第3話 死にたくなかったのか?
□ □ □
息急ききってアパートの部屋に飛び込み、私は紙を広げた。
今買ってきたペンと、インクの蓋を開ける。
早く、早く何か描きたい。
けれど、その手はぴたりと止まる。
何が描きたいのかわからないのだ。
でも、何か描きたい。
適当に、ペンを走らせてみた。
不規則に湾曲する線を目で追いながら、私の意識は別のところに飛んでいた。描いたものが現実のようになるのだとしたら。
私はどんなものを描きたいだろうか。
私は二つ並ぶ瓶を見つめた。
二つとも青い。でも、その二つは違う色。
右が瑠璃色、左が青藍。そのことを教えてくれた人がいる。
私には、創りたいものがあったはずだ。
でも、そこに辿り着けない。
何度描き直しても、わからない。
私はヤケになって今描いた紙を丸めて床に捨てた。
何か足りない。
後ろを振り返ると、ガランとした部屋。私はずっとここに住んでいるはずなのに、ここじゃないところに居た気がする。
「あめ」
名を呼ばれた気がした。
あたりを見回しても、誰もいない。見慣れた私の部屋がそこにあるだけ。
「忘れろ。俺のことなんか、思い出さなくても、おまえはもううまくやっていける」
ポツリ。
窓に、雨粒が落ちてきた。
ポツリポツリと。
私は、窓際に駆け寄った。
青い空から、雨が降っていた。
その雨は、あの人が私を守ってくれている証だ。
「黑鴑」
思い出したものを、再び失わないうちにと、私は急いだ。
サンダルを突っ掛けて、部屋を飛び出る。
黑鴑――。
そうだ。くろど。
それが、私が会いたかった人の名前。
出会ったのは、あの時だ。
□ □ □
スーツを着た男性が駅のホームから飛び降りるのが見えた。
その瞬間、私はその場に鞄もヒールも放り捨て、男性の後を追った。
助けたかったのか、死にたかったのか。
どちらだったのだろうか。
ふと気づくと、私は尻もちをつくように座っていた。どうやら、線路脇の退避スペースにうまく逃げ込めたようだ。
「きさま、バカか」
頭の直ぐ上から男の声が降ってきた。顔をあげると、さっきのスーツの男が私の後ろで立膝をついていた。
「よかった、無事だったんですね」
私が安堵の息を漏らすと、男は顔をしかめた。年は、私より上。でも若い。たぶん二十代。整った顔立ちではあるが、顔色が悪い。それもそのはず、と思うような一言を男は発した。
「無事もなにも、吾輩は元々死人である」
男はそう言うと、突然黒っぽい色の着流しに衣装を変えた。どんな手品?
私は状況が飲み込めず、しばらくきょとんとして男の顔を見つめていた。
藍で染めたような少し碧みがかった瞳は、深い海の底を見つめているようで吸い込まれそうになる。さっきより顔色も良く、肌はきめが細かくて、きれいな顔。
ただ、変なメガネがそれを邪魔している。左右、大きさの違うレンズ。なんで、そんなヘンテコなメガネをかけているのだろう。
「理解してないだろ、おまえ」
男は呆れたようにそう言う。
できるわけがない。
周囲は時が止まったかのように静かなのだ。退避スペースにいる私とこの男のことに、だれも気づいてないようだ。
「あの、死人ってどういうことですか?」
まず、そのことを確認する。
「そのままの意味だ」
男は素っ気ない。
「そのままの意味って、死んだ人ってことですか? じゃあ、あなたは亡霊なんですか?」
「だとすれば、きさまは亡霊を助けようとした大バカ者ということだな」
大バカ者って、初対面の人にそれ言う? そう言えば、この人、開口一番私をバカ呼ばわりした。
いや、そんなことより、亡霊が見えているということは、いやいや、それどころかこうやって会話をしちゃっているということはだ……、
「じゃ、じゃあ、私死んじゃったの――?」
男は、私のことをじっと見た。
「矢羽あめ。きさまは、死にたかったんじゃないのか?」
男のその言葉に、私は、はっとした。
朝、目覚めるたび、目覚めてしまった自分を呪いたくなった。
これから始まる一日、顔を合わせなければならない上司、こなさなければならないノルマ、お客に言われる嫌味――。
考えたくないのに思考を始めた途端にそれらは押し寄せてきて、私の胸の上に重くのしかかる。
息ができない。
身体が動かない。
布団から出られない。
けれどそんな泣き言は許されない。
私は、重い身体を引きずり、駅まで毎日歩いていく。
辛い。
たぶん、死にたいと思ったわけじゃない。ただ、わからなくなった。
一カ月前に、親友が自殺した。
二十四歳。
若くて、きれいで、望んだ仕事にも就いていて、彼女にとって何が不満だったのか、何が悩みだったのか、なにもわからなかった。本当のところは、きっとだれにもわからない。
でも、私は考えるの止められなかった。
どうして――。どうして、どうして……。
考えれば考えるほどわからなくて、そのうち、生きる意味がわからなくなっていった。
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