第9話 俺は英雄になる
「ボイル君。もしかしたら君は意識していなかったかもしれない。でも、とんでもない偉業なんだ。そして、君が思っている以上に今の世は乱れている。それは王の話に留まらず」
「ずっと疑問に思っていらっしゃいましたよね。…その。私たちがボイル様を匿っている理由は、…政治的な利用をしたいから…なんです。聖書の記述では大王は神に選ばれた存在。でしたら、ボイル様も…」
いや、それは違います‼——そう言えたらどれだけ楽か。
俺がやったことじゃありませんなんて言えなかった。
少なくとも猿轡をとってもらえるまでは。
喋ることは出来ないけど、文字で書くことは出来る。
だけど、真実を知れば、路地裏に捨てられるかもしれない。
一度知ってしまったギロチンの恐怖が、打ち明けようと動く右腕を止めた。
ペンを持つ握力を失わせた。そして──
——引き返せなくなった自分に気がつく。
彼らは言っている。
貴族には特別な血が流れているということであり、貴族でないボイルには不可能犯罪で、そこには何かあるに違いない、と。
ボイルはまだ14歳。身に覚えがなくとも、血が湧く刺激的な言葉に違いない。
もしかして本当に俺がやった?知らない間に…
ボイル自身も誰が王を殺したのか分からない。であれば、もしかしたら神様が自分の体に乗り移って…
在り得ない…話じゃ…ないの…かも
「ルシアン。ここまでにしましょう。ボイル様がお腹を空かせているわ。エネルギーがないと、その特別な力だって出せないのだし。」
「そうだね。キングスレイヤー・ボイルが瘦せ細ってたら、彼の功績を疑う奴だって出るかもだし。ってことで、たくさん食べてくださいね、救世主様」
また、今日もこの時間がやってきた。
食材の仕入れはルシアンで、食事作りは二人の共同作業。
その後、ルシアンは一旦眠って夜に備える。リリアが給仕を担当する。
料理は煮込んでいない。デーモス様からいつ連絡が入るか分からない、だから煮込み続けることが出来ない。
だからゴリゴリと音を立てて、すり潰す。そして美味しくない流動食。
「ん-、一応香辛料を変えてみたのだけれど」
今朝、ボイルは細腕のリリアに服をひん剥かれた。
それほどに体力が落ちきっている。
あの出来事からこっち、少年はろくに食事を取れていない。
彼らが心配するのも尤もだが、きちんとした料理が食べたい、もぐもぐと食べたい。
モグモグ…
少年は目を剥いた。今までも似たようなものだが、彼女は味を確かめる為に咀嚼した後、今日はそのままストローでボイルの口に注ぎ入れた。
食欲が封じられた彼の欲が暴走気味であるにも拘わらず。
顔と顔が触れ合う距離まで近づいて、彼に液体を流し込む。
「今日は特別なの。しっかり味わってね。ちゃーんと飲み込むのよ?」
ルシアンが買ってきたものは高級な何かだったのかもしれない。
もしくは栄養価の高い野菜か果物か。
正直言って、味はよく分らないが、確かにいつもより味が濃い気がする。
もしくは彼女が咀嚼してくれたお陰?味が浸透したから?
顔とお腹がやけに熱いのは、彼女の体温?
