二 エリン
リズムを刻むように、規則的に通り過ぎていく木々の向こうに、じっとして動かない、巨大な黒い塊がうずくまっている。
あれは――湖だ。昼間は美しく穏やかな風景のはずだが、闇の中にあっては、それが実は世界に開いた不気味で巨大な穴であることに気付かされる。
エリンは、流れる夜の中で静止する闇を、長いことじっと見つめていた。移動中、こんな風に無為に外の景色を眺めるなんて、今まであまりなかったことだ。けれど、そのことに気付くこともなく、ただ瞳に入る夜が、特に意味を成すことなく流れ去っていくに任せる。
木が、草が、看板が、道路灯が、一瞬現れ、心にとまることなく消えていく。その奥でやはり、湖だけはいつまでも大地にへばりつき、重く、暗く、居座り続けるのだった。
兄が死ぬという。病で、そう遠くない先に。
知らせを聞いて、何を思ったわけでもない。そもそも見舞いに同行するつもりもなかった。マーゴットの護衛は必要だけれど、もうジェラルド一人に任せられる。カスタニエ公セルジュは兄とはいえ、自分が親族のように振る舞うことは憚られる相手だし――悲しむべきニュースだと理解はできるが、感傷に浸るような材料はないはずだ。
(死は……死以上のものではない)
それなのに、ゲオルグはどうしても、絶対に、エリンも来るべきだと言って譲らなかったのだ。
兄のことは憎からず思う。実際、助けを求められたときには応じたし、今もそれは変わらない。だけれど、やはりセルジュも、カスタニエ家も、とても遠い。
遠い相手のことは、それが生きていようとも死んでいようとも同じだ。同じように想い続けることができるから。兄も、親も、それから本当の主人も。
ああ。だから――
だから自分は、行きたくないのか。
暗闇に思えた湖の向こうに、不意に小さな集落の明かりが現れる。地上に星が落ちたようで、ハッとして身じろぎすると、知らぬうちに左肩にかかっていた重みがカクンと落ちた。
「……?」
隣でマーゴットが眠っていたようだ。今の今まで気がついていなかったことに驚きつつ、脱力してずり落ちる身体を支えて、起こさないようにそっと横たえる。穏やかな寝息が耳に届いて、嘆息する。
カスタニエ家との事情のあらましを知るマーゴットは、きっと自分を心配し、心を痛めることであろう。やはりジェラルドに来させればよかったような気がする。
ゲオルグが余計なことを言うからだと、多少恨みがましい気分で顔を上げると、その本人と目が合った。
「…………」
しばしの沈黙。ゲオルグは何か言うかと思ったが、黙ったままだった。やがてフイとエリンから目をそらすと、彼は手にした端末に表示されている、メールだか書類だかわからない何かに目を戻した。
今夜のことは、あくまで行かないと突っぱねることはできたはずだ。アヴァロン城の中で誰にも見つからない場所くらいいくらでもある。けれど、何となく、言い分を聞き入れて付いてきてしまったのは自分なのだ。
ゲオルグに対する感情は、計りかねるものがあった。
エリンにとって一番大切なものを、彼は二度奪った。一度目は運命の、二度目は絶望の導きによって。
何度も殺そうと思ったし、殺してくれと頼まれたことだってある。しかし、実行に移せたことはない。その理由は分からない。
いや、分からないことにしていたいのかもしれない。
今の有様を、ゲオルグは自ら選んだわけではない。彼は貴族ですらない外の人間だった。妻亡き後、元いた世界に戻っても良かったはずだ。
陽気で明るく、人に好かれる青年だった彼が、どこへ行っても成功できたであろうことに疑いはない。少なくとも、アドルフが死に、アーシュラが死に、味方が減り続けるアヴァロンに残るよりもずっと彼らしく幸福に在れただろう。
選択肢はいくつもあった。ゲオルグをこの世界に縛り付けたのはおそらく自分だ。愛を人質に義務を突きつけ、成長を見守ることもできない娘と、生まれついたわけでもない家のために、一人の友もいない城に置き去りにした。
最愛の彼女の心を奪った、その復讐でもしたかったのだろうか。
絶対におまえも一緒に来るべきだと言い張った時のゲオルグは、どことなく昔の彼を彷彿とさせた。アーシュラの太陽だった頃の、眩しく正しい彼に。だから、逆らえなかったのだろう。
死に向かう兄に会って、何を言えば良いのかわからない。自分が姿を見せることによって、兄の最後の時を、いたずらに乱してしまわないだろうか。
目を閉じても、闇に浮かぶ恐れからは逃れられない。レーゼクネは遠いけれど――いっそ、もっともっと、たどり着けないほどに遠ければいいのに。
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