第14回 空色杯(500文字以上の部)

mirailive05

景漆の輪郭

 妙な男だった。見ただけでは年齢がよくわからない。

 二〇代に見えるが、三〇代といわれても違和感はない。あるいは四〇代と言われても不自然ではなかった。流石に五〇代には見えないが、いずれにしても外見からは年齢がつかめない。

 身に着けているものは色落ちしたアイビーグリーンのザック、同色の麻のシャツ、カーゴパンツ。

 およそファッションなんぞ意に介さないかのように、その男は横須賀の街を進んでいた。

 汚い身なりということではない。使い込んで変色しているとはいえ、身に着けているものは清潔に保たれている。

 身なりに興味がない、あるいは気にする必要がない。そういうところに身を置いている。そういう空気を、男は身にまとっていた。

 仮想空間や街のディスプレイ、イベント施設。それらが溢れかえった現実味の薄い時代にあって、なお男の存在感は違う意味で現実感がなかった。

 明らかに異質な存在のその男を、だが街の人々は気にしなかった。振り返るどころか、目に入ってさえいない。進路が重なっても避けもしない。

 その間を、男は空気のように進んでいた。


 どれくらい経ったであろうか、さびれた県道からさらに奥まった林道に歩みを入れて、男は一軒の廃墟の前に立った。

 放置されて永いのか、妙に現実感のない廃墟だった。上手く表現する言葉が見つからないが、あえて言えばた。

 引き戸式の玄関はあっさり開けられた。梅雨明けの湿気の多い熱風が吹き込み、代わりに埃り塗れの空気が吐き出される。

 中は漆を溶かして吹き付けたように、何も見えない。

 一歩踏み入れる。

 気温が下がったような気がした。

 二歩目。

 ひりひりと、右の蟀谷こめかみのあたりが疼きだす。

「ビンゴ、という言い方は令和では通用しないらしいぜ、知ってたかい?」

 薄暗い廊下の奥、漆黒と泥墨を混ぜ合わせたような空間に、それがいた。

 妄執と怨念、執着と慚愧。様々な負の波動が、空間を歪ませていた。

『カ、エレ……』

 言葉とも、意識ともつかないものが投げつけられた。

 男は避けなかった。使い込まれたアイビーグリーンのシャツの袖が弾ける。

「おう、当てやがるのか。こいつはな」

 男は何事もなかったかのように言葉をつづけた。

「執着するのもいいが、周りに迷惑かけてんじゃねえぜぇ」

『カ、エレ!』

 今度ははっきりと、敵意を持って投げつけてきた。

 正対していた男は、左足を一歩引いただけでそれを躱した。

 引き戸のガラスが弾け飛ぶ。

「聞く耳は持たねえか」

 不意にそいつが消え、目の前に現れた。粘着質の有鱗目となって体にまとわりつく。

 それは物理力だけでなく、男の霊体、虚体にまで侵入し、意識を締め上げようとする。

「こいつはなかなかの淀みだぜ……」

 男の存在そのものを揺らがせようとするそれを、明確な衝動を編んで引きはがす。

「悪いな、永々付き合ってる暇はないんでね」

 意識を整え、神仏の奥の根源にコンタクトする。

 概念と衝動にかたちを与え、更に言霊を刻み込む。併せて両の手で物理的にも具現化。

「業、愿、残、侭、絶」

 男は印を結びながら両腕を突き出した。

 見えない本体から感触のない手ごたえを感じる。から力を引き出してと共に流し込む技。

 実体のない硬直感が、印を結んだ腕越しに伝わってくる。

 マイナスの揺らぎが、そいつを内側から蝕んでいった。

 が、予想外にしぶとい。

「いつまでも自分にしがみついてんじゃねえよ、これからのやつらが迷惑するだろうが!」

 更に一押し。

 耐え切れず、それが四散するように霧散した。

 男は「ふー」と息をつくと、陰陽でも、仏教でも、修験道でもない印を解く。

 途端に埃と熱気が押し寄せてきた。強烈な疲労感とともに汗が噴き出してくる。

「阿闍梨、一つ貸しだぜ……」


 男は来た時とは逆再生のように引き戸を閉じると、何事もなかったように廃墟を後にした。

 いつの間にか夕暮れ時になっている。

 一瞬虚紫色の空を視界に収め、だが男、九榊喰界くさかきくうかいは何事もなかったかのように、来た道を戻っていった。

 後には、ただの廃墟が佇んでいた。

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第14回 空色杯(500文字以上の部) mirailive05 @mirailive05

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