第41話 ご褒美あげようか
夢を見た。
その世界の中で私は小学校六年生の時の姿、アキは高校生の姿だった。
二人で、私の部屋の中にいた。
部屋のカーテンは少しだけ空いていたが、日の暮れて薄暗くなった世界では彼女の顔はぼやけてはっきりと見えなかった。
私はベッドの上に座っていて、彼女は床の上、私の座るベッドの側面に背中を預けるようにして座っていた。
薄い暗がりの中で、私は彼女に向けて手を伸ばす。
大人になった彼女は、小学生の頃よりも落ち着いた雰囲気を漂わせている。
その輪郭を確かめるように、私はゆっくりと指先で触れる。
髪に手櫛を通し、梳るようにして何度も彼女の髪をなぞる。
それを一房手に取って、鼻先を近づける。
何度も、数えきれないほどに嗅いだ彼女の匂いが、私の鼻腔を満たしていく。
「なにしてるの?」
彼女のその声は、なぜだか私に向けて放たれたものではないような気がした。
だから私は彼女の髪から手を離して、その向こうの耳に触れた。
つまんで、ねじって、耳たぶに親指の爪で後を残した。
「痛いよ」
不満を隠さない声で、彼女は言う。
今度はちゃんと、私に向けられたもののように感じられた。
よかった、と思う。
「なんなの、さっきから」
彼女は振り返って、私の方を見る。
彼女の姿の輪郭がぼやけている。
かち、かち、という秒針の音がやけに大きく響いていた。
お母さんも実里も家の中にいるはずなのに、その声も生活音も全くしない。
世界に彼女とふたりっきりみたいだった。
「ううん」私はこつん、と彼女の頭に後ろから額をぶつけた。「なんでもないよ」
「変なの」と彼女は呟いた。
それから彼女の首許に顔を寄せて、先ほど爪痕をつけた部分に唇をつけた。
彼女は驚いたように、くすぐったそうに身をよじらせて、再び私の方を向いた。
その動作に合わせるようにして、今度は彼女の唇に私のそれをあてる。
一瞬で離して、私は彼女の顔を覗き見る。
「驚いた?」
私はにやっと笑って言う。
すると彼女は立ち上がり、左手で私の肩を掴んで押し倒した。
小学生と高校生。身長差がある。
私より大きな体が、私の上に乗っている。
「わ」
小さく声が漏れる。
見上げるような形でみた彼女の顔は、私を睨みつけているようにも見えた。
やりすぎたかな。いきなりキスする、なんて。
そう思って「ごめん」と呟き、彼女の制服の裾を摘まむ。
だけど彼女は黙ったまま私の腰のあたりに腰を下ろして、私の脇腹に手を当てた。
彼女が不意に、上半身を私の方に倒す。
びっくりして目を瞑る。
彼女の顔は、どうやら私の胸の上にあるようだった。
それが、服の上の感触からなんとなくわかった。
ゆっくりと目を開けて私が、「何してるの?」と問うと彼女は、「心臓、早くなってる」と言った。
「そりゃあね」
「なんで?」
「そりゃあ、急に押し倒されたらびっくりするよ、普通」
私は言い訳するように呟く。
「本当に、それだけ?」
「どういうこと?」
彼女は、私の質問に答えない。
ゆっくりと顔をあげて、私の目を見つける。
私は目を逸らす。
気づけば息を吸うのを忘れていた。
薄く息を吸って、吐く。
脇腹に添えられたままの彼女の手が、ゆっくりと私の制服の下に潜り込もうとして――。
目が覚めた。
背中が少し汗ばんでいる。
時計を見ると、五時半を少し回ったあたりだった。
起きて学校へ向かう支度をするには少し早い。
私は充電ケーブルからスマホを引き抜いて、昨日寝る前に見ていた動画の続きを再生した。
……だけど、内容はほとんど入ってこない。
理由はわかっている。
さっきまで見ていた夢のせいだ。
夢のくせに、やけに鮮明に残っている。
最近、こういう夢を見ることが増えた。
こういう夢とはつまり、アキにまつわる夢た。
長い間抑圧されていたものがこういう形で出てきているのかもしれない。
単純に私が彼女のことを考えている時間に比例しているだけかもしれないけれど。
まあ、理由はなんでもいい。いずれにしても私としてはいい迷惑だ。
小学生の時の私たちは、少し危なかった。
児戯の延長のようなキスを、私たちは何度も重ねた。
私は彼女に触れて、存在を確かめて、唇を求めた。
それはたぶん、正常でも健全でもなかった。
だって普通の関係性ならば、恋人でもない限りキスなんてしない。
私たちはただの友達で幼馴染で、それだけなのだ。
だから私は、あの時のそういう思い出は、記憶の底に封じ込めた。
抽斗に鍵をかけて、名前をつけて閉じ込めた。
だって私が彼女と再会して、正常な関係を構築しようとするのならば、それにこの記憶は不要だ。
そう思っていたのに、その思いに反して私の脳は、勝手に抽斗の鍵を開けてその思い出を引きずりだして再生する。
そういう自分は嫌だと思う。
なんだかはしたないような気がして。
私が望むのは、現状維持だけだ。
欲をかいて、せっかく手に入れた今の均衡を壊してしまうくらいなら、こんな気持ち封じ込めてしまう方が楽に決まっている。
