第39話 独白3
入学式を迎えた。
緊張でほとんど眠れなかった。
目の下にはうっすらと隈が浮かんでいた。
それだけでとても憂鬱で、それが変わるわけでもないのに私は何度も鏡で自分の顔を見た。
どこで鉢会うかわからなくて私はずっと気を張っていたのだけれど、校門をくぐって早々、目的の人物の横顔を視界にとらえた。
すぐにわかった。
受験の日に見た姿はやっぱり彼女だったのだと、改めてわかった。
肩甲骨のあたりにまで伸ばされた黒髪。くりっとして人懐っこい印象をしていた目は、昔より落ち着いた印象を与えるものにかわっていた。
クラス編成表の貼られた看板を見上げるその目から、不意に冷ややかなものを感じて私はどきっとする。
彼女の姿をぼうっと見つめていると、彼女が校舎の方に向かって歩き始めてしまった。
何かに押されるようにして、私は左足を前に出す。
「アキ」
気づけば、私は彼女の名を口にしていた。
彼女が振り返る。
私と目が合う。
彼女の瞳孔が、少し開かれたように見えた。
私は自分が声を出していたことにはっと気づいて、繕うように「アキ、だよね」と繰り返した。
目があったまま、お互いに動けないでいた。
もしかして、私のことなど忘れてしまったのだろうか。
一瞬そんな思いが脳裏を掠めたところで、「え、朱里?」と言う彼女の声が聞こえた。
名前を、呼んでもらえた。
その事実に、頬が赤くなっていくのを感じた。
「うん」私は言う。「久しぶり」
本当に、久しぶりだ。目の前にアキがいる。その情報量のだけで、私の頭の中は破裂寸前だった。
私が近づこうとしたところで、アキが言う。
「久しぶりって……。なに」
そしてその声の冷たさで沸騰していた私の脳は急速に冷やされ、意識が現実に戻される。
彼女の顔を見た時に、私の過ちを自覚した。
悲痛と困惑が入り混じったような顔をしている。
ああ、またやってしまった。
私は、彼女を傷つけたのに。そのことを棚に上げて、どの口が何を言っているのだろう。
のうのうと、久しぶり、だなんて。
それから先は、よく覚えていない。
一言二言、何か話した気がする。
上手く話せたのだろうか。
確かその後彼女は、足早に校舎の方に向かって行ってしまった気がする。
いずれにしても、気づいたら私は自分の教室にいて、彼女は隣の教室にいる。
だから、一緒に教室へは向かわなかった。それが答えなのだろう。
私は一番大切な彼女との再会を、こんな最悪の形で迎えてしまったのだった。
だけどそういうことがあっても、私は彼女に話しかけるのをやめなかった。
一度彼女と接触するのをやめてしまうと、私の性格上おそらく二度と話しかけることができないだろうことはわかっていた。
だから最初から彼女と関わる習慣みたいなものを作っておきたかった。
それに彼女は、想定よりも私に対して友好的だった。
再会の形は最悪だったけれど、ともあれアキの私への対応は悪いものではなかった。
たとえ彼女が私のことを全面的に無視したり、私との会話を拒否したりしてもしかたないくらいのことを私はしたけれど、アキは私が話しかけたら返事はしてくれたし、たまに笑いかけてくれることもあった。
廊下ですれ違う時や、選択授業で同じ教室になった際に、挨拶したり軽く話しかけたりした。
彼女から話しかけてくることはほとんどなかったけれど、私はそれで全く構わなかった。
いきなり打ち解けられるなんて思い上がりもいいところだし、アキから話しかけてほしいだなんて高望みも甚だしい。
私は彼女と会話ができて、その声が聞けるだけで嬉しいのだから。
しばらく私は、そうやってアキとつかず離れずの距離を保っていた。
彼女は、私という存在をどう扱うべきか決めあぐねているようだった。
入学してから少し経って、体育の授業で体力テストがあった。
隣のクラスの人とペアを組むことになって、偶然にもそれがアキとだった。
体力テストで体を動かしたからか、私たちの物理的な距離が近づいたからかはわからないが、あの時彼女はいつもよりたくさん話してくれた。
髪の色の事とか、私の事とかを彼女は口にした。
突然のことで、私はとっさにその答えがでなかった。
ほかの、どうでもいい人から言われたのならもう少し上手く返せると思うのだけれど、彼女を前にすると、どうも上手く言葉を紡げない。
でも、これでも以前よりはだいぶましになったと思う。
私のクラスの友達と、アキの友達と四人で行動して、それ以来時々昼食を四人で食べるようになった。
アキも時々に話しかけてくれるようになった。
中間テストが近づいていた。
私は、おそらく一緒のクラスだと思われるの男の子から校舎の裏に呼び出された。
それが何を意味するかはわかっていた。
答えも決まり切っていた。
断るのは憂鬱だった。
一方的だとはいえ私に向けられた好意を無下にするのは多少なりとも心が痛むし、その話が教室という狭い社会の中では、ウイルスのように空気を汚染していくのを私は経験から知っていた。
第一、私は好きな人がいるのだ。
好きな人と仲良くなろうと私はゆっくりと歩みを進めているのに、そういう過程をすっ飛ばしていきなり告白だなんて、私にはできない。
その無鉄砲さが、私には少し羨ましかったのかもしれない。
私は彼に思ったより強く当たってしまった。
言ってから少し取り繕う言葉を発したけれど、そんなのは何の言い訳にはならない。
