十四 エリン
忍ばずとも足音のしない、絨毯敷きの廊下を歩く。
どこでも好きに見て回ればいいと兄に促され、その通りにしてはみたものの――どの場所にも確たる見覚えはなかった。それもそうだ。彼がこの城に暮らしていた数年間、こうして城内を自由に歩き回ることは許されていなかったのだから。
生まれた場所なのに一つも懐かしくない。せっかく兄が計らってくれたのに。エリンはせめて、見知らぬ生家に僅かでも愛着を取り戻したくて、半ばムキになって歩いた。
迷い歩くうちに日は傾き、いつの間にか日没が近いようだ。敷地の奥側の廊下に出ていたようで、表からは見えなかった庭が目に入った。
乱雑に生い茂った、色とりどりの花が揺れている。中庭と違って、あまり人の手は入っていないようだ。けれど、自然そのままのような雰囲気は悪くなく、花の多い庭は美しく思えた。
ひときわ背の高い草の頂きで揺れる、今にも咲き始めそうなつぼみが目に入ったとき、知らずエリンは足を止めていた。
(あれは)
二色の瞳が揺れる。幼すぎる日の記憶は曖昧で、目覚めた後の夢と大差はない。けれど、
(母上のダリア……)
十二月に赤い花を咲かせるあの植物は、冬の厳しいこのあたりで育てるのは難しい。母が特別に取り寄せて、手をかけて咲かせている――乳母からそれを聞いた時の光景が浮かび、そして、花々の向こうにぽつんと立つ塔が、己の居場所であったことを思い出した。たぶん、あの塔が、この城で唯一思い出の残る場所だ。
庭へ降りようと窓に手をかけて、ハッと手を離す。全く、これではジェラルドを叱れない。客人らしく、庭への正規の道を探してもうしばらく城内を歩き回って、ようやく裏庭へと出ることができた。
裏庭の真ん中に、その塔はあった。花木や草花に取り囲まれ、半ば緑に埋もれたように見える。遊歩道の石畳にも緑が浸食しつつあり、足下をぬれた草が撫でる。他の庭ほど手入れはされていないようだ。
カスタニエ家に、決して生まれてはいけなかった【紫】を隠した塔。こうしてみると少し不自然な場所にあるので、もしかすると自分が生まれた後に作ったものなのだろうか。
入り口は開いていた。殆ど放置されているのだろう、ドアは固くて重く、人が出入りした形跡はない。少し迷って、狭い階段を上った。
カツン、カツンと、靴音を響かせてみる。
この音を知っている。いつも待っていた。
ひとつ、ふたつ、ドアを行き過ぎて、3つめの扉を開ける。
ギイ――と、歪んだ建具のこすれる音が響く。一歩足を踏み入れると、キラキラと光りながら虚空を漂う何かが目に入った。
「……!」
予想と違う様子に、思わず息をのむ。
部屋は、大きく取られた窓から差し込んだ夕日によって、全体が山吹色に輝いていた。うす暗い螺旋階段を上ってきたせいで、眩しくすら感じられる。眼前で光っているのは、久方ぶりに空気が動いたせいで舞い上がった埃のようだ。
子供用のベッドがひとつ、ミニチュアのような小さい椅子とテーブル、丸いラグマットと、乳母が整頓したであろう玩具棚。兄が持ってきてそのままの絵本。
まるで過去をそのまま封じ込めたように、部屋は残されていた。
白い埃が積もった、失われた日々の証。けれど、あの小さな椅子がぴったりだったであろう幼子はもう、どこにもいない。
エリンはしばし言葉も無くただ立ち尽くし、やがて、ゆらりと窓辺へ足を進める。閉ざされた部屋に開かれた、大きな窓。あの頃、外の世界とは、この庭のことだった。
母が植えてくれたという、皇帝ダリアの赤い蕾が、失われた少年への愛を歌うように、夕方の風に揺れていた。
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