二度寝できるような時間でもないから、仕方なく私は体を起こした。
固まった体をぼきぼきと捻って、大きく伸びをしてから、私は一階へと下っていった。
中間テストの結果が返ってきた。
国語や英語など、勉強しなくてもある程度自力でどうにかなる教科はよかったが、理系科目はもう散々だった。
物理基礎に至っては赤点だった。
なんとなくそんな気はしていたけれど、実際にとってみると変な感動があった。
ああ、これが世に言う赤点か、と。
小学校のテストでは赤点なんてありえなかったし、中学校ではそれなりに勉強していたから赤点までは取らなかった。
だけど高校に入って勉強する目的がなくなった今、こうなってしまうのはある意味当然であった。高校の勉強は難しい。
アキにそのことを話すと、「馬鹿じゃん」と怒られてしまった。
「まあ、私が悪いから、返す言葉もないんだけど」
学校帰りに私が誘って寄ったカフェで、アキはフラペチーノを啜りながら大きなため息を吐いた。
「ほんとに勉強しなかったの?」
「うん。なんとかなると思ってたんだけど、よく考えたら何とかなるはずなかった」
「なにそれ」
「本番になって気づいたんだけど、私公式の一つもまともに覚えてなかったんだよね」
「なにやってんだか」
はあ、とまた大きくため息を吐いた彼女を横目に、私も彼女のものとは違う色のフラペチーノを啜った。
こうやって学校帰りに、彼女と寄り道する日が増えた。
アキから誘ってくれることはあまりないけれど、私が終礼後に彼女の教室に寄って誘えば、彼女がその誘いを断ることはほとんどない。
私が一回一回どれだけの勇気をかき集めて彼女を誘っているのか、彼女は知る由もないだろうけど。
行く先はさまざまだ。
この前みたいに図書室に向かう時もあれば、駅前の商業施設をぶらぶらすることもあれば、こうしてカフェやファストフード店で駄弁るだけの日もある。
「それで、救済措置みたいなのはあるの?」
「一応、追加課題提出したら許してくれるって。テスト、結構難しく作ってたらしくて、私のほかにも何人か赤点だった人はいたみたい」
「へー。提出期限は?」
「来週末まで」
「いけそう?」
「無理そうだね」
私はもう一口フラペチーノを啜った。
甘い香りが舌に絡まる。
「どうすんのさ」
「さあ」
なぜだかわからないけれど、どうにかなるような気がしていた。
テスト前の感覚に似ている。
さすがに卒業単位がかかっているのだから、未来の私が頑張ってやってくれるだろうという根拠のない自信。
今はしなくていいやと言って先送りにして、それが期限の日まで続くのはなんとなく目に見えているけれど、それでもやる気が起きない。
私ってこんなに怠惰だったっけ、とは思うけれど、モチベーションがないんだから仕方ない。
「さあって、なんで他人事みたいなの」
中学では、周りから浮いてしまわないようにそれなりの順位を維持しようとしていたし、受験先を決めた後では、アキと同じ高校に行きたいというそれだけで必死に勉強していた。
その反動だろうか。私の中の勉強するための燃料が、尽きてしまったようだった。
「なんかさ、やる気が起きないんだよ」
「やる気とか言ってる場合じゃないでしょ。留年だよ、出さなかったら」
「そこまでじゃないよ。なんとかなるって」
「そうかもしれないけど。最初のテストなんだから、少しでも先生の心証よくしといたほうがいいと思わない?」
彼女は相変わらず、そういう立ち回りが上手い。
私も昔よりは改善したけれど、そういう打算でわざわざしたくないことをするのは苦手なままだ。
「まあ、そうだけど。赤点取った時点でもう遅いかもね」
「それはそうかもだけど。最低限さ」
「まあ、やるよ。いつかさ」
私は下の方に残って、ホワイトクリームと混ざり合ったそれをストローでかき回す。
店内では私たちのほかにも何人かの人がいる。
一緒の高校の生徒もいるし、別の高校の生徒もいる。
大学生か社会人か、気難しい顔をしてパソコンとにらめっこしている人もいる。
色んな人たちの声や店内のBGMや作業音が混ざり合って騒めきになって、私の鼓膜を揺らしていた。
その中を突き抜けて、アキの声が届く。
「じゃあさ」彼女はにやっとした笑みを浮かべて、私の目を見つめている。
なに、と首を傾げて言おうとした瞬間に、彼女は私に告げた。
「ご褒美あげようか」
※ ―――――――――――――――――――――――――――――――――― ※
いつも読んでいただき、ありがとうございます!
最近は三日に一度のペースで投稿させていただいていたのですが、実生活との兼ね合いもあり、これからの投稿は不定期になると思います。
週に一回のペースを目途に投稿していきますので、これからもよろしくお願いします。
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