1話【2】:ご都合的でいいじゃない!?
「だからって! いきなりコレはないだろ!!!」
豪華な屋敷に案内され、ようやく落ち着くことができそうだと安堵したのも束の間、何故か半裸の状態のレイに迫られるという事態に陥っていた。
「ごめんね。でも、ゴウの力を確認しておきたいんだ。……大丈夫、肌を重ねるだけだよ。それ以上はしないから安心しておくれ」
「そういう問題じゃねぇけど!?」
まるで乙女に触れるかのような手付きで、俺の体を優しく押し倒そうとするレイに抵抗を試みるも無駄に終わる。せめて服を脱がされてしまうことは阻止しようと、ぎゅっと裾を抑え込んでみるものの、レイの力は想像よりもずっと強い。
「お前、嘘だったのかよ! 強いじゃん!!」
「ふふ、流石にゴウには負けないよ。とはいえ……そうだね。あまり見せたい姿ではないけれど、一度俺の実力を見てみるかい? 今のゴウにはペルーアの加護があるし、魔物に狙われることもないだろうからね」
そう言うと、レイはパッと手を放し、そのまま服を着てくれる。
誰が見ても驚き憧れを抱くような豪華絢爛な屋敷に暮らしているにも関わらず、レイの私服は至って簡素なものだった。素材が上質なのかとも思ったが、素人の目では分からない。しかし、ところどころ糸のほつれがあるようにも見えることから、レイの服は使い古されているのだろうことは想像できた。俺の服は見るからに新品であり、素材も上質そうな感触がすることから金銭的に不自由があるというわけでもなさそうなのだが。気になるのは、それだけではない。
「なぁ、レイ」
「うん、なにかな?」
「この屋敷って使用人とかいないのか? この部屋に来るまでに一人も見かけなかったけど」
レイの屋敷は貴族のものと遜色ないものであるにも関わらず、使用人と呼べるような人間を一人も見かけていないのだ。玄関を通り、そのまま二階へと上がったからかとも思ったが、それにしては静かすぎる気もする。そんな俺の疑問を、レイはあっさりと肯定してみせた。
「だって、いないからね。両親が亡くなるまでは使用人たちもいたようだけど……悪魔の生まれ変わりと共に生活をしたい人間なんて、今のカテドラルにはいないんじゃないかな」
「勇者なのに、かよ」
「勇者にもなれない男だから、だよ。明日、町の外に出てみようか。きっと君にも分かるよ、カテドラルの人々の虚しさがね」
そう言うと、レイは「食事の準備をしてくるよ」と、一階に下りていった。
窓の外を眺めれば、太陽が空の真ん中を支配していた。異世界であっても、青い空に太陽が浮かんでいることを実感すると、なんだか無性に安心する。
(……どうしようかな)
レイからは、屋敷の外に一人で出ないのであれば自由に過ごしてもらって構わないと言われている。こんなに広いお屋敷の中を探索するのも楽しそうではあるが、気が抜けたせいか、体が動きそうにない。その原因が事故による出血多量のせいなのか、それともいきなり異世界転移をしてしまった上に訳も分からず救世の手伝いをすることになってしまったせいなのかは、俺には判断できなかった。
見慣れない天井を眺めながら思考をしていると、どことなく不安な感情に襲われてくる。その感情の正体を突き止めてしまう前に、睡魔を言い訳にして意識を手放した。
*
「……お願いよ、助けてちょうだい。頼りになるのはあなただけなの。分かるわよね、號」
やややつれた表情の女が涙ながらに訴えてくる。電話越しであるため、その表情は窺えないが、これまでの経験上心の底からの涙を流しているわけではないことは容易に想像ができた。
「……うん、分かってるよ」
だから、俺のことも――。
喉元まで出かかった言葉をなんとか呑み込む。言ってしまえば、俺は独りになってしまう。それだけは、嫌だ。……本当に? 今と何かが変わるだろうか。分からない。けれど、微かな繋がりを自ら手放す勇気はない。あの頃にもらった優しさをなかったことにはできない。だけど。
「……苦しいよ。母さん、父さん」
*
「……ウ、……ゴウ!」
「……っ!? ……あ、ここは……」
「大丈夫かい? 魘されていたよ」
優しく体を揺する感覚に、意識が浮上する。
どうやら、夢を見ていたらしい。心配そうな表情で俺を覗き込むレイの背後に見える天井は、やはり見慣れないもので。ざわざわとする気持ちを無理やり押し込めて、レイに「ちょっと夢見が悪かったみたい」と笑って見せた。
「……そう。食事はできそうかい?」
「むしろ、いい感じに腹減ってきたかも」
「それなら、良かった。おいで、食事にしよう。……その後は湯浴みでもして、ゆっくり過ごすといいよ」
レイの後に続いて、一階へと下りる。
正直なところ、空腹はそこまで感じていなかった。だが、広い廊下を進んでいくと、廊下に漂う良い香りが食欲を刺激する。レイに気を遣わせないための嘘のはずが、事実になってしまった。そのことがなんとなく恥ずかしいような気もする。
「どちらで食べる?」
ダイニングと思わしき部屋へと案内されると、レイが不思議な問いをしてくる。どういうことだろうと首を傾げていれば、レイが「この部屋の他に、小さな部屋もあるんだよ」と教えてくれる。レイは広い部屋で食事をするのが嫌で、いつもはキッチンの隣にある小さな部屋――もとは給仕室だったらしい――で食事を取っているという。
「俺もそっちで良いよ。広すぎる部屋は……なんか寂しい」
「ふふ、俺もそう思うよ」
レイは何故か嬉しそうだ。
ダイニングにある扉を開くと、レイの言うように小さな部屋があった。長いテーブルに複数の椅子が置かれたダイニングとは違って、小さな正方形のテーブルと二つの椅子だけが置かれた部屋だ。テーブルの中央には、可愛らしい紫色の小さな花が飾られている。
