第40話 図書室、微睡み
中間テストの二日目。
テストのある日は午前中で授業が終わるから、私は午後からの時間を持て余してしまう。
もちろんそれは翌日の教科を対策するための時間で、そのために使われることが前提なのだろうけど、素直に勉強する気にはなれなかった。
私は、別に成績にはこだわらない。
そもそも私は、アキと同じ学校に通いたい一心で勉強してきたのだ。
その目標が達成された今、私に勉強を頑張る動機など何一つなかった。
早崎さんは現社の用語を詰め込まないといけないからと言って、三十分くらい私と教室でおしゃべりをした後に帰ってしまった。
クラスの他の友達も同様に、テスト勉強のために早めに帰ってしまった。
アキは――わからない。
この前私の家に泊まってから、彼女との距離は少しだけ近づいたと思う。
だけどテスト期間にわざわざ時間を奪うような真似をする気にはなれなかった。
このまま家に帰ってもいいのだが、どうせ帰っても実里もお母さんもいないはずだ。一人でいても惰眠を貪ったり動画を眺めたり、そういうことに時間を浪費してしまうのは目に見えていた。
せっかくの平日の昼間からの時間なのだから、有意義に使いたい。
私はどこに向かうか少し考えて、図書室に行くことに決めた。
この高校に入ってからはまだ一度も図書室に行ったことがなかったからだ。
中学校では、図書室にはそれなりにお世話になっていた。
当時の私にとって図書室は、学校での数少ない私のオアシスだった。
対人関係に疲れた時は、誰にも言わずに私は図書室で時間を過ごした。
図書委員の女の子や、司書の先生とは少し話したりするくらいの顔見知りになっていたものだ。
私は引き出しの中の教科書を鞄に仕舞い、使わない分は鞄棚に預けて教室を出た。
図書室は一階の端にあった。
がらがらと扉を開くと、古い本の放つあのカビと芝生の入り混じったような匂いが私の鼻腔を満たした。正面にはカウンターがあって、左手に書架が広がり、右手にはL字に広がるようにして本を閲覧するための机が並んでいる。
室内には数人の生徒がいたが、テスト期間ということもあってか、そのほとんどはテスト勉強をしている者達だった。
そしてその中に、私はひとり見覚えのある生徒を見つけた。
その生徒は腕を机の上に組んで、そこに頭を乗せて眠っていた。
下にはノートが敷かれており、その隣には教科書が開いてあることから、勉強したまま眠ってしまったことが窺えた。
顔は見えないけれど、雰囲気や容姿からそれが誰であるかはすぐにわかった。
私は彼女が座っている席の対面に鞄を置いてひとまず席を確保した。
書架の方へ歩いて、とりあえずおもしろそうな本を探しに行く。
興味のなさそうなジャンルの書架でも、一応は物色しておく。
世界の協会の写真集や、教科書にも載っているような有名な詩集があった。
それらを横目に、書架の間を練り歩く。
一日で一冊の小説を読み終えるのは無理がある。そう思って私は、手ごろそうな短編集を一つ手に取った。
席に戻っても、アキはまだ寝ていた。
このままじゃ腕にシャーペンの跡が残ってしまいそうだけれど、それは彼女が悪いから仕方ない。
起こしてしまおうかとも思ったけれど、ぐっすりと眠って起きる気配もない彼女を起こすのはなんだか躊躇われた。
仕方がないから彼女は放っておいて、私は本を開いた。
内容は、いろいろな大人たちが回想する、在りし日の夏についての短編集だった。
それぞれが思い返す、夢と現実の狭間のようだった日々。
裏山の神社、プールサイド、夏祭り、幽霊の少女。
ひと夏の出会いと別れ、それぞれの思い出に焼け付いた美しい記憶。
そういうテーマについて描かれた物語が五編収録されていた。
二本ほど読み終わったところで、私は首をあげて少し凝った目と肩をほぐした。
何の気なしに辺りを見回す。
木の葉の隙間から差し込んだ陽光は、少し曇ったガラス窓を通して床に浮島を作っている。その浮島は水面に反射しているみたいに細やかに揺れ、絶え間なく形を変えていた。
一方依然として目の前の彼女は、死んでしまったみたいに眠っている。
薄い呼吸によって上下する背中が唯一、彼女が生きているということを伝えていた。
――昔から彼女は、眠ることが好きだった。
私の家に遊びに来た時も、居間の炬燵に入ってよく眠っていた。
私はその隣で、こっそり彼女の寝顔を眺めたり炬燵の中で彼女にちょっかいをだしたりしていた。
懐かしいな。
これからまた、私はあの頃みたいにアキに近づけるのかな。
……果たして彼女はそれを、許してくれるのかな。
私は上体を机に倒して、腕の上に顎を乗せてアキを見つめた。
少し手を伸ばして触れてみようと思って、ここが学校の図書室であるということを思い出す。
