十六 ゲオルグ

 無数の白薔薇がぼんやりと夕闇に浮かぶ。

 昨晩は確か満月が美しくて、白い花々がまるで光るように見えていたけれど、今日はあいにく雲が多く、月の光は届かない。セルジュの薔薇は、微かな陽の名残を惜しむように、控えめにその花弁を揺らしていた。


「やっぱり、近くで見ると余計に素敵ね」


 喜ぶマーゴットに、昨日の方が美しかった、などとは言えず、曖昧な相づちを返しながら、ゲオルグはその後ろ姿を見つめていた。


「ホワイトガーデン、とっても美しいけど、わたくしには真似できないわね」


「どうしてだい?」


「他の色のお花も好きなんだもの。目移りしちゃうわ」


 娘の優しい感想に、なぜか安堵し、狂おしく香る喪の香りの中、息をつく。そして、目に入ったベンチに腰掛けた。


「僕は……ちょっと分かるかな」


 重い蕾を乗せた枝が、夜風に傾ぐ。娘に聞こえないように呟いたつもりだったが、言葉は彼女に届いていたようだ。マーゴットはくるりと振り返ると、微笑みを湛えたままゲオルグの隣に座る。そして、何も問わずに、父の隣で薄暗い庭に目をこらした。

 夜に鳴く虫が控えめに歌い、いびつに寄り添う二人の沈黙を埋める。

 彼らの眼前で、夜がまた一段深くなり、白薔薇は遠くなった。


「本当は、思いとどまらせようと思って来たんだけど」


 やがて、ゲオルグが呟いた。


「セルジュ様を?」


「ああ。彼にはまだ生きていてもらわないと困るし、馬鹿げたことだと思ったから」


「それで来るとき、少し怒っていたのね」


「えっ?」


「分かりますわよ」


「……敵わないなぁ」


 小さく苦笑し、そして続ける。


「僕はさ、この感じ、知ってるんだ。僕はいつもこちら側なんだ。皆……勝手に決めて、勝手に天国へいってしまう。僕の言うことなんて聞きやしない。だけど……だけど……」


 俯いて石畳を見つめていたゲオルグの視界に、フッと濃い影が落ちる。厚い雲間から月が顔を出したのだ。


「……本当に最低だよ。羨ましいなんて」


 十六夜の月が、うなだれる男の輪郭を照らし出していた。

 アーシュラは生きる理由を残していった。だけど、自分はそんなに強くはなかった。巨大な城にひとり残された憐れな平民大公。あの時妻の後を追えなかったのも、きっと弱さ故のことだった。

 セルジュの気持ちが分かる。

 そして、彼のようにはもうなれないのだ。

 黙り込んだゲオルグの冷たい手に、柔らかいマーゴットの手がそっと重なる。


「お父様の罪は、わたくしね」


 告げられた言葉に、ハッとして顔を上げると、二つの大きな瞳がこちらを捉えた。


「ふふ、わたくし、やっぱり、お父様のことは何でもお見通しなんだわ」 


 なぜか満足げな表情で、彼女は囁く。


「だって、お母様よりも長く一緒にいるのですものね」


 美しく成長したマーゴットは、透き通るように弱く、儚かった母とは違う光を纏っていて――確かに、あの夜、妻の身代わりにしてしまった人だ。


「だからね、お父様」


 踏みにじられた花は笑う。


「あなたの赦しもまた、わたくしなのよ」



 彼女がアヴァロンへ戻っても、胸に空いた穴は埋まらなかった。会いたい人は彼女じゃなかった。なのに、彼女なしには、今日まで生きてこられなかった。

 つかの間孤独から救われるために奪い続けた。知っている。償える罪ではないんだ。それなのに、あなたは――

 舞い降りた二つ目の星。それは夜の中にあってなおその身を燃やし続ける太陽のようで――確かに、あの人に似ていた。


 白い指に撫でられて、頬を伝うぬるい涙を自覚する。


「泣かないで、お父様。あなたが好きよ」


 世界が歪み、嗚咽が突き上げる。

 僕は許されるべきじゃない、と、口にすることはできなかった。ただ、ものを知らぬ子供のように、後から後から涙が零れた。

 ああ、そういえば、彼女が死んでから、こんな風に泣けたことはなかった。あらゆる障害を退けて互いを捧げ合った唯一の人、アーシュラはもうどこにもいないのだ。

 知らぬ間に月の周囲の雲は流れ去り、煌々と輝く白が、寄り添う二人の影をくっきりと映し出す。


 白く光る花々が、残された者の癒えぬ傷を慰める。生きている限り、明日を迎えねばならない。それはまだ長く残された道だった。

 やがて、慟哭が去った後、優しい娘の腕の中で、ゲオルグはまるで、恐ろしい夢から覚めたように呟いたのだった。


「君を開放する……約束する。

 世界で一番、君の幸せを祈るから」

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