第35話 どうせ何言っても変わんないでしょ

 座ったら、と言うと朱里はゆっくりと私の前に正座をした。


 私はベッドに座ったら、というつもりで言ったのだけれど、朱里が座ったのは私の目の前だった。


 気まずそうな表情は変わっていない。


「ごめん、なんか、趣味悪いことしちゃった」

「いや、こっちこそ、なんかごめん。……どっから聞いてた?」


 私が問うと朱里は、目を伏せたまま答えた。


「私が、別人に見える時がある、みたいな」


 ……よりにもよって、一番聞かれたくない部分だった。


 ちょっと気まずいな。


 でも、たぶん昔の朱里だったらここで追及してきただろう。


 あれはどういう意味だったの?

 他に何の話してたの?


 そう言って朱里は、感情に乏しい顔をして私に尋ねてきた。


 だけど目の前にいる朱里は何も言わない。


 空気を読む。


 だからこそ落ち着かない。


 私は彼女に追及されたら全部話してしまう用意があるのに、彼女は何を言うべきか迷っている。


 彼女がこの部屋に入って来てからずっと、彼女と目が合っていない。


「……聞かないの? 話してたこと」


 私は腹を決めて、彼女に尋ねる。


「聞かないよ」

「なんで?」

「だって、……聞くべきじゃないでしょ」

「聞いてもいいよ」

「聞かない」

「なんで?」

「聞きたくないから」


 ――これじゃまるで埒が明かない。


 私は聞いてほしい。


 朱里に空気を読んでほしいなんて、私は望んでない。


 私の知っている彼女は、少なくともそういう性格じゃなかったはずだ。


 俯いてしまって目が合わない朱里の頬に手で触れて、私の方を向ける。


 すると彼女は少し目を見開いた。


 彼女に触れて、腕一つ分の距離感でいると、かつてのことを思い出す。


 首許に触れて、耳許に触れて、口許に触れた。


 そうやって私たちは触れ合って、そのぶんだけ分かり合った。


 思い出さないように記憶の底に沈めた三年前の記憶。


「私にはさ、別に気使ったり、空気読んだりしなくていいんだよ」


 朱里の目は不安げに揺れていて、私は何を言うでもなく小さく大丈夫だよ、というように頷いた。


「私はさ」


 数秒の数秒の沈黙の末に、朱里が小さな声で呟く。


「怖いんだよ。私がこんなこと言うのはお門違いなのはわかってるけど……。でも、思っちゃうんだよ。せっかくまた手に入れたんだから、繋ぎとめておきたい。……嫌われたくないなってさ」