周りにいちいち私たちのことを気に留めている人なんていないだろうけれど、私は寝ている人に人目を憚らず触れられるほどの怖いもの知らずじゃない。
黙って見守るに留める。
呼吸に連なって緩やかに揺れる肩。微かな誰かの話し声や、古い本の匂いが作り上げる穏やかな雰囲気。
――そんな中で彼女を眺めていたら、つられて私の瞼も少しずつ重くなってくる。
まだ日は高い。もし眠ってしまったとしても閉館まで眠ってしまうことはないだろう。
三十分くらい、寝てしまってもいいかな。
私は本を閉じて横に置き、机に突っ伏して静かに目を瞑った。
肩をつんつんと突かれる感触がして、私は目を開いた。
眼球が腕で圧迫されていたからか、左目が少しぼやけていた。
その目を人差し指で軽く擦りながら、私はゆっくりと顔をあげた。
「おはよう」
アキが、私の目を見て笑いかけていた。
その声は、最小限まで音量が抑えられていた。
なんで彼女が私の目の前にいるんだろうと考えて、私が眠る前のことを思い出す。
私もアキの声量に合わせて、声を抑えて答える。
「おはよう」
自分の出した声は、寝起きで喉が詰まっていたのか思ったより潰れていて、私は「んっ」と小さく咳払いをした。
それに構わず、アキは続ける。
「いつ来たの?」
アキに問われて、私は壁に掛けられた時計に目をやる。
終礼が終わったのが十二時前くらいで、そこから早崎さんと三十分くらい話していたから、ここに来たのは十二時半くらいのはずだ。
今は十四時を少し回ったくらいだから、私は一時間半くらい眠っていたことになる。
――春眠暁を覚えずとはいうけれど、想定よりだいぶ長く眠ってしまったんだな。
「十二時半くらいかな。アキは?」
「私は、終礼終わったらすぐに来たよ」
「じゃあ、ここにきてすぐ寝たんだね。眠かったの?」
「……うん。今日の物理基礎の勉強、やばくて。あんま寝てなかったから。ちょっと勉強する前に仮眠とろうと思ったら」そう言って、彼女はため息を吐いた。「この時間だった」
彼女の顔を見ると、額には赤い跡ができていて、彼女もついさっき起きたのだということがわかった。腕にはやっぱり、シャーペンの跡が付いている。
「よく来るの? 図書室」
「まあまあ、かな。家に帰っても暇だからさ。放課後はたまにここで時間潰してる」
「そうなんだ」
「朱里は何しに来たの?」
「私は、午後から暇だったから、行ってみようかなって思って」
「テスト勉強はしなくていいの?」
「私は別に成績こだわらないから。赤点じゃなかったらいいよ」
「気楽なもんだね」
「アキは、頑張ってるんだ」
「いや、別にそう言うわけじゃないけど」彼女は少し口ごもった。「まあ、お父さんを心配させないくらいの成績は取っときたいから。ほら、私一人暮らしだし」
一人暮らし、と聞くとなんだか少し大人っぽい印象を受ける。
一人で暮らす、なんて今の私には全く想像できないけれど、それを彼女は平気な顔をしてやっているのだからすごいと思う。
「ご飯とか作ってるの?」
「疲れた日とかはしないけど、普段はできるだけしようとしてるよ」
「へえ。すごい」
「別に。バイトもしてないからさ、できるだけ節約しないと」
「偉いね」
私は彼女に手を伸ばす。
彼女と仲直りできてよかったと、こういう時に思う。
触れたとしても、友達だから普通のことだ、という言い訳がある。
友達、という言い訳もそこまで万能ではないだろうけれど、彼女はこの前私に自分からハグしてくれたから、私と触れ合うのが嫌じゃないのだろうということはなんとなくわかっていた。
彼女の頭を数回撫でる。
えらいえらい、と茶化すように言う。
彼女は犬がそうするように、ぶるっと頭を振って私の手を払った。
「アキ、これからどうするの?」
私はおとなしく手をひっこめて尋ねる。
「どうって? 勉強するよ」
「何の教科が不安なの?」
「数一」
「それが終わったら?」
「普通に帰るけど」
「じゃあ、どっか寄ってこうよ」
「どっかって?」
「なんか、カフェとか?」
「別にいいけど」
「じゃあ、決まりね」
私はそばに置いたままの本を手に取って、続きの物語を読み始めた。
アキは問題集を開いて、テスト範囲の問題を解き始めた。
私はそれを横目に、あ、あの問題わかんないな、なんてぼんやりと思った。
まあ、どうにかなるだろう。
記号問題も少しはあるだろうし。
日が強くなってきたからだろうか、少しして遠くから司書の先生と思われる人物が歩いてきて、私たちの近くの遮光カーテンを閉め始めた。
秘密基地みたいに薄暗くなった世界は、本を読むふりをして彼女の顔を盗み見るにはちょうど良かった。
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