第42話 こんな感情、私には要らないのに

「ご褒美?」


 朱里は私に問いかけた。


「うん、ご褒美。朱里が頑張って課題提出できたら、私が何かご褒美あげるよ」


 ご褒美。

 その言葉に何かを想定していたわけではない。

 ただ、彼女が課題を頑張るモチベーションになればいいと思っただけだ。


「え、なんで?」

「だって、やる気でないんでしょ」

「だけど、アキにメリットないじゃん。私にご褒美あげても」


 別にメリットだとかそうじゃないとか、そういう話ではないと思う。

 私が朱里にご褒美をあげる、そのために朱里は頑張る。それだけの話だ。


「めんどくさいなー」


 私はぽりぽりと後頭部を掻く。


「私はただ、朱里と一緒に進級したいんだよ。そのための不安材料は排除しておきたいだけ」


 だけど私がそう言っても、彼女はしばらく黙っていた。

 なにかを考えるように宙を見上げ、手元ではカップに挿されたままのストローをくるくると回している。


 私は彼女の目を見つめる。


 彼女は私の視線に気づいたのか一瞬だけ目が合ったが、すぐにまた逸らされてしまった。


「……じゃあ、お願いしようかな」


 朱里はそのまま目を合わせずに、独り言のように呟いた。


「うん、そうしてよ」

「だけど、ご褒美って、何をお願いすればいいんだろう」

「それは、朱里次第でしょ。私、相当変なやつじゃなかったら断ったりしないし」


 例えば、昔私たちがしていたようなこと。

 私も彼女も、そのことについては触れようとしない。


 私は意図的にそれについて触れないようにしているけれど、彼女がどうなのかはわからない。


 別に、笑い話にしてしまっても構わない。

 いや、むしろそうしてしまった方がいい。


 幼い頃にキスをしていたなんて、そりゃちょっとは変かもしれないけれど、悪いことをしていたわけではないのだから、口に出して茶化してしまうほうが絶対にいい。


 でもそれができずにいるのが現状だ。


 触れず、口にせず、過去のことなんて放置しておけば、そのうち時間が風化させていく。だったら、それに任せてしまってもいいんじゃないか。


 ……だけどもしもご褒美だと言われてそういうことを求められたら、私はどうするんだろう。


 いや、さすがにない。

 現実的でない仮定はそもそも成立しない。


「わかった。考えとく」

「よーし。頑張ってよー」


 私は笑って、じゃ、そろそろ出ようかと言った。


「朱里も課題しなきゃしなきゃいけないみたいだし」

「そんな切迫してるわけじゃないよ」

「だめ。どうせぎりぎりに出そうと思ってるんでしょ。余裕もってやりなよ」


 私は立ち上がり、飲み終えた二人分のフラペチーノのカップを手に取って、返却口に下げた。

 

 

 


 そして朱里の課題の提出期限の日。


「放課後、課題出してくるから、ちょっと待ってて」


 昼食を食べ終わって教室へ帰る前に、彼女は私に耳打ちした。


 今は終礼が終わったところだ。

 彼女の言葉に従って、本でも読んで時間を潰そうと鞄の中から文庫本を取り出した。


「あれ、アキちゃん。帰んないの?」


 私の前で席を立った穂乃香が、私に尋ねる。


「うん。朱里、物理基礎赤点だったでしょ。その分の追加課題提出今日までらしくて」

「へえ。そういえば、物理基礎の追加課題相当難しかったらしいね」

「そうなの? あんまり詳しくは聞いてないんだよね」

「うん。なんかテストより難しかったらしいよ。それに、提出しに行ったら間違ったところ出来るようになってるか確認されるとか」

「確認って?」

「小テスト、みたいな感じだったと思う」

「うわ。朱里、大丈夫かな」

「わかんないけど、結構頑張ってるみたいだったよ?」

「……まあ、気長に待つことにするよ。穂乃香は今日も塾?」

「うん、そう」


 彼女はポケットからスマホを取り出し、画面を軽くタップした。


 表示された時刻を見て、「じゃ、そろそろ行くね」と言った。


「うん。また明日」

「また明日」


 彼女は週に何度か塾に通っている。

 まだ高校一年生だから塾に行っている人は少ないが、彼女の両親が教育熱心らしく、早いうちから塾に通わされているらしい。


 彼女に手を振って見送った後、手に持っていた文庫本を開く。


 教室には数人の生徒が残っていて、談笑したり勉強したりしている。


 高校に入ってから二か月ほど経って、クラスの中のグループのようなものも大分固まってきたように見える。四、五人くらいのグループが三つあって、私や穂乃香みたいなどこにも属さない人も数人いる。


