箱夢師
影燈
第1話 退職願
スーツを着た男性が駅のホームから飛び降りるのが見えた。
その瞬間、私はその場に鞄もヒールも放り捨て、男性の後を追った。
……。
□ □ □
目を覚ますと、そこは病院のベッドの上だった。
私は個室に寝かされている。カーテンが開いていて、窓から外が見えた。
高層階らしく空しか見えない。水色の、空だ。いや、これは空色というんだ。
色の名前なんて、そんなのどっちでもいいはずなのに。
どうして、そんなことを思うのだろう。
周囲は、私が目を覚ましたと、大騒ぎだった。
それを私は他人ごとのように聞いていて、ただただ何か失ったかのようにそこにある、空色の空を眺めていた。
□ □ □
「一週間サボってたくせにこれかよ」
私は部長の脇沢の机の前で、立たされ坊やみたいに立たされていた。脇沢が、書類の束を私に投げつけた。せっかくまとめた書類が足下でバラバラに散らばる。
「お前、やる気あんの?」
「すみませんでした」
私は、胃の底が重くなるのを感じながら、頭を下げる。
「すみませんでした、じゃなくてさ。謝る暇あるなら、今日中に仕上げろ。あと、明日のミーティングまでにアイディア百個持ってこい」
「百個? この書類もありますし、百個を明日までは……」
私がそう言うと、脇沢は私の言葉を遮って大声を上げた。
「甘えてんじゃねえよ、矢羽あめ! お前がサボってる間、他の社員がフォローしてたんだぞ。寝る間も惜ナツメで借りを返すのが本当じゃねえのかよ」
「ですが、」
「口答えすんな!」
脇沢は、人の話を一切聞かない人間だ。
反論はただの時間の無駄。
「分かりました」
私が早く解放されるためにそう答えて立ち去ろうとすると、脇沢が付け加えた。
「あと今日取引先との接待あるから」
「え、それ私もいくんですか」
「当たり前だろ!」
「でも、私の案件先じゃーー」
「おまえは自分のことしか考えてねえのな! 女であること以外使い道ねえんだからわきまえろよ。ろくに仕事もできねえくせに、勘違いすんなよ」
一体、何を勘違いしたと言うのだろう。
事故後、療養のため一週間仕事を休んだ。復帰してみればこれだ。
私のことを心配してくれる者など誰もいない。
同僚も、下手に口を出せば次のターゲットが自分になることを知っているから、皆、見て見ぬふりだ。
きっと、私も逆の立場ならそうしていた。だから、仕事をするふりをして必死に俯いているみんなを、責めることはできない。
これがこの会社の普通だから。
けれど、脇沢は席に戻ろうとする私に言ってはいけないことを言った。
「女だからって甘えやがって。生きてる価値もねえな」
その言葉に憤るというよりもむしろ冷静に私は立ち止まり、脇沢を振り返った。
「私が、いつ女であることを理由にしましたか?」
周囲の目が私に集まるのを感じた。
気まずいというより、むしろ快感だった。
どうして、今まで我慢していたのだろうか。
「なんだと? 俺に歯向かうのか」
「何様ですか、あなた」
「はぁ!? おまえこそ何様だ!」
「辞めます」
私はキッパリと、脇沢に言った。
脇沢はきょとんとしている。
やりたいことがあって入った会社だった。
仕事自体は嫌いじゃない、やりがいだってあった。
でも、今のこの環境では、人として生きられない。
ここにいてはダメだ、と悟った。
むしろ、とっくに分かりきっていたことに、なぜ今まで気づかなかったのかと、そのことの方が不思議だった。
でも、事故に遭う前の私だったら、会社を辞めようなんて、考えもしなかった。
私の考え方を変えてくれた人がいる気がする。
でも、それが誰かを思い出せない。
その人と、いろんなところに行った気がする。その人と、過ごす日々が楽しかった気がする。
そうは思うのに、その人の顔も声も名も、わからない。
それはただの、夢だったのかもしれないーー。
むしろ、その可能性の方が高い。
だって私が意識不明の昏睡状態になっていたのは、たった一日だけのこと。
きっとその間に見た夢なのだろう。
でもだったら、この無性に寂しい思いはなんなのだろう。
夢で見た人に会いたい、と思うだなんて、その姿形も覚えてない人を、恋しいと思うだなんて、私は事故でおかしくなってしまったのだろうか。
でも、この勇気は、誰かにもらったものの気がしてならない。
その場で退職願を書いて出した私に、部長は「逃げるのか」と詰め寄ってきた。
「他の人が頑張っているのにお前だけ抜けるのか?」
「みんなこのやり方で一人前になったんだぞ!」
「これがこの会社のやり方なんだよ」
「せっかく入社したんだろう、親に心配かけることになるぞ!」
脇沢の次々投げてくる言葉がどれも白々しい。
そんな雑音として聞き流せてしまうような言葉に、今までの私は縛られていた。
ホームに落ちて、死にかけて、私の中で何かが大きく変わっていた。目を、覚まさせてくれた何かが、誰かがある。
誰かが。
「私は、ベターじゃない。ベストな選択をしたんです」
そう言って退職願を脇沢の机に叩きつけた時には、胸がスッとした。
会社を辞めることが、こんなに簡単なことだとは思わなかった。
「無責任だぞ!」
私の背に、脇沢が吠える。他の皆は、俯いて仕事をしているふりをしている。本当は、全部聞いているくせに。
「無責任かもしれません。でも、私は仕事のために生きているわけじゃない。生きるために仕事をしているんです。それなら、死にたくなるようなこんな仕事、していても私には意味がない」
それは、この仕事を頑張っている人たちにとってはとても失礼な話であることはわかる。
でも、そんなこと配慮できないほど、私を追い詰めたのもその人たち。
自分さえ良ければいい。
それが当たり前の世界。
けれど、無関心は、罪だ。
私は、せいせいした気持ちで、オフィスの入ったビルを出た。
ちょうどそこへ、顔馴染みの掃除のおばちゃんが通りかかった。
「いいお天気ですねえ」
何も知らないおばちゃんが呑気に声をかけてくる。
私も自然と笑顔になる。
「ほんと、最近雨続きでしたもんね」
「雨? このところはずっと良いお天気でしたよ」
「え、そうでしたっけ」
私の記憶では、この一週間ずっと雨だった。
病院の窓から見る景色も、退院してから自室の窓から見る景色も、全部雨色だった。
不思議に思って、スマホで週間天気予報を調べると、確かにここのところはずっと晴れが続いている。
おかしいな……。
ふと、天気予報を調べるために開いたネットニュースの一文に目が止まる。
「銀座にあるパチンコ店で、若い男が暴れ、店員と来店客を刃物で切りつける事件が起きた。逃げ遅れた客一名は、心肺停止。もう一名は、意識不明の重体」
その容疑者の若い男の写真を見て、私は息が止まりそうになった。
元カレの、達也だったのだ。
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