彼は悲痛な顔を浮かべていた。
好きな人を想う気持ちに貴賤も善悪もないはずなのに、それは私が一番わかっていたはずなのに。
そして、その場面をアキに見られていた。
おそらく何を話したかはわかっていないはずだけれど、校舎裏に男女が二人という状況は、何があったかを雄弁に物語っていた。
私は動揺して、頭が上手く回っていなかった。
それなのに、アキは私たちの間の核心をつく話題を口にした。
また、上手くは答えられなかった。
いつもそうなのだ。いつも私は言葉が足りないのだ。
その時のアキの表情は、私が見たことのある彼女の表情の中で、もっとも感情にあふれていた。
高校に入ってから、私は初めて彼女の感情に触れた気がした。
彼女は気色ばんで、私に説明を求めた。
彼女が、そこまで感情を露わにするのは初めてで、私は驚いてしまった。
でもそれは、自分自身のためというよりは、私のために怒っているように見えた。
「説明してよ」と彼女は言って、言葉が足りないと私に言った。
私もそれをわかっていたけれど、すぐにすべてを言葉にまとめるのは不可能だった。
「少しだけ時間が欲しい」と私は言った。
いつも間違ってばかりだけれど、ここで間違ってしまったら、もう元には戻れない気がしていた。
私は、幼い頃いつも遊んでいた公園で彼女を待った。
本当は、もっと早く話すべきだった。
きっかけをくれたのは、今回も彼女からだった。
彼女が隣のブランコに座って、私は話し始めた。
ただ、全部本当のことを話せたわけじゃない。
私の彼女への気持ちの事は、話せるようなことではないから、別の理由で代替した。
その理由も、特段嘘というわけでもなかった。
多少の脚色を加えて、前後の整合性をそろえた。
本当のことを話したら、それはもう告白と同義だ。
それに、そうやって作った話だからこそ言える本当のこともあった。
私の話を聞いて、彼女は私に問うた。どうしたい、と。
仲良くなりたい、友達でもなんでも。と私は嘘をついた。
本当になりたい関係は別のものなのに、私はそれに蓋をした。
自分がこの気持ちをどうしたいのかわからなかった。
成就させたいわけじゃない。
それが叶わない気持ちだというのはわかりきっている。
この気持ちはどこにも行けない。
私と彼女はかつて親友だった。でも今じゃそれだけだ。
彼女は言ってくれた、言葉の数々。
泣いてしまいそうなほどうれしかった。
でも、その言葉の先にあるのは親友という関係だけだ。
別のものには、なりようがない。
だから、どうしようもない。手詰まりなのだ。
彼女は、私を許してくれた。
その理由を、いつか私は聞きいてみたいと思う。
なんで、彼女はこんなにも優しいんだろう。
だけど今は、彼女とまた仲良くできるという現実に浸っていたいと思う。
私は笑顔を作って、「よかったー」と言った。
彼女の話が聞きたかった。
彼女ともっと話がしたかった。
私は、彼女を家に来ないかと誘った。
正直、ほんとに来ると思っていなかった。
お母さんには一応断っておいたけれど、勝率は低いだろうと思っていた。
だけど、彼女は来ると言ってくれた。
お母さんと実里にはたくさん迷惑をかけたから、そのうちにでもちゃんと謝らなければならないと思う。
お母さんはわかってくれているけれど、実里には悪いことをした。あいつはアキに懐いていたから。
アキを連れて家に入った。お母さんとアキは再会を心から喜んでいるようだった。
実里も少し済ました顔をしていたけれど、嬉しそうな表情は隠しきれていなかった。
話していても、黙っていても、やはり彼女の隣は居心地がよかった。
お風呂上りに、部屋から実里とアキが話しているのが聞こえてきた。
聞くべきじゃない、そうはわかっていても私はその場から立ち去ることはできなかった。
立ち聞きしているのを、実里にばれてしまった。
アキも、きまりの悪そうな顔をしていた。
結局少し話をした後に、アキは仲直りのハグと言って、私をぎゅっと抱きしめた。
彼女に触れたい、その希望が図らずとも叶った瞬間だった。
私の頭はすぐに沸騰した。
こういうのが続くなら、友達のままでも悪くないな、なんて思ってしまった。
でも一方で、こういうコミュニケーションの取り方が彼女の友人関係のデフォルトなら、他の友達のもこういうことをしているのかと不安になった。
もしそうなら、嫌だな。
その場面に立ち会ったりしたら、きっと私は耐えられない。
アキがお風呂から帰ってくると、彼女はすぐに寝ようとした。
私はてっきり、修学旅行の夜みたいにおしゃべりするのかと思っていたから、彼女にはまだ寝てほしくなかった。
でも彼女は本当に眠たいらしく、仕方ないから私は幼い頃に聞かされていた子守歌を歌った。
暗闇の中で、彼女の綺麗な寝顔がぼんやりと見えた。
歌っていたのがディズニーの歌だったからかはわからないが、突然眠れる森の美女の有名なシーンみたいに、彼女の唇にキスを落としてしまいたいという衝動に駆られた。
彼女がゆっくりと口を開いて、私は我に返った。
私が何を星に願うのかと問われて、私は現状維持だと嘯いた。
私は感じていた衝動から目を逸らす。
彼女のおやすみと言う声に
「おやすみ、また明日ね」
と返して、私はベッドに戻った。
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