夏はそう遠くなく

紫鳥コウ

夏はそう遠くなく

 ハチ公前で待ち合わせをしている。

 一分の遅れなんて気にならないのに、そのわずかな時間のロストが人命を失わせてしまう、一秒さえ貴重なのだと、深刻な顔で言う。こういうとき、どういう言葉も慰めにはならないと知っている。

 小雨のなかにたたずんでいるあおいを傘にいれると、持ち手をパッとはなした。ぼくの頭が骨組みにコツンと当たった。痛くもなんともなかった。

 葵の頭の上からほおを伝い、あごに手をかけると、雫がポトリと落ちた。なにも言わずに、まだ眼を伏せているのを、こちらへとぐいと持ち上げる。なにか言葉を紡ぎそうになった葵の口をふさぐ。

 六月二十二日の葵の唇は、すこし水気をふくんでいた。


 予約したアフリカンレストランで食事をしているときには、もう葵は、陽へ向けて花弁を広げる一輪の花のようだった。それも、もうすぐ来る、夏の花に似ていた。

「アフリカ料理って、ほとんど食べることはないし、それも西アフリカ……だよね? その地域にある国の食文化には、まったく触れてこなかったから」

 美味しいだけではなく、珍しい体験をしたということを強調する葵。ロマンチックな照明と異国情緒あふれる装飾。このお店の雰囲気も、葵のテンションの高さに弾みをつけているのだと思う。

 ぼくももう大人だから、西アフリカ地域の国々の細やかな説明を、一方的にしようとは思わない。というより、葵を見ていると、そうしたことは野暮やぼなのだと感じる。

 もう傘がいらないことは、窓に水滴がついていないことからも分かる。陽気なアフリカンミュージックの音色をかき消すような、激しい雨音もしない。

 だから、傘を差さずに駅へと戻り、ハチ公の前で別れることにした。去り際はいつだって寂しい。

「良いお店を紹介してくれてありがと。今度、彼氏と行ってみようかな。あっ、でも店員さんに顔を覚えられているかもしれないし、ちょっとリスキーかもね。別のオトコのひとと来ていたって言われると困るから」

 そんなことを屈託くったくなく口にすることができる葵のことを、恨めしく思う。


 深夜から朝にかけて、窓を厳重に閉めていてもはっきりと分かるほどの雨が、降り注いでいた。

 九時頃になりようやく雲間から陽が差し込んできて、畑へでることができた。ぬかるんだうねの間に印しづけられた長靴の跡は、正午になるにつれて渇いた色を見せはじめた。

 もう八十になろうという母の作ってくれた昼ごはんを食べ終えて、少し横になってワイドショーを眺めていると、葵から連絡が入った。

 六月二十八日の夜に会うことはできないかというメッセージだった。いままでとは違い、スタンプだけではなく、絵文字や顔文字が使われていて、なんだか嫌な予感がしてしまった。

 なにか適当な言い訳をして断ってしまおうか。そんなことを考えていると、

「そろそろ畑に行ったらどうだい。夕方までに終わらなかったらどうするよ」

 と、母にかされた。


 劇場を出るころには、すっかり雨が降っていた。小雨というには、お世辞がすぎるくらいだった。さきほどまで聞いていた笑い声や拍手が、耳の奥から一掃されていくような気がした。

 ぼくたちは、まっすぐと駅の方へ向かった。そして別れようとしたとき、葵はこんなことを言いだした。

「今日は、家に帰りたくないんだ。紀人くんの家に泊まっちゃダメかな?」

「ぼくは実家に住んでるし、母さんもいるし、そう簡単に決められるものじゃないよ」

「そっか」

 寂しそうな葵の表情を見るまでもなく、連絡をくれたその日から、彼氏となにか良くないことがあったのだということは分かっていた。

「ぼくとの関係がバレてしまったの?」

「ううん。彼が浮気しているのを知って、それを問い詰めちゃったの。ひどい言葉をぶつけているうちに、自分だって浮気をしているんだって気付いて……だから謝っている彼を見ていると、やりきれなくなってきちゃって」

「しばらく、友達の家にでもお世話になっていたの?」

「うん……知っているひとの家を渡り歩こうと思ってる。だから今日は、紀人くんのおうちにお泊まりさせてもらいたかったんだけど」

 ならばきみの実家に帰ればいいのにと思ってしまったが、そうはできないから、いまこうして、どうしようもないことに、なってしまったのだろう。

 いつかは、同棲している彼氏のもとへと帰らなければならないということを、こころのどこかで思っているのに、どうしても決意ができないらしい。その気持ちも、ぼくには全く分からない。


「お母様にはなんて説明してくれたの?」

「そのままのことを言ったよ」

「わたしの浮気相手って?」

「さあ……」

 黙ったまま背を向けた。雨はまだ降り続いていた。瓦を叩いて地面へと落ちていく様子が目の前に浮かんでくる。

 ぜんぜん眠気におかされることはなく、タクシー代が思っていた以上にかかった訳を考えていると、マッチの火が灯ったかのように、耳の裏にパッと熱が広がった。

 布団ぶとんがずるずると後ろへ下がっていく。ふたりでひとつの布団に寝るのに慣れていないのだろうか。ふちをつかんでこちらへと引っ張る。

「やろうよ」

 葵のささやきは、瞬く間に雨の音にかき消えていった。ぼくは、首を横に振った。

「キスはしてくれたのに」

 夜も深まり、雨足は一段と強まってきた。これからは、なにを言っても、言ったことにならないだろう。

 ぼくは、すっかり熱をたくわえた彼女の唇を押さえつけていた。求め合うというより、ぶつけあうようなキスだった。葵は泣いていた。


 六月二十九日の朝陽で眼をさましたぼくは、なぜか畳の上にいた。記憶を整理しても、そのいきさつを思いだすことはできなかった。こんなに寝相ねぞうが悪かっただろうか。もしかしたら、葵に押し出されてしまったのかもしれない。

 掛け布団にくるまれている彼女は、首と肩がはっきりと見えていた。丸まって寝ているらしい。もしかしたら裸なのかもしれない。彼女に貸したぼくの上着は、首も肩も隠してしまうほど大きかったはずだから。

 窓から差し込んでくる陽の光は、松の木の影を縁側へと静かに落としていた。その松の木から、早とちりの蝉の寝ぼけた声が聞こえてきたような気がした。聞こえるはずがないのに。



 〈了〉

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