七 セルジュ
広い窓に、ちょうど上り始めた月が冴え冴えと輝いていた。この寝室は、月夜にはまるで空へ渡る箱舟のようだ。
まどろみから覚めたセルジュは、部屋に自分以外の気配を感じて顔を上げた。
「……灯りくらいつけてはいかがか」
黙って窓の外を見ていたゲオルグは、セルジュの声にそろりと振り向いた。
「月が明るいし……静かに眠っておられたから」
「私はかまわないが、確かに、今宵の月はひときわ大きい」
彼が一人で部屋にやってきたのは、確か日暮れ前だったように思う。食事がどうのとか、息子の仕事ぶりがどうのとか、当たり障りのない会話を少しだけ交わした。ただ、その間ずっと何か言いたそうな顔をしているのには気付いていたから、彼がそんな話をしに部屋を訪れたのでないことは理解していた。
そして、実のところ、言いたいことも分かる。
「私の部屋からも庭は見えるが、空はあまり見えない。あなたは贅沢な部屋にお住まいだ」
ゲオルグ・アヴァロンは、抑えた声で静かに言った。
彼は不思議な男だ。二十年前は、平民出身の摂政なんて、うまくやっていける訳がないと、公言して憚らない者も多かったと記憶している。ただ皇女と恋に落ち、成就させた幸運の持ち主というだけ。特別な経歴や才能もない平凡な青年に、期待する者はいなかった。
けれど現在、意外にも、ゲオルグのことを悪く言う者は少ない。大きく功績を上げて尊敬を集めているわけではないが、特定の大貴族に取り入って味方に付けたというようなこともないようだ。
つまり、彼はアーシュラ亡き後、実にそつなくこのエウロ自治区を取り仕切ってきたといえる。随分と努力を重ねてきただろうということは想像に難くなかった。
「……あなたは、私に話があって来たのだろう?」
だから、そんなゲオルグには、今の自分の振るまいに口を出す資格はあると思う。考えを変える気のないセルジュだったが、はるばる引き留めに来てくれた彼の厚意には付き合おうと思って、自ら切り出した。
「勝手だと、言いたいのかね」
ゲオルグが黙ったまま息をのむ音が、聞こえた気がした。一歩、二歩、寝台に歩み寄る。
「……それがお分かりなら、どうか、節を曲げて義務を果たしていただきたい」
「義務とは?」
「決まっている。あなたの家族……ロディスに対する義務だ」
それは、予想していたのと少し違った返事だった。
「意外なことを言う。てっきり、仕事を放り出すなと言いに来たのだと」
「もちろんそれもある。いや……最初はそれについて話に来たつもりだった。けれど、今はこっちの方が重要だよ」
「……その義務ならば果たした。あれはもう十分大人になった。あなたは心配だろうが、領主としての務めも私以上にうまく……」
「違う。ロディスに何も話していないと聞いた」
痛い話を持ち出されて、ふっと気が遠くなる。なぜ彼がそれを、と、疑問が浮かんだが、すぐに状況の想像はついた。
「ラッセルか……」
「私が無理に聞いたんだ。こんな時に姿が見えないなんておかしいと思ったから」
「ロディスは……あの子なら……分かってくれる」
「それこそ勝手だよ。セルジュ」
「……弁解はしない」
「残される者のことを考えてほしい」
「わかるとも。私は残された側だから」
「だったら!」
感情を抑えられなくなったらしいゲオルグの声のトーンが変わる。
彼は優しい。多くの貴族たちが彼を嫌わない理由は、たぶん、この人柄による部分が大きいのだと思う。
いざというときに、ゲオルグは人より一歩多く踏み込んでくるのだ。だから、多くの者はいつの間にか彼に心を許してしまう。
「……なあ、セルジュ、あなたはまだ選べる。私たちは、生きられるのに死ぬべきじゃないんだ」
「……すまないな。色々と迷惑をかけることだろう」
「そんなことはどうでもいい。頼むよ。考え直してくれ、我々にとっても、あなたは大切な人だから」
申し訳ないな、と、セルジュは思う。
だけど、すべての答えを、自分はすでに得てしまった。
「死は……私のものだ」
あらゆる大切なものをうち捨てていく。わがままは承知の上だ。だけど、この気持ちはもう誰にも変えられない。
「……ゲオルグ、あなたには分かってもらえるかもしれないから、あなたにだけ言う」
部屋に響く声は少し掠れている。月光に映し出された向かい合う二人の輪郭が、青白いシーツの上で揺れていた。
「リュシエンヌが死んだ時、この世から色が消えた。彼女がいなくなった世界は……私にとってもう、生き続ける価値はないのだよ」
自分のことを真心で思ってくれる者たちに対して、あんまりな言いようであろう。だけど、偽らざる本心なのだ。
これまで、何もかも投げ出してしまいたい衝動を抑え、領主である義務と、父である義務のために生きてきた。病は、そんな自分にようやく与えられた選択肢だったのだ。
ゲオルグがどんな思いでその言葉を聞いていたのかは分からない。
だが、彼がそれ以上セルジュの説得を続けることはなかった。
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