「座って、待っていてね」
俺が椅子に掛けたのを見ると、レイは更に隣の部屋――多分キッチンだろう――へと入っていく。しかし、すぐに配膳用のワゴンを押して戻ってきた。ワゴンからは先程感じた匂いがする。美味しそうなソレに、微かに腹の音が鳴るのが分かった。
「美味そうだな」
「ふふ、お口に合えばいいけれど」
いただきます。そう手を合わせると、レイが少しだけ瞬きをした気がした。何か気になることがあっただろうか。やや引っ掛かりを覚えるも、目の前にある料理の誘惑には勝てなかった。
「……ん、美味い!」
「ふふ、そう? ありがとう」
「レイって料理上手いんだな」
「ずっと一人だったからね。気付けば一通りのことは出来るようになっていたよ」
レイはなんてことのない表情で語る。
両親も亡くなり、使用人も皆去っていき、一人で生きていかなければならなかったレイは当然料理だってできるようにならざるを得なかったようだ。もちろん、洗濯や掃除だって。
それを考えると、自分はやはり恵まれていたのだ。料理も洗濯も掃除も、ある程度の年齢を重ねるまではやってもらえた。一定の年齢になれば、多少厳しいときもあったが教えてもらえた。彼等との扱いの違いに不満はないわけではないが、きっと愛されていた。そう思いたい。
「苦労してるんだな」
「そうでもないよ。……それにゴウだって、俺と似たような感じだと思っているけれど」
「え?」
レイはこちらを見ると、ふっと笑う。
なんだか内心を見透かされたような気がして、ドキリと心臓が鳴った。……ような気がする。
「なんとなく、そう感じているだけだから深い意味はないよ」
(本当かよ……)
優雅な仕草でカップに入っているスープを飲んでいる姿がなんとも腹立たしい。言語化できていなかった自分の感覚を理解させられてしまったから、余計に。
「気に障ったかい?」
「ちょっとだけな。……飯が美味いから、許すけど」
「ふふ、ありがとう」
だから、簡単に力を貸すと言ってしまったのだろう。
俺自身の自覚済みな良くない性質のせいもあるだろうが、それだけで安請け合いするとは自分でも思えない。例え、突然異世界に放り出されて意味も分からないことばかりで混乱していたとしても、だ。つまり、レイの言う通り、俺自身も彼にどこかシンパシーを無意識のうちに感じ取っていたのだと思う。出会って間もない相手に、そんなことを感じてしまうのもなんだか悔しいけれど。
「ごちそうさまでした」
手を合わせて、食器を重ねる。
「片付けも俺がするよ。そのまま置いておいておくれ」
「いや、流石にそれはな……」
「そうかい? では、二人で手早く片付けてしまおう」
ささっと二人で片付けを終えると、レイは中庭に鍛錬に向かった。中庭という響きが気になりはしたが、俺が見学していても邪魔になるだけだろう。先程レイが勧めてくれたように入浴して体を休めることにした。風呂場を探すついでに、屋敷の中の探索をすることにした。
レイの屋敷は玄関入ってすぐの位置に二階へ上がる階段があった。階段を中心にしたとき、ダイニングは右側にある。つまり、今俺がいるのも屋敷右側になる。突き当たるまで進んでみようと歩き出すまでもなく、ダイニングを出れば行き止まりになっているように見えた。しかし、近付いてよく観察してみると、ダイニングの扉からは見えない位置に扉があるのに気付く。どうやら屋敷の左側へ移動するための通路のようだ。
通路を抜けると、右側と同じように他の扉からは死角になっているのだろう位置に出る。少し歩くと、また扉が現れる。その扉を開けば、そこには木桶や洗濯板、石鹸などが置いてあることから、ランドリールームであることが分かった。ランドリールームは一部がガラス張りになっていて、中庭を眺めることができた。中庭に井戸があるからか、そのまま外に出ることもできそうだ。
(……お、あれは……)
中庭を眺めていると、鍛錬をしているレイの姿が見えた。鍛錬であるにも関わらず、レイは再び鎧を身に纏っている。もしや、実践と同じ条件で稽古をしているのだろうか。鎧だけでも重そうであるのに、レイは同じくらい重そうな大剣を的のようなものに振り下ろしている。的のような何かから繰り出される攻撃を受けつつ反撃で確実に的を停止させていく。その様子を見る限りでは、とても彼が弱そうには見えない。
「……にしても、あれ、どうやって動いてんだろう。魔法か……?」
不思議な力で動いている的のような何かや、鍛錬様子から見る分には勇者にしか見えないレイの姿など気になるところは多いが、俺は当初の予定通り入浴を済ませることにした。
ランドリールームにあるもう一つの扉を開けば、そこには大人一人は入れそうな大きな木桶があった。木桶の他には、体を洗うために使うのだろう木製の台や椅子、湯を温めるために使うのか薪などがある。また、浴槽となる木桶の近くには小さな暖炉があり、暖炉から木桶の底は鉄板で繋がっているようだ。もしかしたら、暖炉の火で湯温を調節するのかもしれない。とはいえ、肝心の水がない。蛇口も近くには見当たらない。まさか、井戸から汲んでくる必要があるのだろうか。その考えに至ると同時に、持ち運び用だろう桶が目に入る。四十五リットルくらいのゴミ袋がすっぽり入りそうな桶だ。……気付きたくなかった。持ち手がついていることから、この桶に水を汲んで何往復かしないといけないらしい。桶一杯に水を汲めば三往復くらいだろうが、俺はそこまで力があるわけではないので五往復はしないといけないだろう。
(め、めんどくせぇ……!)
