№6 王の器

「……ぐふっ……!……まだまだ……!」


「殿下、少し休まれては……」


「いえ、師匠! 私はまだやれます! さあ!!」


 そんな調子でスパーリングを続けていると、エディオネルはたちまちぼこぼこになっていった。殴ったのはマリアローゼなのだが、なんともこころが痛む満身創痍具合だ。


 それでもなおリングに立ち続けると言い張ったエディオネルを説き伏せて、マリアローゼはようやくボクシンググラブを脱いだ。


 ふらふらになったエディオネルの傷の手当てやテーピングを施し、ベンチで休みながらヤギの乳を飲む。


「……私は必ず、ボクシングでこの国の頂点に立ちます」


 バンテージを取り換えていると、ふとエディオネルがつぶやいた。いや、つぶやきと言うにはあまりにも熱がこもりすぎていた。


 なぜこんな真摯でやさしい男が、殴り合いで国のてっぺんに立とうと思ったのだろうか?


 気になったマリアローゼは、その疑問をぶつけてみることにした。


「殿下はなぜ、ボクシングを始められたのですか?」


 何気ない世間話のていを装いながら尋ねると、エディオネルは苦く微笑んで、


「……昔話になりますが、よろしいですか?」


「ええ、もちろん」


 うなずくマリアローゼに、エディオネルはとつとつと語り始めた。


「私は、幼いころから兄……リベリオネルの『添え物』でした。王位継承がほぼ決定している兄のスペア、それが私です。兄は溺愛され、私は放置気味で育てられました」


 なんとなくわかる気がする。同情、ではないが、親から疎まれ政略結婚で王家に嫁……ごうとしていたマリアローゼにとって、こういった『一応』といった風な育てられ方をしたエディオネルの苦しみは充分に共感できるものだった。


「なので、最初は両親の気を引くために強くなろうとして、始めたのがボクシングです。当然ながら両親は『殴り合いなど』と取り合ってくれませんでしたが、やがて私はからだを鍛えることによってこころも鍛えられることに気付きました。それで、より一層ボクシングに打ち込むようになったのです」


 健全な精神は健全な肉体に。古くから言われてきたことだが、それを体現しているのがエディオネルという男である。甘やかされて傲慢に育ったリベリオネルに比べて、肉体を研鑽し続けてきたエディオネルは、ストイックでまっすぐなこころを持って育った。


 時には欠点ともなる負けん気も、そういった由来のせいだろう。負けてしまってはいいところを見せられない。愛されない。ゆえに、エディオネルは負けを嫌うのだ。


 動機はどうあれ、エディオネルは強くなることに目覚めた。そのために日々トレーニングを欠かさず、こうしてマリアローゼのことも『師匠』として慕ってくれるのだ。


 エディオネルは照れくさそうに笑って、


「もちろん、王としてこの国の頂点に立つことも、まだあきらめてはいません。王になるためには、ちからをつけなければならない。強いからだに、強いこころ。強くなくては、強い国を作ることはできないのです。だから私は、強くなりたい。身もこころも」


 第二王位継承者としての意気込みを語る。


 たとえ『スペア』であったとしても、エディオネルは腐らなかった。いつか王になり上がるために、鍛錬を怠らなかった。少し先に生まれたことにあぐらをかいて、おごり高ぶっているリベリオネルの上を行くために。


 その志は、実に清い。


 ……しかし、その反面危険でもあった。


 マリアローゼは居住まいを正し、エディオネルに向き合うと、静かに告げる。


「殿下、ひとつ申し上げておきます」


「……はい、師匠」


 エディオネルも真剣な顔をしてマリアローゼの目を見詰めた。マリアローゼは、す、と息を吸い込み、


「ちからというものは、暴力にせよ権力にせよ、一見素晴らしいものに見えます。ですが、同時にとてもおそろしいものでもあります。容易にひとを傷つけることができる。ちからは、使い方を間違えればとんでもないことになります。取り返しのつかないものを失うことにもなりかねません」


 もし自分を『師匠』として迎えてくれるのならば、言っておかねばならないことだった。相手がこの国の王になるかもしれないともなればなおさらに。


 ちからというものは、諸刃の剣だ。いくら強大なちからを持っていても、制御し、正しく行使しなければ、逆に大切なものに向かって襲いかかる。


 そうなってしまって、エディオネルが後悔することだけは避けたかった。


 黙って言葉を待っているエディオネルに、マリアローゼは静かに微笑みかける。


「ですから、殿下。やさしくなってください」


「……やさしく……?」


「はい。強いだけでは意味がありません。その強さに見合ったやさしさを身に着けてください。そうすれば、きっと正しくちからを使いこなすことができるでしょう。やさしさが、ちからの振るい方を導いてくれるのです。強く、そしてやさしい王になってください、殿下」


 願いを込めて口にした言葉を、エディオネルはしばらくの間頭の中でかみ砕き、自分なりに必死に解釈しようとしている様子だった。マリアローゼの言葉と真面目に向き合ってくれている様子は、とても好感が持てた。


 やがてマリアローゼの意思を完全に汲んだのか、エディオネルは目を丸くして嘆息し、


「……師匠は、お強いだけではなく聡明でもあるのですね……」


「そ、そんなことは! 申し訳ありません、出過ぎたことを言いました……!」


「いえ、さすがです、師匠!」


 傷だらけの顔でにっこりと笑うエディオネルに、マリアローゼは『言ってよかった』と心底思った。この男ならば、間違ったちからの使い方はしないだろう。強くやさしい王になってくれるはずだ。


 ならば、強くなりたいという思いに答えなければならない。


 バンテージを巻き終わったマリアローゼは、ヤギの乳を飲み干すと立ち上がって、


「さあ、殿下。今日のところはここまでにしておきましょう。からだのためには休息も必要ですよ」


「はい!」


「良質な食事をと良質な睡眠、強いからだを作るには必要ですからね」


「こころえています! 師匠も、今日はお付き合いいただいてありがとうございました! よろしければ、明日もお願いしても?」


「もちろんです。明日も自室におりますので、トレーニングの時間になったらひとを寄越してくださいませ」


「わかりました! ゆっくりとお休みくださいね!」


「それでは、わたくしは着替えがございますので」


 汗くさいトレーニングウェアから清潔なドレスに着替えるために下がったマリアローゼを、エディオネルはお辞儀で見送る。


 ……さて、思いもよらぬことになった。


 婚約破棄されたと思ったら、第二王子のスパーリング相手……というか、師匠として王城に留まることになった。実家の両親が聞いたらなにを思うだろう。


 しかし、マリアローゼにとって、リベリオネルの『見世物』として扱われるよりも、エディオネルの『師匠』として迎えられる方が何万倍も居心地が良かった。


 強くなりたいというエディオネル。


 ならば、望まぬ強さを持って生まれた自分は、エディオネルのために全力を尽くそう。


 がんばろ、とつぶやいて、マリアローゼはトレーニングウェアを脱ぎ捨てるのだった。

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