 言い終えると、私の掌の中で彼女はまた俯く。


 私の言葉を待っているのかもしれない。


 私は何も言わずに、彼女の頭に手を置いた。


「大丈夫だよ、私は」


 そのままくしゃくしゃとその頭を撫でる。


 彼女が顔をあげられないように少し力をこめる。


 たぶんどんな言葉でも、私の心の中すべてを言い表すことはできない。


 四角い箱の中を、球体だけで埋めようとするようなものだ。


「朱里が何訊いても、嫌いになったりしないから」


 私が朱里にそう告げると、朱里は私の手を取って自分の膝の上に置いた。


「ごめん、私。めんどくさくて」


 ぼそっと、朱里は呟く。


「ほんとにね。めんどくさいなあ」


 本当のことを言えば、彼女に対しての不信感や疑念は消えていない。

 だけどそれはそれとして、それがいきなり嫌いという感情に繋がるかといえば、答えは否だ。


 朱里の膝の上にある私の手の人差し指を、彼女は手持無沙汰に触っている。


 そうしながら突然彼女は、「あのさ」と呟く。


「なに?」

「聞きたいこと、いい?」

「いいよ」

「実里との、話の事じゃないんだけど」

「別にいいけど」


 彼女はその指の動きを止める。


「入学式の日、私と会って、どう思った?」

「どう、っていうのは?」

「第一印象、的な」


 私はあの日のことを思い出す。


 あの日のことは、よく覚えている。


 ――綺麗だと思った。


 最初誰かわからなくて、私は馬鹿みたいに見惚れていた。


「綺麗な子だなって思ったよ。最初誰かわかんなくてさ」

「かわいかった?」

「そりゃあ、まあ。てか、そう言ってんじゃん」

「なら、よかった」


 彼女の頬にうっすらと赤みが差した。


「照れてる?」

「照れてない」

「ていうか、訊きたいことって、それ? 私がさっき実里ちゃんと話してたこととは?」

「それは……」


 朱里はそうして少し口ごもってから、謝るように言った。


「いいや。本音言うと、やっぱりちょっと怖い。アキが私のこと嫌いにならないってわかってても、知りたくないって思っちゃうから」


 ――そっか。


 だったら私にもう言うことはないな。

 聞くことを強制する必要はない。

 聞くか聞かないかなんて結局は朱里が決めることだし、聞かれなかったことにどこか安堵している自分もいる。


 なんだかんだ私も少し怖かったのだ。


「もう、聞きたいこと、ない?」


 私は、彼女の顔を窺いながら問いかける。


「うん。大丈夫」


 朱里はぽりぽりとこめかみのあたりを掻く。


「そっか。わかった。……でも、ごめんね、朱里。こそこそ内緒話みたいなことしてさ」

「ううん」


 朱里はふるふると首を横に振る。


「別に、嫌な話してたわけじゃないじゃん」

「だけどさ、よくないことしたのは事実だから」

「別に、気にしてないよ」

「それでも。ごめんね」


 話が一段落したところで、私は朱里に代わってお風呂に向かおうと立ち上がる。


 だけど袖が引っ張られるような感触がして目をやると、朱里が私の制服の袖を摘まんでいた。


「どうしたの?」

「や、あの」と、彼女が呟く。「別に、大したことじゃないんだけど」


 そう言う彼女の目は、言葉とは裏腹に切実なものを孕んでいた。


「言いなよ」


 促すと朱里は、言いにくそうに口元をまごつかせながら呟いた。


「これで一応、仲直りできた?」

「……私はとっくに、そのつもりだったよ?」

「ほんと?」

「ほんとだって。信じられない?」


 私が問うと、朱里は、「そう言うわけじゃないけど」と呟いた。


 朱里はそう言うけれど、本当そう思っていないのはその態度から明らかだった。


 なにか、きっかけのようなものがあればいいのだけれど。


 少し考えてから私は、床に座ったままの朱里の傍らに腰を下ろした。


 何事かと驚いた顔をしている朱里を無視して、私は彼女の体を私の方に向けさせる。


 そしてそのまま、薄い背中に手を回すようにして、私の両手で彼女の体を包んだ。


「え、なに、これ」


 呟く彼女に、私は平静を装って言う。


「なにって。仲直りの証だよ」


 朱里の感触や匂いを感じてだんだんと早まっていく鼓動が、彼女に伝わっていなければいいと思う。


「どうせ何言っても変わんないでしょ」


 背中に向かってそう言えば、彼女は小さく、聞こえないくらいの声量でありがと、と零した。


 そうして彼女も私の背中に手をまわす。


 そのまま彼女は、ぎゅっと力をこめた。


 同じように私も力を入れ返す。


 鼓動や、息遣いや、柔らかさや、温かさや、そういう彼女の個人的な情報が、私の中に一気に入り混んできて、私の脳を飽和させていく。


 お風呂上がりの朱里の鮮明な匂いが、私の体を包み込む。


 何か言うべきかと思ったけれど、結局私は何も言わなかった。


 それが正しかったかどうかは、体を離した後の朱里の顔が物語っていた。


 どんな感情を表すものなのかはわからなかったけれど、少なくともそれは、さっきまでの不安げな色を映してはいなかった。


 私はゆっくりと立ち上がる。


「じゃあ、私もお風呂入ってくるから」


 ぼうっとしている朱里に声をかけると、彼女は「ああ、うん。いってらっしゃい」と繕うように笑った。


 パジャマは以前と同様、彼女のものを借りた。


 身長は少し違うものの、服のサイズはほとんど変わらなかった。


 一階に降りる。


 お風呂借ります、とゆずさんに言って浴室に入る。


 壁に取り付けられた残湯量を示すメーターが、タンクの残りが少ないことを教えていた。


 一通り体を洗い終わり、浴槽に浸かる。


 はあ、と一息ついた。


 激動の一日が過ぎて、気を抜いたらどっと疲れが押し寄せてきた。


 朝朱里が告白されているのを見て、お昼に朱里は来なくて、公園で長いこと話をして、そして今に至る。


 言葉にしたらそれだけのことだけれど、いちいち考えることが多すぎた。


 おかげで、脳はもう眠ってしまいたいと叫んでいる。


 意識が浴槽に溶けだしてしまいそうだったから、仕方なく私は脱衣所へ出る。


 朱里のパジャマを着る。


 彼女の匂いが私の眠気に溶け込んだ。


 歯ブラシはなぜか私のものが用意されていて、これからはこれを使ってね、とゆずさんに伝えられていた。


 これから、がどの程度のものを指すのかはわからないけれど、それがまたあったらいいなとは思った。


 これからまた、昔みたいに仲良くできるのかな。


 それは私しだいか、朱里しだいか。……両方だろうな。


 脱衣所から出ると、ゆずさんは椅子に座って船を漕いでいた。


 その既視感のある光景に私は少し笑った。


 おそらく夕飯を終えて寝るまでの間、こうやって少しの間微睡みに身を任せるのがゆずさんのルーティンなのだろう。


 ゆずさんがこうしている姿は記憶にある。


 昔はどうしたんだっけ。起こした方がいいのだろうか。


 逡巡の末、私は肩をとんとんと叩き、「あがりましたよ」とだけ言った。


 ゆずさんはうーん、と声を漏らして、「わかった。……おやすみ」と呻くように言った。


「おやすみなさい」


 私は苦笑しながら返す。


 ゆずさんの、私に対する姿勢はありがたいと思う。


 深く干渉しようとせず、触れてほしくないことには触れないまま、数年ぶりに私が泊まりに来ても変にもてなしたりせずに、まるで私が定期的に来ていたかのように接してくれた。


 おそらく、なにがあったかは大体知っているんだと思う。


 大人が口を出すことではないと考えて静観に徹しているのか、それともただ能天気なだけなのか。


 日頃の様子を見れば後者のような気がしなくもないけど……案外ちゃんとしている人だからな。


 きっと私の考えつかないようないろいろなことを考えて、私たちのことを見守っているんだろう。


 何気なく振り返ってみると、起きたかと思われたゆずさんはまた、目を瞑り机に体を伏して眠っていた。



 

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