だが、風呂に入らずに一日を終えるというのも嫌だ。
覚悟を決めて、桶を持つ。大した距離ではないが、ランドリールームを経由して外に出てというのを何度も繰り返すのはちょっとした重労働のように思う。中庭に出れば、レイはまだ鍛錬をしているようだった。
「……ん?」
そんな彼を眺めつつ、水を汲むのも四度目になると、視界に入る景色に変化が現れた。
レイの近くに小さな少女の姿が見える。少女は、レイに怯えている様子でありながらも何かを必死に差し出しているようだ。あまり健全的ではなさそうな光景に仲裁に入るべきか迷って一歩を踏み出すと、足元で「にゃぁん」と声がする。緋色の毛を持つ珍しい猫に、思わずしゃがみ込む。「おいで」という俺の声は聞こえているようだが、猫はこちらを一瞥するだけで寄ってくる気配はない。そして、ふいっと顔を背けた。何度か猫と遊ぼうと声を掛けていると、いつの間にかレイと少女がこちらへと近付いてきていた。
「ああ、やっぱりいたね」
レイは緋色の猫の姿を確認すると、困惑したような表情で猫に話しかける。顔見知りなのだろうか。レイに声をかけられた猫は嫌そうな声で「にゃあ」と一鳴きしたが、逃げる様子はない。
「この子のことを頼めるかい? 屋敷の外まで安全に連れて行っておくれ」
「……にゃー」
レイの言葉に返事をするかのように鳴いた猫は少女の瞳を見つめると、中庭のどこかへと歩き出す。戸惑っている少女に「大丈夫。約束は守るよ」と、レイはなにやら意味深な言葉をかけると、猫の後を追うように促す。そうして、猫と少女が中庭から消えていくのを確認すると、レイは溜息を吐いた。
「……ゴウ、大変申し訳ないのだけど今晩付き合ってくれるかい?」
そして、先程の少女に関係があるのだろう誘いを持ちかけてくる。貧血ぎみかつ異世界に来たばかりで夜に出かけるというのも抵抗があるが、少女の様子はどう見ても訳ありだった。それを考えると、なんとなく断るのは気が引ける。
「えぇ……まぁ、なんか訳ありっぽいからいいけど……」
「ふふ、すまないね。……うん? もしかして、水汲みの途中だったかな?」
レイの提案に頷くと、彼は申し訳なさそうに笑った。そして、俺が放置したままの桶に気付くと、井戸へと向かい慣れた手付きで水を汲み、「湯浴みをするんだろう? 俺が持っていくよ」と、風呂場まで水を運んでくれた。更に火を起こし、心地良い温度まで温めてくれる。レイは「ここに水を置いておくから、熱すぎたら足して調整してね」と言い残すと、再び鍛錬に戻っていった。
「一日が長いな……」
少しだけぬるく感じるお湯に浸かりながら、ぼんやりとする。
なんだか一日が長いように感じてしまう。時間というのはこんなにゆっくり流れているものだっただろうか。
「もう死んだことになってんのかな……」
トラックに轢かれ、そのまま転移したということは現場に残っているのは血痕だけだろう。不自然な部分はあるものの、トラックに圧し潰されて死亡したということになっているかもしれない。下手に行方不明扱いにされるよりは死亡扱いのほうがいいのかもしれない。死んでいれば保険金が家族に入る。きっと、俺がいなくなっても――むしろ、俺がいたときよりもずっと楽に生活ができるはずだ。
「……少しでも、悲しんでくれるかな……」
嫌な想像をしてしまって、気持ちが落ち込む。
確かに困った人たちではあるが、愛情はちゃんとあった。……ように思う。
(大丈夫、俺はただの金づるじゃない。家族だから……頼ってくれていただけなんだ……)
湯船から出て、先程洗った体をもう一度洗うことにした。卑屈な考えが体に染みついてしまわないように、何度も何度も丁寧に石鹸で擦る。多少赤くなっている気もするが、このくらいは慣れたものだ。爪で引っ搔いて取れる垢が減ったことを確認すると、何度も何度もお湯を被って体を流す。このまま卑屈な考えが全部流れていくように。流れていく水の中に少しだけ赤い色が混じっていた気もするが、それはきっと気のせいだろう。
***
「……ウ、ゴウ。起きて。出かけるよ」
「……ん、んん……?」
風呂から上がって、そのまま深く眠ってしまっていたらしい。
レイに揺すられて体を起こすと、窓の外はもうすっかり暗くなっていた。「これを着てくれるかな」と、手渡された服はファンタジー世界の冒険者が身に纏うようなものだった。女神様の加護のおかげで所謂雑魚敵に狙われることはないものの、強敵に出くわさないとも限らない。だが、この衣装を着ていれば、もし強敵に遭遇してしまって攻撃を受けたとしても多少ダメージを軽減してくれるようだ。魔法の糸の効果らしい。
更に、不思議なバッグを手渡される。マジックバッグという名称のこれは、アイテムを制限なく持ち歩けるらしい。ただし、バッグより大きいものは入らないそうだ。そんな魔法のバッグから、レイは謎の小瓶を取り出す。小瓶の中の液体は瓶ごとに色が違っていて、赤や青、緑や黄色など様々な色のものがあった。
