第2話 あの人のこと
達也と別れたのはつい最近だった。ヒモ気質の達也に、私が愛想をつかしたのだ。
まさか、その腹いせ?
だがもっと違和感を感じたのは、その場に私がいたような気がしたことだ。
現場の写真がネットニュースに載っていた。不鮮明でよくはわからないが、襲われたという男の人。
太っていて、太々しい顔で、スロットを打ち続けていた。逃げればいいのに、頑固に台の前に座り続けていた人だ。
どうして、そんなことがわかるのだろう。
「どうしたんだい?」
掃除のおばちゃんに声を掛けられて、私は我に返る。
「いえ、なんでもありません。本当に、今日はいい天気で」
空を見上げて、見事な青空の広がるその景色に、なぜか物足りなさを覚えてしまう。
出口の見つからない迷路に迷い込んでしまったような気分だった。
会いたい人には、どうしたら会えるのだろう?
初夏の空が高く、だけど、手を伸ばせば届きそう。
遠いようで近い。近いようで遠い。
私は、前を向いた。
いつものその街が、私には初めて見る景色のように新鮮だった。
□ □ □
仕事を辞めてからの私は、すこぶる順調だった。
夜中に呼び出されることもないし、残業が四時まで続くこともない。しっかり眠って、美味しいものを食べて、人間らしい生活を送っているという充足感。
将来的なお金の心配はあったけれど、失業保険でどうにか食い繋いで、また働けばいい。
今度は、楽しく働ける仕事を。
仕事を辞めて両親はがっかりするかと思ったが、私がパワハラを受けていたことを知ると、辞めてよかったと言ってくれた。
知り合いの弁護士も紹介してくれて、今は訴訟に向けて進めている。
私は会社も辞められたし、今が充実しているので泣き寝入りでもいいと思ったのだが、同じようにパワハラで精神を病んでいる人はたくさんいるらしく、少しでもそういう人の助けになれば良いと思ったのだ。
やらなければいけないことはそのくらい。
あとは、やりたいことに目一杯時間が割ける。一日が二十四時間じゃ足りないくらいに忙しい。でも、好きなことばかりだから、毎日が楽しくて仕方ないのだ。
でも、どこか寂しさが付き纏っている。
一体、これはなんなのだろう。
今日は、映画を二本見た。
朝は目が覚めるまで寝ていて、何となく銀座に赴いてプラプラしていたら、前から気になっていた映画の看板を見つけて、ふらりと映画館に立ち寄った。
ポップコーンとビールでお腹いっぱいになってしまったので、ランチは抜いて、夕飯を早めに食べることにした。
何を食べようかなと考えながら、天気の良い銀座の街を歩いていると、画材屋の前を通りかかった。
こんなところに、こんなお店あったっけ?
そういうことってよくある。
いつも通る道でも、その存在に気づいていないもの。でも、本当はとても価値のあるもの。気づいたときには、それは私にとってとてつもなく大切なものになっているもの。
それって、何だろう。
私はふと、空を見上げる。
突き抜けるような青空が、なぜか寂しい。雨が、恋しいだなんて。
私は、後ろを振り返る。
いるはずもない、誰かわからぬ誰かを、どうしてか探してしまう。
銀座へ来たのも、その人に会えるかもしれないと思ったからだ。
私は、その画材屋に寄った。
今は、無性に絵が描きたい。
絵を描くことは昔から好きだった。
あまり上手ではないけれど。
私かそう言うと、誰かが「好きなことが大事なんだ」と言った気がする。
ガラス戸を押し開けると、店内には色とりどりの絵の具やインク、ペンが立ち並んでいた。
思わずうっとりとため息が漏れる。
カラフルな色に囲まれていると幸せだ。
私はふと、インクの入った瓶が立ち並んでいる棚の前で足を止めた。
最近は、インクを自分で好きなように調合することもできるらしい。
側には、ガラスでできたペンが売っていた。
ガラスペンは使ったことがないけれど、似たようなペンを使ったことがある気がした。
透明のペン先にインクをつけると、文字や絵が描けるらしい。
私が使ったことのあるペンは、平面だけでなく立体を描くこともできた。
それをすごく上手につくる人がいた。
ペン先から世界が生まれていく。
その夢で、人々は笑顔になった。
夢――?
私の記憶の誰かわからぬ人がつくったものは、夢だったのか?
私は、誰かの、箱夢を創りたかったんじゃなかったろうか。
「箱夢――」
何、それ。
頭を抱えたくなる。もう少しで思い出せそうなのに、思い出せない。夢でもいい。
思い出したい。
箱夢のこと、あの人のこと――。
キーンと、耳鳴りがした。
あれ、今なにしてたんだっけ。
店に並ぶインク。
そうだ、絵を描く道具を買いに来たんだった。
私はガラスペンと、インクの瓶を二つ、手にとってレジに向かった。
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