第7話 健全な男子に不健全な環境

 デーモスは最低一週間と言った。

 猿轡は一週間以上も嵌ったまま、いや融合したままってことだ。


 でも、外せる。一週間以上だっていい。一か月だっていい。それ以上は…嫌だけど。

 外せるって分かっただけで、頑張れる。


「ん…、んーん」


 そして、絶対に見つかってはいけない生活の始まりだ。

 隠れる使命を課せられた少年と、少年を隠す使命を与えられた五つくらい年上の美青年と美少女。

 手も足も自由。だけど口は動かせない。


 それでも、もう少しで外れるという事実は生きる希望として十分だった。

 何一つ不自由がない体で生まれて、後はどう生きるかだったのに、猿轡が外れるだけで後は何でもいいって思えた。


 え…、あ…。また…、…ゴクン。おい…しい…


 ボイルは頬を染めながら、可憐な少女との夢を甘い果実水と共に飲み込んだ。

 水分補給はリリアがいつもの方法で行っている。この行為がまた、ボイルの心をかき乱す。


 これは仕方がないことこれは仕方がないことこれは仕方がないことこれは仕方がないことこれは仕方がないことこれは仕方がないことこれは仕方がないことこれは仕方がないことこれは仕方がないことこれは仕方がないこと。


「今回は林檎を絞ってみたのでけど、お口にあいました?」


 そしてコクコクと何度も頷く。


「他の味が宜しければ、遠慮なく仰ってくださいね。私のナイト様」


 また、コクコクと何度も頷く。

 実は、コミュニケーションは文字で出来る。

 しかもダンデリオン孤児院出身だから、ボイルはそれなりに書ける。

 だがしかし、彼らはボイルをキングスレイヤーだと信じているから、余計なことは書けない。


『もじにがて』


 故に少年は嘘を吐いた。優しい人の主人はお貴族様。キングスレイヤーだから、ここまでしてくれる。

 でも、真犯人は別にいる。誰かは知らないけど、自分じゃない。

 もしもバレてしまったら、王家の誰かが掛けた呪いの猿轡のことなんて放っておかれる…かもしれない。


 だから、余計なことを言わないように、文字が得意ではないと最初に書いた。


「だったらパンプキンとミルクをミックスするとか、いかが?」

「リリアぁ。簡単に言ってくれるなって。潰してかき混ぜてんのはボクなんだからな」


 二人とも、ボイルが孤児院出身というのを知っている。

 孤児院出身だから、文字が分からないのだろうとも言っていた。

 とても優しい二人だから、まるで二人の子供、いや赤ん坊になった気持ちになる。


 俺が父と母を知らないからかもしれないけど。


 何から何までやってもらう。

 上顎と下顎が固定されているのだから、食べ物を雑に放り込むわけにもいかない。

 歯磨きくらい出来る、と意気揚々と丁寧に磨かれた鏡の前に立ってみた。

 すると絶望的に融合した猿轡に、足から崩れ落ちてしまった。

 それからは、歯磨きもやってくれるようになった。


「ルシアンは非力なのね。だったら私がかみ砕いて…」

「わ、分かったよ。ソレは流石にボイル君に申し訳ない。それ用の道具を買ってくるから。ボイル君、ボクは今から外に行くから、あんまり唸らないようにね。この部屋は地下にあるから、普通に過ごしていれば、誰にも見つからないんだけど、流石に呻き声は聞こえたら不味いから」


 と、メガネの青年の言葉。

 ちなみにルシアンが二十歳でリリアは十八歳らしい。

 二人とも、第二次性徴期を迎えたばかりのボイルよりも身長が高い。


「それではルシアン、いってらっしゃい。ボイル君と私はお留守番ね」

「うん。リリア、頼んだよ。ボクたちの希望なんだ」

「分かってます!」


 ルシアンが昼間に買い出しに行ってくれる。

 リリアはその間、ずっと地下室にいてくれる。

 最も苦戦しているのは、ボイルの栄養補給だった。

 食材をドロドロになるまで加工しなければ、猿轡少年の口腔内には流し込めない。  

 少年は孤児院で料理も教わっているし、担当の日は料理だってしていた。

 だから、手伝おうと身振り手振り伝えようとする。


 だが、断られる。


「ボイル様は今が食べ盛りなのですよ。ただでさえ栄養失調気味なのに、そんなことさせられません。」


 勿論、少年も脳みそがある。

 今の状況くらいは理解できる。

 例えば今、この貴族所有の小さな家にはリリアとボイルの二人しかいない。

 年下のボイルであるが、れっきとした男の子なのだし、王を殺した男でもある。

 刃物はおろか、擦りこぎ棒だって渡したくない、と思われているかもしれない。


 俺はそんなことしない…。けど、なんだろう、この気持ち…


「ふぅ、やっぱり地下はジメジメしちゃうわね……」


 普段、リリアは全身を巻衣で覆っている。

 ただ、料理をしている時や部屋の清掃をしている時は、蒔絵を剥ぎ取ってチュニック姿になる。

 今、ボイル自身が着ているような服。ボイルの場合は二枚の布地をボタンで留めているが、彼女の場合は一定間隔で縫い付けたもの。

 ただでさえ肌が見えるのに、汗ばんでいるから色んな部分が透けて見える。


 そんな扇情的な様子が、「その気になれば」という少年の気持ちを打ち砕く

 

 普通は逆ではないか?