もしくは…、これが力…なのかも
□■□
デーモスは最低一週間と言ったので、まだ時間が掛かるかもしれない。
そんな、彼に一つ朗報がある。
……良かった。今日は夢精していない。
彼はそんなことでホッとしていた。
夢精くらいでと思うかもしれないが、彼は孤児院、そこで揶揄われている。
だから夢精しなくて良かったと本気で思っている思春期の子供だ。
そしてもう一つ、今度は本当に朗報。
「おはよう、ボイル君。デーモス様の準備が整ったらしい。やっと…だよ。」
「相手が相手よ。そんなにソワソワしないの、ルシアン」
え…?そっか。デーモス様は王家の呪いの解呪が出来る呪師を探していたんだった。やっと…
デーモスの知り合いの大魔法使いに猿轡を外してもらえる。
そしてルシアンとリリア曰く、大魔法使いの住んでいる家はここからそんなに離れてはいないらしい。
「思ったより近いのに、なんて思わないでね。用意周到に、慎重にいかないと」
猿轡ごと、コクコクと頷く。
猿轡を外して彼らの領地へ戻って、神から新たに選ばれたと宣言する。
デーモス様の領地は王国でも類を見ないほどの肥沃の地って話。
だから、彼らが自領を守りたいのも理解できた。
つまり、彼らだって利己的な考えで動いている。
でも、俺が神に選ばれたってことが周知されたら、王様になれる。王様とまではいかなくても、少しくらいの我が儘は許される。アリスを呼び寄せることだって…
少年は無罪、いや英雄になってこの国をひっくり返す。
それ以外にも色々と説明を受けたが、あまりにも壮大すぎてボイルの頭には全く入っていない。
「まだかなぁ。まだかなぁ。」
ルシアンはおもちゃを待ち侘びる子供のようにソワソワとしていた。
「ルシアン。品がないわよ。もうちょっと落ち着きなさい。——はい、英雄様。喉を潤しましょう」
彼とは対称的に、大人の女性の雰囲気を醸し出すリリア。
そして、空腹なんか忘れて、悶々と中学生男子をやっているボイル。
そんな時……
ココン、ココン、コンコンココン
妙なノックの音がした。
少年は怪訝な顔をしたが、二人は違う。
目を輝かせて、同時にこう言った。
「来た!」
「来たわ!」
リリアは即座に真っ黒い外套をボイルに被せた。
その外套は大人用だったのか、大きめのフードがボイルの殆どを隠す。
視界を塞ぐほど。そしてボイルの手がギュッと握られた。
リリアさんの手だ。袖の長さは俺とぴったり…、そか。特注品ってことか。俺が見つからないように、だ。これも準備の一つ。お膳立ては全部やってくれる。だって、彼らにとっては悪い王様だったんだ。
時間はいつの間にか夜だったらしく、窓の外は真っ黒だった。
時間感覚なんて、とうに麻痺している。
二人が朝と言えば朝だし、夜と言われたら夜だった。
因みに分厚い生地のフードのせいで、殆ど見えない。
「急げ、早く馬車の中に。まだ見張りはそこら中にいる。」
久しぶりのデーモスの声。本当に始まる。
馬車の中だけは何故か明るくて、それが魔法の効果だろう。
それはなんとなく理解できる。
そしてボイルにとっての初めての馬車は、絵本でしか見たことのないほど豪華だった。
「こっちです、英雄様」
手を引かれ、馬車に乗る。
デーモスも乗り込むのかと思ったら、彼は外に残ったまま。
「準備をしておけ」
「はい」
「分かっています」
デーモスは来ないと思ったら、別の場所から声が聞こえた。
多分、そこは御者の席。
ルシアンとリリアは、主人が御者を務めていることには触れず、慌ただしく動き始めた。
カバンを広げ、二人共が同じ行動をしている。
車内が明るいから、フードと猿轡の隙間から少しだけ見える。
それはボイルにとっては異様に見える光景だった。
……あれ?それってお化粧? ルシアンもお化粧してるの?
