第7話 貧血
「え、まさか入る気!?」
「温泉は浸かるものだろうが。心配するな、おまえの貧相な肢体に興味はない。それに、吾輩はおまえに触れられない」
「触れられない?」
どうして、と訊こうとして別のことが気になってしまった。
「え。私に触ろうとしてたってことですか」
「ち、断じてちがう」
黑鴑があからさまにうろたえる。
「だって、今」
「それは言葉のあやというもので」
「二人ともうるさいですよ~。温泉は静かに入るものです」
振り向くと、ナツメがゆっくり湯につかっていた。
さっきまでバタ足していたやつが何を言うかと思えど、私も久々の温泉をゆっくり楽しみたい。
全身が温まって、ほぐれていく感覚。
とても気持ちいい。ゆっくり湯につかるのなんて、学生の頃以来かもしれない。
「なんか、こんなに願いが叶っちゃうなんて、夢見てるみたいですね」
「見ているのはおまえじゃない」
黑鴑があまりにも間髪入れずにそう言うので、私はきょとんとする。
「あ、いや。これはすべて現実だということだ。おまえは、今夢を見ているわけではなく、現実ここに居る」
「まあ、ここは幽界ですけどね。幽界にいる時は、夢を見ているようなものなんじゃないですか?」
隣から口を挟むナツメを、黑鴑が振り返って睨む。
「余計なことを言うな、ナツメ」
「幽界ってなに?」
訊ねる私に、「ほら」と黑鴑はため息をつく。
「前に、あの世と行き来できる身体になったと伝えただろう。幽界がそのあの世だ。吾輩どもは、幽現界というこの世とあの世のちょうど境目にいて、両者を行き来しているのだ」
「へえ、じゃあ、私あの世にいるんだ。でも死んでないなんて、変なの」
「人は眠ると幽体で幽界に帰るものだ。だから、なんら不思議なことはない。目覚めたときにはすべて忘れてしまっているがな」
黑鴑の言うことは妙に説得力があるから納得してしまう。
「とにかく、おまえは余計な心配をしなくていい。前にも言ったように、好きなことだけをして生きてみろ」
「それが、前に言っていた、死ぬくらいなら夢を見よ、ってことですか?」
「そういうことだな。だから、会社も嫌なら辞めればいい」
黑鴑があまりに軽く言うので、つい頭にきた。
「そんな簡単に言わないでください」
「だって簡単なことだろ? 仕事を辞めるのなんて」
「簡単じゃありませんよ」
「どうしてだ」
「それは――」
ふと、考える。
そういえば、どうしてだろう。
嫌なら辞めればいい。
確かに簡単なことのはずなのに、それは物凄く難しいことなのだ。
でも、その難しい理由はよくわからない。
「だって、貯金もないし」
「失業保険があるだろう」
「生活できませんよ」
「それなら別の仕事をすればいい」
「うまく転職できるかわからないし」
「やってもみないうちから諦めるな」
「今の仕事好きですし」
「でも死にたくなるくらい会社は嫌なんだろう?」
黑鴑がまた背を向け、立ち上がった。
以外にも引き締まった体躯に、思わずドキリとする。
黑鴑は自分のことを亡霊だと言ったが、突然消えたり現れたりすること以外生きている人間と変わらないのだな。
「のぼせた」と言って、黑鴑は湯から上がった。その瞬間にはもう着物を身にまとっていた。
考えてみれば、私、言い訳ばかりしている。
なんで、会社を辞められない理由ばかりさがしているんだろう。
考えていると、ナツメが一枚の紙を渡してきた。
え、これ――。
ナツメを見ると、ニコニコ笑っている。
黑鴑がこちらには背を向けたまま声をかけてくる。
「どうして嫌なのか、考えたことがあるか? ストレス、と一口で言っても理由は様々だ。ストレスの要因を分析して、一つ一つ解決してく必要があるだろう。仕事が好きだというなら、会社が嫌な原因はあのパワハラ上司か?」
「それが一番大きい理由だとは思いますけど」
黑鴑の言うとおり、たしかに、ストレスだと思いながらも具体的に何が嫌なのか分析したことがなかった。
「毎月数字に追われることとか、毎日すし詰め状態の満員電車とか、徹夜での残業とか……」
「ならそれを全部一旦辞めればいい。元に戻りたくばいつでも吾輩が元の環境に戻してやる。おまえに二度と悪夢は見させない。好きに生きてみろ」
「好きに――」
「ああ。今こうして温泉に浸かっているみたいにな。ところで、のぼせるぞ」
「頭がくらくらしてきた」
私は我慢しきれず立ち上がる。
「あ、おい!」
急に立ち上がったせいか、目の前が真っ白になっていく。
あ、貧血。
と思った時には遅かった。
ザパンッと音を立てて私の身体は湯の中に沈んでいった。
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