 どのグループも対立したり険悪になったりすることもなく、ただ気の合う人と一緒にいるだけ、みたいな感じがする。ほとんどのクラスメイトとは話したし、大体の人とはそれなりに仲良くなった。


 近すぎず遠すぎず、いい距離感を築けたのではないかと思う。


 今だって、彼女たちが私に話しかけてくることはない。


 それは彼女たちが、私がこういうやつだってことを分かってくれているからで、そういう関係は楽で心地いいと思う。


 五十ページほど一気に読み進めたあたりで、私は顔をあげた。

 指で瞼の周りをマッサージしながら、帰ってこない彼女のことを考える。


 ……遅いな。


 二十分くらいしたら帰ってくると思っていたのだけれど、どうやらまだ時間がかかりそうだ。 穂乃香が言っていたように、小テストでも受けさせられているのかもしれない。


 私は栞を挟んで本を閉じた。


 窓から入ってくる柔らかな風に、瞼は自然と降りてくる。


 寝るわけじゃない。


 ただ少し瞼を落とすだけだ。


 私は腕を組んで、ただその風に揺られていた。


 気づけば教室の中には私以外誰もいなくなっていて、廊下の向こうから誰かの話し声が聞こえていた。


 カーテンを膨らませる緩やかな風が、私の中に入り込んでくる。


 それが記憶のページをぱらぱらとめくって、思い出したくもない思い出のページを開いた。

 

 


 

 

 小学校六年生の時だっただろうか。

 季節性の流行り病に冒された私は、一週間の出席停止となった。


 私がそれに罹ったのは流行が一息ついたかというタイミングで、学級閉鎖が明けた後だったから、再び教室に戻ってみんなの顔を見た時には、妙な気恥ずかしさがあったのを覚えている。


 あの時、朱里は私の家にお見舞いに来た。


 思えば、彼女が私の家に上がったのはあの時が初めてだったな。


 今よりずっと控えめだった彼女は、私の家に来たいなんて言うことはなかった。

 だから、私のお見舞いに来るには相当勇気が要ったことだろうと、後になって思った。


 私は熱でぼうっとする頭でずっと、朱里は学校で上手くやれているだろうかと考えていた。


 あの時期はそれなりに人と話す様になっていたものの、それでも彼女はほとんど私としか話をしていなかったから。


 だけど私の予想に反して、再び学校であった彼女は普段通りの表情をしていた。

 何も変わらない、私が知っているいつもの朱里の顔。


「大丈夫だった?」


 学校で彼女にそう尋ねても、返ってきたのは「なんのこと」という言葉。


 私がしていた心配は完全に杞憂で、別に私がいなかったとしても彼女になにかしら問題が生じるわけでもなかった。


 てっきり学校で、話す人がいなくて寂しい思いをしているかもしれないと思っていたのだけれど。


 思い返してみれば、当時の私はなんというか、彼女の保護者のような気持ちでいたところがあった。守る、というほど大袈裟なものではないけれど、私が彼女を見ていてあげなきゃみたいな使命感。


 給食の時間に、麻衣ちゃんや葵ちゃんと話した。


 そして何かのきっかけで、朱里の話になった。


 彼女らは朱里のことを、「最近明るくなったよね」と評した。


「そう?」

「うん。なんか話しやすくなったというか」


 詳しく聞くと、私が休んでいる間に、彼女らは半活動で朱里と話をしたという。


 次の授業の宿題の話から、ドラマの話まで、いろいろ。


 私は、彼女が私以外の人とそんな話をしているところを見たことがなかったから、その場面を上手く想像することができなかった。


 彼女らの話を聞きながら、私は考えた。


 今までの、私の振る舞い。朱里の様子。


 ……もしかして、私が彼女の枷になっていたんじゃないのか。


 気づくべきじゃない。私の中で何かがそう叫ぶ声が聞こえていた。


 だけど一方で、至って冷静に状況を分析している自分がいた。


 私がしているのは保護や見守りなんかではなく、ただ彼女が他の人と関わるのを妨げているだけ。


 本来彼女一人でもやっていけるものを、「私が見ていてあげなくちゃ朱里はだめなんだ」という大義名分を勝手に掲げて、私と二人だけの関係の中に閉じ込めてしまっていたのではないか。


