六 エリン


 エリンは困惑していた。

 ゲオルグやマーゴットと一緒に部屋を出るつもりでいたのに、なぜかひとり部屋を出そびれていたのだ。我に返ると皆いなくなっていて、声をかけられた覚えもない。

 部屋には兄と自分の二人だけ。どうすればいい?


「…………」


 何か、話をするべきだろう。

 けれど、何を?

 世間話など嗜んだことがないし、そもそも今は暢気な会話を交わす場面ではないように思う。兄の体調が悪いなりに安定しているということは、先ほどマーゴット達と話しているのを聞いたばかりだ。それ以外のことで、何かちょうどよく兄をうんざりさせずにすむ話はないだろうか。今朝の天気のこと――いや、そのこともさっき話していたではないか。

 顔には出ないが困り果てて目を泳がせるエリンと、けだるげな表情で何やら考え事をしているらしいセルジュの間には、短くない沈黙が流れていたが――やがて、セルジュの方がそれを破った。


「ルツィアを覚えているか?」


 唐突な兄の言葉に、しかしエリンは殆ど悩まず頷いた。


「はい」


 もちろん覚えている。ルツィアは乳母だ。人生最初の記憶の中には、よく笑う彼女の姿がある。


「そうか……」


 セルジュは静かに微笑んで、目を閉じた。


「もう、しばらく前のことになるのだがな……ルツィアが死んだんだ。できれば、そなたには伝えたいと思っていた」


 ここに居ない人の訃報は、幻のように頼りない。


「そなたのことをずっと気にしていたからな」


「私のことを?」


「心配性だっただろう?」


「……そうですね」


 そうだった。ちょっと遊んでいるとすぐに飛んできて大騒ぎをするのだ。危ないとか、じっとしていてとか、そういうことを言っていたような気もする。もしかすると、自分は手のかかる子供だったのかもしれない。


「彼女には、引退後も城に住んでもらった。独身だったし、実家に家族も残っていなかったから――」


「以前、一度ここの玄関で会いました」


「ほう。そうだったか?」


「ええ。兄上が、トッカルへ行けと仰った……」


 一度だけ、兄の頼みで幼かったマーゴットの側を離れたことがあった。窮地にあったロディスを救うために。


「ああ、そうか。あの時か……確かに、ルツィアもいた」


 セルジュは、懐かしそうに頷いた。

 この顔を知っている。幼い頃仰ぎ見た、大好きだった兄の面影。

 兄弟で共有できる思い出は数えるほどしかないが、それでもつながった糸は切れなかった。

 たとえ遠く、遠く、遠く離れても。

 だから、兄がこの先どんな遠くへ行ったとしても、何も変わらないのだ。今までも、これからも。

 二度と会えなくても。


 病に蝕まれ、痩せこけ折れそうな手首を黙って見つめていると、ふいにその手がサイドテーブルに伸び、揃えて置いてあった万年筆とレターパッドを取った。


「近くの丘に、我が家の墓所があってな。父上と、ルツィアの墓がある。嫌でなければ……二人にも顔を見せてやってくれ」


 何やらメモを書きながら、セルジュは言った。覗くと、地図を書いているらしい。


「ルツィアと、父上の、墓……」


「ああ。長いこと私しか訪れていないからな、二人ともきっと喜ぶ」


 エリンがメモを受け取ると、頼むと言ってセルジュは笑った。

 重かった心が、少しだけ軽くなったように思え――そのかわりに、少し悲しくなった。

 兄の命の灯は、あとどのくらい持つのだろう。

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