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急に、私に抱きついたままのシオリがそんなことを口走るものだから、驚いて一度大きく身震いしてしまう。「なにいってんの」と苦笑しながら、私は言った。
「私は誰が一緒でも、地獄に堕ちるなんて嫌だよ。シオリとでも嫌だね」
「そんなこと言わずにさあ。なんだかんだ楽しく生きられるかもしんないよ? 住めば都っていうし」
「だって、地獄に行くってことは、もう死んでるってことじゃん」
「そんなこともないよ」
透き通った水に絵の具を一滴垂らした瞬間のような不穏さが、シオリの声色に混ざり込んでいた。反射的に身体を離すと、シオリはどこか底冷えする薄笑いを浮かべている。こんな彼女の姿はいくら私でも今まで見たことがなくて、すぐに言葉が出てこなかった。
沈黙を破ったのは、シオリだった。
「イチコは知らないかもだけど、地獄って、この世界にあるんだよ」
私にとっての地獄はせいぜい、順番的に今日の授業のここで当てられるだろうと他の予習をしなかったら、教師がその日に限ってランダムに当てはじめた瞬間くらいなものだ。
それ以外はもう、死んだあとにしか分からないことだから……と知らないフリをしていたのに、シオリはこの世界にこそ地獄があるのだという。彼女が私と堕ちたいと願う地獄が、どこかに。
しかもそれは彼女が第三者を堕としたい地獄ではなく、自分とともに私も堕ちてくれ、というのである。
やがて、シオリは薄く唇を開いて呟いた。
「どれだけ深くお互いを想い合っても、今はまだ”普通”へ溶け込めないような世界が、確かにあるんだよ。それって考え方によっては、地獄じゃん」
その言葉で、なんとなく合点がいった。最近では少しずつ理解が進んできたけれど、一昔前までは口にするのも憚られるような蔑称で呼ばれてきたヒト同士の関係性は、この世界に確かに存在している。
即ち「彼氏と彼女」という言葉を耳にして思い浮かべるのは、皆が必ずしも「男と女」とは限らない、ということであり――。
「でも、あたしはイチコとなら、堕ちてもいいよって言ってるの」
これは告白なのだ……と察しても、未だに頭の中は混乱していた。
シオリのことは、好きだ。でも、それはloveではなくlikeだと感じていたし、シオリから寄せられる感情も同じだと思っていた。しかしその思い込みは、ここまでのシオリの言葉によってすべて覆され、もう完全には元に戻せない水たまりが、足元で歪な波紋を描いている。シオリのアーモンド色の瞳が、その波紋と同じように震えていた。
何も言えずにいると、シオリはさっきと違って、ゆっくりと私の身体に腕を回してきた。そのまま抱きすくめられた瞬間、右胸に自分のものではない鼓動を感じる。徐々に早くなる音楽にのせて、体育館を端から端まで行ったり来たりするシャトルラン。あれをやった直後みたいに、その鼓動は早かった。
シオリは冗談を言っているわけでも、私を騙そうとしているわけでもない。すべて本心なのだ。好奇の目で見られたり、誰からも認められない地獄があるということも。
そして、私とならば、その地獄に堕ちてもかまわない――という言葉も。
傷心によって生じた私の亀裂にこうして滑り込むチャンスが訪れたのは、きっとシオリにとって好都合だったに違いない。振られたことを打ち明けたときも「ま、イチコにはもっといい人いるでしょ。忘れよ忘れよ」と、やけにさっぱりした調子で笑っていたから。
そんな男のことなんか忘れて、さっさとあたしと地獄に堕ちてよ。
あの時のシオリはきっと、そんなふうに思っていたんだろう。
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