 実際彼女は、私がいなくても問題なくやっていけていたではないか。


 彼女にとって私は、本当は不要な存在だったのではないか。


 一度考えだすと止まらなかった。点と点が、何かの意図を持ったかのようにつながっていくのを感じた。そのもやもやは服の上に着いた小さなシミのように、私の心の一部分に広がっていった。


 だけどだからといって、出席停止が明けてからの私と彼女の関係が変化したかといえば、そんなことはなかった。


 彼女との別れは、本当に突然のものだった。


 その別れによってもたらされた喪失感や欠落感は、それまでにあった服の上の小さなシミなど、簡単に覆いつくしてしまった。


 だから朱里と仲を戻したことによって、その喪失感や欠落感が薄らいだのかもしれない。それによってあの蟠りが、記憶の底から顔を出したのだろうか。


 いずれにしても迷惑な話だ。こんな感情、私には要らないのに。




 

「アキ、起きて」


 肩を揺する声に、私は顔をあげた。


「おはよう」


 前の席に座った朱里が、私に微笑みかける。


 眠るつもりはなかった。


 だけど微睡んでいたのは事実で、空想が頭のなかで渦を巻いていたのも事実だ。


 体も少し凝っているし、全体的に寝起き感がある。

 おはよう、という言葉に関しては、どうやら認めなければならないらしい。

 私は目をこすって、朱里に「おはよう」と返した。


「今、何時?」


 体の感じから言って、一時間以上は眠っていたような気がする。


「六時前くらい。ごめん、遅くなっちゃって」

「いや、別にいいよ。私も寝ちゃってみたいだし。小テスト、受けてた?」

「あれ、知ってたんだ。そう、確認テスト、みたいな」

「どうだった?」

「ぎりぎり、許されたかなって感じ」

「一応合格ってことでいいんだよね。よかったじゃん。頑張った甲斐あったね」

「まあね。ていうか、早く帰ろうよ。おなかすいた」

「そうだね」


 彼女が立ち上がって、鞄を肩に掛ける。


 私は伸びをして、ゆっくりと腰を上げる。


 変な体勢で寝ていたからだろうか、背中が少し痛い。


 教室を出ると、廊下はしん、としていた。

 いつもは人々の話声や物音で煩いが、今は私と朱里以外誰もいない。

 もう六時だし、部活動生以外で学校に残っている生徒はほとんどいない。


「静かだね」


 私は彼女に言ったが、隣にいるはずの彼女は、教室の入り口の前で突っ立っていた。


「朱里?」


 私は振り返って、彼女に声をかける。

 彼女は少しばかり俯いていて、その仕草は幼い日の彼女を連想させた。


「どうしたの」


 彼女は何かを一人で抱えこもうとしている時、よくこんな表情をしていた。


 私は彼女の顔を覗き込むようにして、目を合わせた。

 その眦には少し涙が浮かんでいるような気がする。


 何か悪いことしたかな、と途端に不安になる。


 それを彼女に聞こうとしたところで彼女の口が開かれた。


「あのさ」

「うん」私は頷く。

「ご褒美って言ってたの、覚えてる?」


 彼女は俯いたまま、私に問う。

 そういえば、そんなことも言ったな。


「覚えてるよ、もちろん。まだ聞いてなかったね。何がいい?」


 わざと少し明るい声を作って、彼女に尋ねる。


 すると彼女は、右手を少し持ち上げた。だけど行き場を失ったそれは、そのまま自身の後頭部に不時着して、首筋を通って元の位置に戻った。


 そしてもう一度それは持ち上げれて、弱弱しく、軽く押したらまた戻ってしまうくらいの勢いで、私の方に差し出された。


 すぐにはそれが何を意味するか分からなかった私は、差し出されたそれを見ながら、小さく首を傾げる。


 だから、と彼女は言う。


「手、繋いで帰らない?」


 その言葉に、どくん、と心臓が跳ねた。


 手を繋ぐという行為は、あの頃の私たちのことを否応なく連想させる。


 私は彼女の目を見つめる。


 だけどもちろん私に、彼女の申し出を断る理由はない。

 私と彼女は友達だ。

 友達同士でも、手を繋ぐことくらいはあるだろう。


 私は笑顔を作って「いいよ」と言って、左手で彼女の右手を取った。




 

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