化粧が何を意味するかなんてボイルには分からない。
ただ、お化粧くらいは知っている。お貴族様がお化粧をするのも知っている。
ってことは、貴族と会う為の儀式かもしれない。
だとしたら…
「デーモス様。あまり動かないように」
「んん?」
「夜は冷えますね。そのままではお風邪をひかれます」
ルシアンが奇妙なことを言った。そしてリリアは外套の上からマフラーを巻き付けた。
ちょうど猿轡が見えなくなるように。
訝しんだ顔をほんの少しの隙間から覗かせると、眼鏡を外した青年は肩を竦めた。
「今宵、
眼鏡を外した青年、男の声とは思えなかった。
女とも言えないが、どちらとも言えない声。それに隙間からでも分かるほど、眉目秀麗な顔立ち。
お化粧の成果か、ハッとするほどに美しい。
「今日はどちらで遊ばれますか?どこへ連れて行ってくださいますの?」
ルシアンだけじゃない。リリアは心臓が止まるほど美しい。
顔だけじゃなく、首や胸元にも何かしているのか、いつもにも増して艶っぽい。
そして、二人の目は同じことを言っている。
──察しろ、と
従女を引き連れて、外套で身を隠して遊びに行く貴族を演じろと言っている。
「ん…」
リリアの手が少年の手と重なり、彼女の柔らかだが張りのある体がピッタリとくっつく。
王殺しの犯人が逃げたのだ。たった一週間で警戒が解けるはずはない。
今から行く場所には高尚な魔法使いが居て、猿轡の呪いを解いてもらう為に変装する。
それは分かっているが、心のバランスがおかしい。
リリアの宝石のような碧眼が美しい。
リリアの黄金の糸のような髪が麗しい。
リリアのビスクドールのような肌が、リリアの弾力のある胸元が、リリアの──
——いますぐ、この感情をなんとかしたい。
彼の右手はリリアが握り、左手にはルシアンの手が添えられている。
男と分かっているルシアンにも、似たような気持ちが生まれそうで、懸命に目を瞑った。
「落ち着いて…。そろそろ着くから…。あとはボクたちに任せてくれたらいいから…ね」
すると心配したのか、耳元でルシアンが優しく囁いてくれた。
吐息交じりのルシアンの声も、心を搔き乱す。
だから、ずっと下を向いている。
そ、そうだよ。もうすぐ猿轡が外れて、演説して、英雄になって…
ギギ…
そして、暗闇の中で馬車が停まった。
だから、反射的に顔をあげると、外は暗闇だった。
「お前たち準備はいいな? ボイルくん、君もいいな。ここまで来たらローブは要らない。すでに話は通してあるからね。」
馬車のドアが開き、そこからデーモスの声が聞こえた。
すると、ルシアンが手早くボイルの外套を剥がした。
そしてリリアが少年の手を取って、ゆっくりと馬車から降ろす。
逃げ切った…?これで…
「リリア、そこの辺りに結界がある。彼にもちゃんと教えておいて欲しい。ルシアン、私たちは先に行くぞ。」
「はい」
こんな暗闇でも、彼らは灯りも無しで歩く。
…俺には何も見えないけれど。今、結界って言葉が聞こえたし?
世の中は知らないことだらけで、今は彼女の手の感触だけが頼りだった。
そして、事あるごとに彼女は少年の耳元で囁く。
「ここ、段差あるから」
彼女には何が見えているのだろう、それさえも少年には分からない。
そして彼女の話よれば、空気の振動を抑える魔法結界が張られているとか。
魔法使いが、ボイルの為に張ってくれたらしい。
「キングスレイヤー様は今、世界で一番有名なんですよ」
王殺しがギロチンの刑から逃げ延びている、これが話題にならない訳がない。
王国中にボイルの名は轟いているのは想像するに難くない。
匿っているのがバレたら、彼らもギロチン送り、もしくは酷い拷問が待っているだろう。
「ん」
だから、ボイルは大人しく彼女の言う通りにする。
勿論、毎回彼女の体が触れるので、その度にドキドキしてしまうのだが。
暗闇の中を歩く。ほとんど目隠しに近い状態で、彼女の手を必要以上に握ってしまう。
すると彼女は見えていないことに気がついたのか、もっと体を寄せてくれる。
手を握っているだけではない。腕に柔らかい感触までする。
それが何なのか、少年の大妄想が始まってしまう。
そして、彼女の動きが止まった。恐ろしく敏感になったボイルの肌が彼女の動きまで悟らせる。
カチャ
「そろそろ薄灯りくらいでしたら、大丈夫ですね。」
その瞬間、部屋全体がうっすらと明るくなり始める。
これも魔法?と考える余裕は少年にはない。
だって彼の心はもう……
「あらあら。キングスレイヤー様。神聖な儀式での『ご起立』は禁則事項ですよ?」
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