「強い衝撃を与えると、瓶の中に入っている液体が爆発する仕組みになっているんだ。身の危険を感じたときには、迷いなく敵に向かって投げてね」
「色が違うのは?」
「ああ、これは製作者の趣味みたいだよ。効果に変化はないから安心して」
この小瓶は護身用のアイテムのようだ。強い衝撃を与えると爆発するということなので、扱いには気を付けたほうがいいかもしれない。
「うん、とりあえず渡しておくものはこのくらいかな」
レイは俺の装いに不備がないかを確認すると、「それじゃあ、行こうか」と扉を開ける。
屋敷の外に出ると、夜の町は静寂に包まれていた。町の中を歩いているのは人間は俺たちだけで、他は野良犬や野良猫などの動物の姿があるだけだ。
「すっげぇ静かだな……」
「ふふ、今宵は『魔の夜』だからね。出歩く人間はそう多くないんじゃない?」
ワルドアナザァでは新月のことを魔の夜というらしい。
魔の夜になると、魔神の力が増幅されてしまうようで、その影響が魔族にも伝播するのだそうだ。魔の夜の魔族は非常に強敵であるため、遭遇したら生きて帰れることのほうが稀であるという。
「……待て待て待て、俺帰っていい?」
「ダメだよ。ゴウがいないと俺も死んでしまうだろう?」
「なんで弱い自覚があるのに出歩くんだよ!?」
「あの子と約束したからね。……ごめんね、最後まで付き合っておくれ」
レイに申し訳なさそうな顔をされ、言葉に詰まる。
理由は簡単だ。こいつは顔が良い。ワルドアナザァでは瞳のせいで敬遠されてしまうようだが、それさえなければ誰が見ても見惚れてしまうのではないかというくらいには目鼻立ちが整っている。なにより、認めるのは悔しいが、レイは俺の好みの顔をしているのだ。これまで好きになってきた物語のキャラクターたちの雰囲気に似ている。そんなレイに素直に頼られてしまえば、元々頼られることに弱い俺が彼の頼みを無下にすることなどできるはずもない。
「……分かってるよ。危険を分かった上で協力するって決めたからな」
「ふふ、ありがとう。……それはいざとなったら体を重ねてくれるってことだよね?」
「ふざけんな! そこまではしねぇからな! ……まぁ、お前の弱さ次第では上半身裸で添い寝くらいまでは妥協してもいいかもしれないけどさ」
「あはは、ゴウは優しいね。多分すぐにでも力を借りることになるから……覚悟はしていてね」
そんな会話をしていれば、あっという間に門まで辿り着いていた。もう少し周囲の風景を眺めたいような気がしなくもないが、そもそもこれだけ真っ暗であればたいして見えるものもない気もする。カテドラル国の散策はまた日中に再チャレンジすることにしよう。
門の近くには燭台のようなものがあり、そこには炎ではなく淡く光る玉が置かれている。もしや、これが聖玉なのだろうか。そう思ってみていれば、門外からふらふらと侵入しようとしている魔物の姿が視界に入る。これはまずいのではないか。そう思ってレイに声を掛けるが「ここはまだ大丈夫だよ」と魔物の動きを見ていろとでも言うかのように、魔物を指すだけだった。
魔物は、真っ黒でてらてらしている体を持ち、背丈は人と変わらないくらいだった。しかし、上半身から下半身にかけてどろりと溶けており、足元には真っ黒な水溜まりのようなものができていた。それを引き摺りながらカテドラルへと侵入を試みようとしている姿に、心の中がざわざわとする。それでも、何故か魔物から目が離せずにいた。そんな俺の視線に気付いたのだろうか。魔物の赤い単眼がこちらを捕らえる。ぎょろりという音が聞こえたかと思うと、それまでゆったりした動きをしていたはずの粘性の魔物は俊敏な動きで門へと向かってくる。
「……ひっ!?」
「大丈夫だよ、見てて」
反射的にレイの後ろに隠れる。ほぼ同時に「ギィ……ャアアアア……!!!」という悲鳴のようなものが聞こえた。レイの背を盾にするようにして門へと視線を向ければ、凄まじいスピードでこちらへと突進していた魔物が蒸発している姿があった。
「あれって……」
「聖玉の力だね。ペルーアの加護が込められているからね、並みの魔族はそう簡単に侵入できないよ。……もっとも、今となっては、それだけ強力な効果があるのもペルーアの膝元であるカテドラルくらいだけれどね」
他の地域では聖玉も度重なる魔族の侵攻で結界の機能を維持できなくなっているところも多いという。自警団や騎士団の奮闘で一進一退の地域もあるようだが、結界があるのとないのとでは戦えない人々の安心感はかなり変わってくるはずだ。
「だからね、俺は各地に聖玉を届けるという役目もあるんだよ。どちらかというと、魔神の封印なんてついでだよ、ついで」
「勇者の発言じゃなくね?」
