№5 エディオネルという男

「殿下。まず、挑発に乗ってはいけません」


 よく冷えた山羊の乳を飲みながら、マリアローゼは開口一番そう言った。ベンチの隣に座ったエディオネルは、同じくヤギの乳を口に運びながら真剣にその言葉を聞いている。


「殿下は一見おやさしいお方に見えますが、感情的というか、負けず嫌いなところがあるように思います。ですが、そこをぐっとこらえて、自分のペースを貫いてください。秘策があれば、相手は必ず挑発してきます。それに乗ることはありません」


 出会ったときから思っていたことだったが、このエディオネルという男、ただただやさしいばかりの男ではないらしい。愚直なまでの芯というか、己というものを持っていて、それを曲げることに抵抗を感じる。


 だが、時にはそんな信条を曲げて、柔軟に対応しなければならない。プロボクシングという世界ではなおさらそうだ。強いだけではのし上がれない。


 至極真摯な眼差しをマリアローゼに向け、続きを促すようにうなずくエディオネル。マリアローゼはそれに従って、二の句を継いだ。


「それから、やはり足元に隙が生じがちです。必殺の攻撃を放ったあとはなおさらです。今まで上半身を中心に鍛えてらしたでしょう? これからはもっと足回りも鍛えていきましょう」


 決してフットワークが重いというわけではないが、パンチ力に比べて見劣りすることは確かだった。強力なこぶしを的確に相手の急所に叩き込むには、なによりスピードが重要だ。そこを磨けば、もっと光るはず。


 次第に言葉を失くしていくエディオネルに、トドメを刺すようにマリアローゼが告げた。


「あと、重心が右に寄りがちです。蹴り足が利き足の右になるので仕方のないことかもしれませんが、重心というのは大切です。常にからだの下部中心、それをこころがけていれば、からだのバランスというものもかなり改善されるはずです」


 重心は必ずしも安定していた方がいいとは限らない。攻守両方に即座に振れるよう、あえて定めないという手もある。が、エディオネルのようなハードパンチャータイプの場合、その分強固な足場が必要だ。強く蹴り出すためにも、重心は低く設定した方がいいだろう。


「…………ええと」


 とうとう目を丸くしたエディオネルを前にしたマリアローゼは、またしても『やってしまった』といった顔をした。


「しっ、失礼いたしました! 出過ぎたことを……!」


「……いえ……」


 しかし、エディオネルに引いたところは見受けられない。むしろ、尊敬のまなざしすら向けている。


「あれだけのスパーリングで、これほど私のことがわかるとは……感服しました、すごい観察眼です……!」


「そ、そんなことは……」


「やはり、私の王者への道にはあなたが必要不可欠だ!」


 熱っぽく手を握りしめ、エディオネルは必死にマリアローゼをかき口説いた。こんな風に男性に迫られるのは初めてのことで戸惑ったが、あくまでもスパーリング相手として、だ。マリアローゼはそこを見誤らなかった。


 代わりに、


「王者への道?」


 エディオネルが口にした言葉に疑問の声を投げかけるマリアローゼ。


 すると、エディオネルははにかんだような笑顔で、


「ええ、私はボクシング界のチャンピオンを目指しているのです。今までずっと、その王座を狙ってきました。今回がその好機です。一気に頂点を目指すつもりです」


 なるほど、やるからには徹底しているのか。リベリオネルのような王家のボンボンというわけではないらしい。


 密かに感心しているマリアローゼの両手を取り、エディオネルは熱っぽい声で、


「いっしょにがんばりましょう、師匠!」


「……いえ、ですから、師匠というのは……」


「はい、師匠!」


 そのまっすぐっぷりに、マリアローゼはつい苦笑してしまった。


 猪突猛進なまでに、己を信じるファイター。


 そんなエディオネルを、どこまで育てられるか。


 ……わくわくしないと言えばウソになる。


 もしかしたら、自分にもまだできることがあるのかもしれない。


 マリアローゼはエディオネルの手をぐっと握り返すと、


「ええ、がんばりましょうね、殿下」


 この王城に来て初めての笑顔を見せると、かたい握手を交わすのだった。

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