が直接、服を着せてくれた。

 ちょっと窮屈だったけれど、その服も良い匂いがした。


「これだけで…いいの…かな」


 本当に簡単なお仕事しか与えられなかった。

 あの人はほとんど部屋にいない。身の回りの世話は別の人がやる。

 だから毎日毎日、1日分積もった埃を払うだけ。


 ここまでの話を聞いて分かると思うが、俺は彼女の名前を知らない。


「そうね。そんな年齢ではないかもしれないけれど、お嬢様と呼んでくれる?」


 だからお嬢様と呼んでいた。

 お嬢様は毎日忙しかった。しかも最近、特に忙しいらしかった。

 だから、こんな半端者でも、猫の手でも、猿の手でも、何でも借りたかったらしい。


「でも、これだけは…」


 一つだけ絶対遵守しなければならないことがあった。

 縄張りがあって、ここから先は行ってはいけない、という決まり。

 その建物の外から出てはいけないと言われた。

 庭付きのとても綺麗な家。孤児院と比べてしまうと、あまりにも輝いていて、すぐに飽きるなんてことはなかった。


「お嬢様って何をしているんだろう…。誰とも話が出来ないのはちょっとだけしんどいけど」


 少年の罰則は、少年だけに留まらない。

 彼女に近しい立場の者、もしくは彼女と敵対する者に品行方正の「ひ」の字もない自分が見つかれば、お嬢様自身の首が飛ぶ可能性があるらしい。

 これは比喩ではなく、本当に首が飛ぶのだ。

 それを連座性と言うらしい。


 雑巾を絞りながら、俺は言った。


「でも、ボロ雑巾みたいにコキを使われるわけでもないし。この雑巾だって綺麗だし」


 そんなある日、俺は母親のように慕う、お嬢様に『お仕事』のお手伝いを頼まれた。

 お遣いではなく、お手伝い。


 今まで忙しかったのは、『とあるモノ』を取る為の準備をしていたからだったらしい。


「誰にも見つからないように取るだけ。それを手に入れたら、私は幸せになれる。そして貴方も自由になるの。上手くいったら、ご褒美もあげる。君が気にしていた子のことも考えてあげる」


 甘美な言葉だった。

 美しいお嬢様が、本当に嬉しそうにしていた。

 それにアリスのことも。


 夜中にこっそりとお宝を取ってくるという『ワクワク』すぎるミッション。


 月が出ていない真っ暗な日。

 その日がワクワクミッションの決行日だった。


 『お嬢様』と手を繋いで歩いた。

 とても柔らかくて、とても暖かかった。


 でも、そこで。


 ──僕は『とんでもないモノ』を見た。


 彼女の手を頼りに歩いた先で、知らないおじさんが知らない女の人と裸で抱き合っていた。

 あれがなんだったのか、正直分からなかった。

 だって、教えてもらっていないことは知らないから。

 思ったのは、得も言われぬ気持ち悪さ。グロテスクな何か。

 そして、グロテスクなのに、体が熱くなった。


「こっちへいらっしゃい」


 耳元で囁かれた時、心臓が飛び跳ねた。

 そしてお嬢様は俺の──


     □■□


 そう。

 俺はあの時、今と同じことをされた。


 今と同じように放心状態になった俺は、気がつくと兵隊に取り囲まれていた。

 後のことは何も知らない。お嬢様がどうなったのかも知らない。

 何も分からないまま、猿轡を嵌められた。


「ん?んんん‼」


 リリアの姿がない。本当にあの時と同じ?

 このままだとマズい?多分?いや、絶対にマズい!


 何が起きているのか、なんて分からない。


 ——でも絶対に良くないことが起こる。


 ボイルはガクガク震える膝を無理やり押さえつけ、一歩、また一歩と歩き始めた。


 俺はまた、『お嬢様』に騙された?


 いや、違う。ルシアンもリリアも凄くいい人だ。

 だから多分、これは何かの間違いで…


 そう言い聞かせながら、少年は見知らぬ廊下を歩く。

 この、よく分からない結界のせいで耳が聞こえない。

 どうして彼らは暗闇で目が見え、そして聞こえるのか。


 血液が脳に戻り始めて、情報伝達という仕事を思い出していく。

 でも、シナプスが僅かに仕事をしただけで辿り着く。

 結局、答えは一つしか転がっていない。


 ——あの二人も貴族だった。


 だから、二人も魔法が使える。この結界の中でも平気で動けるのだ。


 平民って言ってた…のに。どうして嘘を…


 その廊下は外よりも少しだけ明るくて、徐々に目が慣れていく。

 ただ、その表現が間違いだったことに直ぐに気付いた。

 廊下が少しだけ明るいのではない、光の漏れている部屋があっただけ。

 そしてボイルは夜光虫のように、その光に引き寄せられた。


 そこで異変を感じて立ち止まった。


 ピチャ


 足下からそんな音がした。

 少年はずっと裸足だったので、その気色の悪い感触に思わず仰け反ってしまう。

 廊下は絨毯が張られていて、歩きやすかっただけにぬるっとした感触が際立っていた。


 赤い絨毯…に何かが零れ…、ひっ…


 絨毯は部屋の明かりを反射して、キラキラと輝いて見えた。

 赤く、不気味なほどに赤く。まるで血の色…、いや…


「ううううううううう!」


 そして何が廊下に零れていたかを悟る。

 少しだけ開かれたドアの向こうに、その正体があった。

 嘔吐さえも許さない猿轡だが、そんなことはどうでもいいほどの…


 真っ赤な部屋


 自分が何を踏んだかなんて、確認する必要がないほどの蒸せ返るような血の匂い。


「おぇぇ…」


 赤い液体の間にちらりと見える肌色が、血の袋で作られた人間だったことを物語っている。


 血の海、血の壁、血の空、血の世界


「ん‼」


 ボイルは咄嗟に両手を口に当てた。とげとげしい猿轡が手のひらに刺さるが、それでも口を塞ぎたかった。


 血の世界に一人の男が立っていたから。


 短剣を両手に持った血まみれの青年、今はメガネを掛けていない青年

 間違いなく、このアートを演出した青年、彼がゆっくりと振り返る。


「やぁ。待っていたよ。僕たちの救世主様。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る