「ふふ、ペルーアには内緒だよ。……さて、ここからは気を引き締めていこう。ゴウ、俺から離れないでね」
「ああ。……でも、なんのために危険を冒してまで外に出るんだ?」
レイに頼まれるままについてきたものの、彼の目的については謎のままだ。危険が付き纏う以上、目的くらいは知っておきたい。
「そういえば、話してなかったね。……昼間、中庭に女の子が来ていたのを覚えているかい?」
「ん、ああ、いたな」
「あの子の依頼なんだ」
「依頼?」
「そう。他の土地では、まだ機能しているか定かではないんだけどね……」
ワルドアナザァには『サァカバ』という組織があるらしい。概要を聞くと、どうやらサァカバというのはギルドのような役割を持っているようだ。町の人々の個人的な依頼をこなすなんでも屋としての役割や魔物や獣の駆除をこなす退治屋としての役割を持っており、冒険者と呼ばれる人々の主な収入源となっているという。
サァカバには独自のランクシステムが導入されているようで、そのランクに応じて受けることのできる依頼に変化がある。最初のランクは試験結果で決まるが、依頼をこなしていけば実力にそってランクも上昇していくので、大抵の人間は試験を受けずに最低ランクから始めるようだ。冒険者にも依頼にもそれぞれランク付けがされているというあたりは、物語にでてくるギルドとそう大差なさそうだ。
「ランクは最低がEで最高がSになっているよ。対峙する際の目安として魔族や獣にも同じようにランクが付いているんだ。こちらが勝手に判断しているだけだから、想像よりも強かったり弱かったりすることもあるけどね」
「なるほどな。ある程度強さが分かっていれば無謀な戦いを避けられるもんな」
「そういうこと。……とはいえ、今の状況じゃ無謀だと分かっていても立ち向かわないといけないんだけれどね。……まぁ、だからね。今はどこも討伐以外の依頼を受ける余裕がないんだよ」
どこの町も防衛に手いっぱいで、冒険者たちは魔族との戦闘に駆り出されている。そのため、余程ランクの低い冒険者でもない限り討伐以外の依頼を受ける余裕はない。だからか、サァカバ自体が緊急性のないものであれば一般の依頼を断ることも増えてきたようで、困っている住民もいるらしい。もっとも、先程の少女は単純に依頼内容に見合った報酬と依頼委託料を用意できずにレイを案内されてきたようだが。
「そういうのって、そのギルド……じゃない、サァカバを通さなくていいのかよ?」
「報酬を受け取るのであれば、あまり好ましくはないよね」
「おい」
「あはは、大丈夫。本当の依頼人は別にいるから」
どういう意味なのだろうか。
首を傾げる俺に、しかしレイは答える様子はなさそうだ。素直に聞いたところで、多分答えてはくれないだろう。依頼人のことは頭の片隅に置いておくことにして、依頼内容について尋ねた。すると、「魔の夜にしか咲かない、白い花の捜索をね」と返ってくる。その白い花――パナレコンは、薬の材料になるらしい。非常に効能も良く、大抵の病気は治るという噂まであるという。
「あの子はね、病気の母親のためにパナレコンを見つけたいんだって。でも、魔の夜に出歩くのはランクの高い冒険者ですら危険なことだ。子どもが一人で出歩くだなんて自殺行為だよ。だから、俺に依頼が来たんだよ。真の依頼人からしたら、どちらに転んでも自分にとっては良いことしかないからね」
どちらに転んでも、とは、どういう意味だろうか。
気にはなるものの、少し長話をし過ぎてしまっている。そろそろ捜索を始めないと、依頼とやらを達成できなくなるかもしれない。引っ掛かりを覚えるが、それを無理やり押し込める。そして、レイに説明してくれたことに感謝を告げると、そろそろ行こうと声を掛けた。
「そうだね。太陽が昇ったら花は枯れてしまうというから急ごうか。念のため、俺から離れないでね。……そこの、赤い猫ちゃんもね」
「にゃあん」
「うわっ!? え!? いつの間に!?」
「あはは、屋敷を出たときからいたよ」
「マジで……?」
レイの呼びかけに反応するように昼間に中庭にやってきていた緋色の猫が姿を現す。不機嫌な鳴き声に驚いたのは俺だけのようで、レイはそんな俺を見て笑っていた。
「ゴウ、その猫ちゃんは君よりは強いから、いざとなったら盾にするんだよ」
「いやいや、猫を盾にできるわけないだろ……」
門を越えたレイに続いて、俺も門から足を踏み出した。その途端に、ぞわっとした寒気のようなものを感じる。魔族の視線だろうか。きょろきょろと周囲を見渡してみるが、先程のような魔物の姿を見つけることはできない。だが、確かに空気感というのだろうか。そういったものが変化したような感覚がある。
「ゴウ、大丈夫かい?」
「……多分。でも、なんかぞわぞわするんだよな」
「ゴウも感じているんだね。ついにサンクチュアにも強大な力を持った魔族が来たのかもしれないな」