 いやいや、そんなことはない。

 だからこそ、あの子を思い出すのだ。ストローを吸い口代わりにした食事法も、これは間接キスにあたらないと、心に言い聞かせるのだ。

 

 そも、欲情に振り回されることは悪いことだと、ダンデリオン孤児院で教わっている。

 結婚式の後、初めて神に許された夜が来ると教わっている。

 何より、アリスはその話を貞節でロマンチックで美しい愛のカタチと称していた。


 あの子の顔が浮かぶと、心の中に強い自分が現れて、弱い自分をぶん殴ってくれる…筈。


 ガチャン


「あぁ、落としちゃった!もう…。ルシアン、カボチャのこと忘れてるじゃない…」


 眼鏡青年は、そのカボチャを砕く為の道具を買いに行った筈。

 だが、リリアは彼の帰りを待ちきれなかったらしい。

 そして、彼女は落とした包丁を拾うために、膝を折り曲げて座った。

 すると、立派な渓谷が彼女の心臓付近に現れる。


 ——強いボイル、来い!


 はっきり言おう。強いボイルは来ない‼

 空腹よりも、喉の渇きよりも、彼女と二人きりの空間が何よりも辛かった。


 14歳のボイルは下半身に宿っている、——魂もきっとそうなのだ。


 俺はいつかアリスと。アリスと約束したんだ。…でも、そんな日は本当に来るの…かな?それに…


「えと…、ボイル…様?」


 思春期の少年の両肩が跳ね上がった。


「う…うううう」

「拾ってくださろうとしたのですね。大丈夫ですから、ゆっくりとお寛ぎください」


 胸元に手を当て、少し露わになった膝をスカートにしまい、女は恥ずかしそうに立ち上がって、そう言った。


 見てたって…気付かれた?そ、そ、そんなことないし。俺は見てないし…


 リリアはどうしてあんなに薄着でいられるのだろう、と考える。

 たとえ年下とはいえ、14歳の少年と二人きりで無防備な姿で過ごせるだろうか。

 弟のように見ていると言われたら、確かにそうかもしれない。

 だが、数日前に初めて会ったのだから、他人と変わらない。


 そ…、それにリリアさんにはルシアンさんがいるんだし


 とは言え、ルシアンとリリアの関係性もまだ分かっていない。

 最初の彼女の一糸纏わぬ姿、後ろ姿しか見えなかったし、逆光で輪郭くらいしか分からなかった。

 ということは、ルシアンにはリリアの全てが見えていた筈だ。


 …ふ、二人は恋人同士なんだ。だから俺は邪魔をしちゃいけない。それに俺は二人のおかげで生きている。猿轡も外してくれる。

 恩人なんだから‼神様、俺は見てません。何も考えません。

 だから、アリスにはバレませんように…


 だが、少女の少年に対する献身は続く。

 少なくとも、一週間は続く予定。


「ボイル様、今日は自信があります。ルシアンが良さそうなすり鉢を買ってきてくれたんです。えっと、その前に…、喉、乾きますね?」


 汗ばんだ彼女が隣に座り、いつものようにストロー越しから唾液を受け入れる。

 勿論、彼女はそんなこと微塵も考えていないだろうけれど、直接唾液を飲み込む訳ではないのだけれど、もしかすると少しだけ混じっていると思ってしまう。


 彼女の体液が、自分の中に入っていくと思うと、心臓は新たな役目を見つける。

 慣れたもので、即座に反応する。そして、精神の方は一向に慣れてはくれなかった。


 厭らしい目を恩人のリリアに向けるな!俺は何を考えている!お姉さんと思い込め!先生と思え!


 慣れるどころか酷くなる。

 精一杯努力して無心になろうとするけれど、日に日に辛くなる。


 そして、彼女が丹精込めて作った流動食が太めのストローを通して喉の奥にやってくる。


 飲み物のようにはいかないのか、太くて短いストローを使っている。

 だから彼女の顔はすぐそこにある。

 ほとんど口移しと変わらない距離。そこから、流動食が口腔の奥へと流し込まれる。


「え?もうお腹いっぱい?駄目ですよ、育ち盛りなんですよ?」

「う…。ううう」


 実は栄養が全く足りていない。

 生きる分だけの水分と栄養は補給されているが、血や肉に変わるには、骨を伸ばすには全然足りない。

 元々、小食だったのもあるし、部屋に閉じこもって何もしていないから、お腹が空かない。

 数日経った今はマシになったが、最初の頃はとても不味かったというのもある。


 お腹は空いてる…。でも、それ以上に別の本能と煩悩が訴えている。


「ただいまー。リリア、交代だよ。って、またそんな薄着になって。ボイル君に失礼じゃないか」

「地下室にする必要あったのかしら。じめじめして暑いのよ。それじゃ、私は体を洗ってくるわ。ルシアン、英雄様のお体をお願いね」

「分かってる」


 健全な青少年にとって、不健全過ぎる環境だ。

 リリアがいなくなる時は必ずルシアンがいる。

 それは見張っているので当然と言える。

 ルシアンがいてくれた方が、幾分マシではある。

 けれど、それでも少年は助かっていない。


 トイレ用のツボのところにカーテンはあるんだけど、多分何をしているか分かる…


 少年はこの苦しみから脱却する方法を、実は知っている。

 今不自由なのは猿轡が融合した口周りだけ。手枷はつけられていない。

 それをすれば心が落ち着くことを本能が知っている。


 ルシアンなら分かってくれる…かも。


 だけど、やっぱり恥ずかしくて、ボイルは我慢し続けることになる。

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