「大丈夫なのか、それ」
「あはは、ダメかもしれないね?」
「お前……」
迷いなく進んでいくレイの後をはぐれないように追う。猫もしっかりと付いてきているようで、時々鳴き声が聞こえてきては、レイに「余計なことをしないでくれるかな」と言われていた。魔族に気配を悟られてしまうから、と。それでも猫は分かっていてやっているのか何度も何度も気まぐれに鳴いた。
「……っと、どうしたんだ?」
「魔人がいるんだ。……流石に、戦いは避けたいかな」
「でも、花はこの先なんだろ?」
「そうだね。……でも、迂回しよう。あの魔人はかなり強いだろうからね」
レイの背後から、ちらりと魔人の姿を覗いてみる。
魔人というから、もう少し異形じみた姿をしているのかと思っていたが暗闇から見える分には人間とそう変わりがないように見える。レイの言う強さというのもあまり感じられない。だが、本人曰く弱いとはいえ、戦闘経験がある人間がそう言うのだから恐らくあの魔人は強いのだと思う。
「こっちだよ」
レイに手を引かれて、ゆっくりと移動する。緊張からか、汗が頬をつたっていく。草を踏みしめる音が、いやに耳に響く。心音が自分以外にも聞こえているような気がする。
「もう大丈夫じゃないかな?」
「……っ、はぁ~……」
緊張から解放され、思わずへたり込む。すると、緋色の猫が情けないとでも言うかのように鳴いた。そして、こちらを一瞥すると俺たちを待たずに歩き出す。「俺たちも行こう」と、差し出された手を取って立ち上がれば、ほぼ同時に大きな獣のものだろう咆哮が薄暗い大地を震動させた。
「……これは……!」
「……なんっ、なんだよっ……!?」
地面が大きく揺れる。
倒れそうになる体をレイが支えてくれるが、咆哮は続き、それに比例するように大地も揺れている。立っているのも厳しいような状況で、これ以上先に進むことはできそうにない。
「余計なことをしてくれたみたいだね」
「……え?」
そんなことを考えていれば、レイは苦々しい顔をして猫が去っていた方向を睨みつけている。それとほぼ同時に、真っ赤に染まった猫が吹き飛ばされてきた。
「……え? ……っ、え……?」
猫が持っていた毛色とは違う赤だということは、直感的に分かった。分かってしまった。「猫……!」駆け寄ろうとするも、レイに体を支えられていたため、猫のもとには行けそうになかった。だが、急いで止血しないと猫は死んでしまう。まだ揺れが収まる気配はないが、だからといって放っておくこともできない。レイの腕を解こうとするも「大丈夫。あのくらいじゃ死なないよ」と、むしろ拘束が強くなってしまう。
「それより、自分の命を守ることを優先して」
「なんだよ……それ……」
「……来るよ」
俺がレイに反発するよりも早く、彼の背に庇われるような形になる。それと同時に、再度獣の咆哮が大地を震わせる。肌にビリビリとした刺激が走る。俺にも分かる。獣はもう、すぐそこにいる。
「……っと、乱暴でごめんね」
「おい、いきなり……っ……!」
レイに勢いよく突き飛ばされたかと思うと、目の前から彼の姿が消えた。先程レイがいた場所には、体高が三メートルはありそうなほど巨大な狼の姿があった。金と赤のオッドアイがこちらを睨む。圧倒的なその姿に、体がすくんで動けない。
(――死んだな)
まさか一日に二度も死を体験することになるとは思わなかった。
せめて目くらいは閉じさせてほしいが、恐怖のあまりそれすら叶わない。ただ、呆然と見つめることしかできなかった。そんな俺の姿はあちらにとっては非常に良い標的だろう。巨大な狼は獲物を見据えたかのように、しかし余裕があるのか、ゆったりとした動きでこちらへと近付いてくる。
「させないよ!」
だが、狼が俺に近付く前にレイが大剣を振り下ろす。狼はそれを俊敏な動きで避けると、レイに対して威嚇行為を始めた。その行為の対象はレイであるはずなのに、俺はまたしても動けそうになかった。
「……まさか、こんなところにラルジュルフがいるだなんてね……っ!」
レイは何度も剣を振り下ろしているが、巨大狼の動きが早すぎて当たりそうにない。それどころか、相手のカウンターを喰らって、傷が増えていくばかりだ。大剣が重いのか、それとも俺を庇いながらのせいか、レイの攻撃は全て空振りに終わっている。反対に、巨大狼はレイの攻撃後の隙を見逃すことなく、鋭い爪で引っ掻いたり巨体の重量を利用して体当たりをしたりと、確実な攻撃を当てている。大地にはレイの血がポタポタと落ちており、それは今この瞬間にも増えていっている。
(……このままじゃ、レイが死んじまう……)
だけど、俺に何ができる。戦えもしない俺に。何が。
必死に脳内を働かせる。考えろ、考えろ、考えろ。目の前で誰かが死ぬ姿は見たくない。
(……せめて、少しでも気を逸らせれば……!)
ふと、出掛ける前にレイから護身用に小瓶をもらったことを思い出す。衝撃を与えれば爆発するという不思議な液体の入った小瓶だ。あれだけの巨体相手には大したダメージにはならないかもしれない。だが、レイが攻撃する隙くらいは生まれるのではないだろうか。
震える手でバッグの中の小瓶を探す。大丈夫、今の俺には女神様の加護がある。だから、狙われることはないはずだ。だが、もしもを考えると手の震えは治まりそうもなかった。それでも、なんとか小瓶を握りしめる。ここでレイを見捨てるわけにはいかない。レイが死んでしまった時点で俺も死ぬだろう。もしも運良く巨大狼から逃げられたとしても、町への道が分からない。どの魔族が強敵かの判断もつかない。そんな状態で一人無事に帰れるはずもないのだから。
(……やるしかねぇ!)
大きく深呼吸をする。手の震えは、やはり治まりそうにない。だが、あれだけ的が大きいのだ。クリティカルヒットは難しくとも、どこかしらにヒットくらいはできるかもしれない。今のやつはレイに気を取られている。
「……いけぇっ!」
「――――グォォオオオ!!!」
「よっしゃ! レイ、今だ!」
「無茶をしてくれるよね。……っはあ!!! ……っ、やっぱり俺の力じゃ無理か!」
どうやら運が良かったらしい。
俺の投げた不思議な小瓶は巨大狼にクリティカルヒットした。上手いくらいにレイの横をすり抜けると、たまたま狼の瞳がそこにはあった。いくら頑丈そうな見た目をしていても、瞳へのダメージは大木はずだ。その隙を狙って、レイが大剣を振り下ろす。だが、レイの攻撃はあまり聞いていないようで、身をよじる狼に振り払われてしまった。
「ちょ、なにしてんだよ! チャンスだっただろ!!」
「あはは、言ったよね。俺、弱いって。耐久には自信あるんだけど、どうにも攻撃力が足りなくてね」
「笑ってる場合か!?」
確かにレイの攻撃は狼に直撃していた。けれど、大剣によるダメージはあまりなさそうに見える。ゲーム的に言うなら、体力を十も削れたか削れていないかくらいだろう。「どうするんだよ!?」思わず、レイに叫ぶ。きっと逃げても無駄だろう。あちらの足の方が間違いなく早い。「まぁ、倒すしかないよね」と、レイは笑って言う。
「勝算はあるのかよ!?」
「ゴウがいるじゃないか。いざとなったら、力を貸してくれるんだろう?」
「今この状況で出来ることないだろ!?」
俺だって、こんな状況になると知っていたら潔く上半身くらい差し出した。今だって、そんな余裕があれば生きるために覚悟を決めている。だが、じきに巨大な狼は錯乱状態から抜け出すだろう。とてもじゃないが、肌を合わせて力を貸すだなんて呑気なことをしている時間はない。
「あはは、なにも肌だけじゃなかったじゃないか」
「……え? ……まっ……~~~~!?」
すっと体を寄せられると、そのまま口づけをされる。
音にならない悲鳴が口の中で虚しく響く。ふっと笑ってみせたレイが満足気な表情なのが、殴りたくなるほど腹立たしい。
「この力の素晴らしさをゴウ自身は体感できないのが悲しいところだね」
レイは大剣を構えると、巨大狼と対峙する。
狼はすでに錯乱状態から抜け出しているようなのに、先程とは違ってレイから一定の距離を取っている。それどころか、僅かに後退しているようにも見える。「君たちには怖いだろうね、この力はさ」と、レイはどこか生き生きとした声で語る。俺からは見えないが、その顔は笑っているような気がした。
「本当に厄介な女神だよ、ペルーアは。……さて、すまないけれど君のことは倒させてもらうよ」
そう言うと、レイは苦戦していたのが嘘のように俊敏な動きで、一撃一撃を確実に与えていく。鈍器で殴るかのような音と肉を切り裂くような音の中に笑い声が聞こえて、体がすくむ。なんだ、これは。俺は何を見ているのだろうか。怖い。レイが。怖い。なんだ、あいつは。いくら敵であるとはいえ、あんなに楽しんで殺せるものなのか。生きているものを。分からない。なのに。
(……なんて、綺麗なんだろうか)
恐ろしいのに、美しい。
獣の血が鎧を赤く染めていく。
足はすくみ、体は震えている。なのに、目が離せない。
「……ゴウ?」
「えっ? ああ、なに……?」
「終わったよ」
ぼんやりと眺めているうちに、戦闘は終了していたらしい。
巨大な狼の体には大剣が突き刺さっていた。女神の聖剣をあんなふうにしていていいのだろうか。なんて、やや違う方へ意識を向けてみるが、目の前で微笑む男がべったりと赤いものを体に付けているせいで、いやでも現実を突きつけられてしまう。
「……ああ、怖がらせてしまったね。……っと、危ないなぁ」
「うるせぇ! もう訳分かんねぇんだよ!」
「あはは、そうだよね。……大丈夫、俺は君を傷付けはしないよ」
ぐちゃぐちゃになった感情を拳に乗せて、レイにぶつける。渾身の一撃になるはずだったそれは、あっさりと躱されてしまって体がふらつく。レイはふらついた俺の体を抱き留めると、安心させるかのように背中を優しく叩く。
「……なんで、お前女じゃねぇんだよ」
「ふふ、なら女装でもしようか?」
「……そういう意味じゃねぇし……」
だよね。
なんて。なんで、分かっているかのように笑うのか。
「むかつく」
「うん」
「むかつくんだよ」
「うん」
――ありがとう。君のおかげだよ。
耳元で囁かれる言葉に反応する自分がむかつく。俺は、やっぱり俺を必要としてくれる人が好きなのだ。それが女性でないことが少しだけ複雑ではあるけれど、目の前で俺に与えられてしまった力の大きさと、それを必要とする人間を見てしまったら恐怖よりも喜びが勝ってしまうらしい。
「ゴウ。君は俺よりも大変そうだね」
「なんでも分かったみたいな口利くなよ。殴るぞ」
「あはは。少なくとも、これからも協力してくれるんだろうなってことは分かったと思うんだけど……違ったかな?」
当たっているから腹立たしい。
だから、質問には拳で返答してやった。またも躱されてしまったが。
「じゃあ、目的も果たしたし帰ろうか」
「ん? 花の回収がまだだろ?」
「ああ、それは猫ちゃんがしてくれたから大丈夫だよ」
レイの言葉に猫がいたはずの場所を見ると、そこにあるはずの姿はなかった。派手に吹き飛ばれていたはずだが、どうやら生きていたらしい。そのことにほっとしたのも束の間、頭の片隅に追いやっていたはずの疑問がよみがえってくる。
「なぁ、あの猫ってなんなんだ?」
「ただの不器用さんだよ。……彼女は立場上依頼を受けることはできないから」
「……? よく分からないんだけど」
「ふふ、彼女のためにはそれで良いんだよ。ああ見えて恥ずかしがり屋さんだから、あまり詮索しないであげてほしいな」
腑に落ちない部分はあるが、レイの反応を見るに猫は素性を知られたくはないようだ。猫の素性というのも変だが、ここがファンタジーっぽい世界であることを考えると誰かの使い魔か何かなのだろう。そう自分の中で折り合いをつけて、この話はおしまいということにする。そもそも、名前を聞いたところで知り合いなどレイくらいしかいない俺に分かるはずもないのだから。
「ま、いいけど」
「ふふ、では今度こそ帰ろうか。……もう陽が昇り始めているしね」
レイの言葉に空を見上げると、濃い紫紺色の中に薄い橙色や桃色が混じり始めていた。探索を始めた時間は分からないが、結構な時間を費やしていたらしい。戦闘終了によって緊張が解れたのもあって、一気に眠気が襲ってくる。
「……お前が抱きつかなければ帰ってすぐに眠れたのに」
「あはは、ごめんね。俺が風呂の準備するから許しておくれ」
「まぁ、いいけど。……なぁ、今更だけど怪我は大丈夫なのか」
「大丈夫だよ。俺、頑丈さには自信があるからね」
帰りの道は行きの緊張感などなかったかのように、ゆったりとした気持ちで帰れた。我ながら、本当に単純である。それでも、レイが俺を必要としてくれるうちはこの世界にも俺の居場所はあるという、俺にとって一番大切なことを身を以て体感できたことは大きかったように思う。
「ところで」
「うん?」
「恋人ができた時は教えてね。どこまで許されるのか確認しないといけないからね」
「ふざけんな。俺が彼女作るまでにちゃんと強くなれよ」
「あはは、善処はするよ」
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