第36話 ちょっとだけおしゃべりしようよ
部屋に戻ると、朱里はベッドの上で眠っていた。
布団を被って眠っているわけではないから、おそらくなにかしらのタイミングで寝落ちしてしまったのだろう。
部屋の床には敷布団が敷かれている。
私の寝床の準備して、一息ついたところで眠ってしまったのかな。
起こしてしまわないように、私は足を忍ばせて部屋の中に入った。
――つもりだったのだが、朱里は僅かなうめき声とともに体を起こした。
「ごめん。起こしちゃったかな」
私が言うと、朱里は「ううん。横になってただけ」と目をこすりながら呟いた。
絶対寝ていたと思うけれど、わざわざ口には出さない。
朱里はふるふると首を左右に振って、ぼうっとした目で私の方を見つめた。
「寝てていいのに。私もすぐ寝るし」
明日も学校なのだから、どうせ夜更かしはできない。
さっきまで寝ていた彼女も、私と同様相当眠いだろう。
学校に行くためにチューニングされた生活習慣は、私たちに夜更かしすることを許さない。
布団に入った私に、朱里は言い訳するように告げる。
「や、まあ。おやすみぐらい言おうかなって」
「そっか。じゃあ、おやすみ」
あ、充電器ある? と朱里に告げれば、彼女は枕もとの充電器をコンセントから抜い、て私を覆っている布団の上に落した。
いいの、というふうに彼女の目を見れば、彼女はこくりと小さく頷いた。
「私はもう、充電終わってるから」
「ありがと」
私は手探りでそれを手に取ってコンセントに差し込み、スマートフォンに繋げた。
私は目を瞑り、眠りの体勢に入る。
すると傍で、ごそごそという衣擦れの音が聞こえた。
「待ってよ」と朱里は言う。
声がする位置からして、彼女は体を起こしてベッドの上に座りなおしたようだった。
「……アキは情緒ってものがないよ」
「情緒?」
私は目を瞑ったまま問う。湯上りで体がぽかぽかしているから、気を抜けばいつでも眠れるという確信がある。
「だって、せっかくお泊りしてるのに、お風呂入ってはいおやすみって、寂しいじゃん」
さっき充電器に繋げたスマホに手を伸ばして、軽く画面に触れる。
表示された時間は十一時半。眠りにつくには十分すぎる頃合いだ。
「でも、明日も学校だよ」私は再び目を瞑って、布団を首もとまで引きあげた。
「……そうだけど」
とん、と何かが地面に落ちた音がする。
うっすらと目を開けると、朱里がベッドから降りたことが分かった。
その行動を目で追う。
彼女は私の傍に座った。
「ちょっとだけおしゃべりしようよ」
朱里はそういいながら、私の肩をつんつんとついた。
「じゃあ、朱里が何か話してよ」
私はその指を左手で軽く払って言う。
何か話してよ。
昔もそう言って、朱里に雑談を求めた気がする。
いや、私が言われたんだっけ。忘れてしまった。
あの頃は沈黙を埋めるためじゃなくて、純粋に会話を楽しんでいた。
今の会話が楽しくないわけじゃない。ただ昔はもっと無駄なことを考えずに会話そのものを楽しめていたというだけだ。
「会話って、二人でするものじゃん」
朱里が不満を訴えるように、また私の肩を突く。
今度は私はその指を握る。
彼女の言うことにはまあ、一理くらいはあると思う。
だけど私は眠いし、それは彼女も同じはずだ。
とりあえずの仲直りを果たした今、話をすることはこの先いくらでもできるはずだし、今はこのまま眠ってしまいたいと思う。
それに、そんなに話したいなら朱里が話せばいいのに、と思う。
会話は二人でするものだけれど、話自体は一人でも可能なはずだ。
それが詭弁なのはわかっているけれど、学校で明るい人たちと仲良さげに話している彼女なら、昔と違って他愛無い話を続けるなんて造作もないだろう。
「いいじゃん、朱里。昔と比べたらさ、話すの上手になったんでしょ。友達もいっぱいできてさ。私の分まで朱里が頑張ってよ」
嫌みの一つでもいいたくなる。
性格悪いな、と自分で思うけれど、だけど私にはそれくらい言う権利があるはずだ。
「なに、その言い方。なんか棘ない?」
「別に。事実でしょ」
「いや……。まあ、そうかな」
目に見えて朱里の声は悄気る。
少し胸がちくっとしたけれど、私はそれに気づかないふりをした。
「だから、私が寝るまで、何か話しててよ」
私は寝返りを打って、朱里に背を向ける。
彼女の声は落ち着く。
内気な子供のままのようで、だけどどこか悟ったように穏やかな声。
「……まあ、いいや」彼女は少ししてから呟いた。「とりあえず、電気消すね」
朱里はベッドの傍に置かれていたリモコンを手に取って、部屋の電気を消した。
朱里は、私に話したいことがたくさんあるのだろうか。
私にも、あることはあるけれど、今すぐ全部というのは少し怖い。
公園で一通りは話したし、聞けることは聞いた。
聞かなければならないことは、もう少し彼女のことを知ってからでいいと思う。
その私の気持ちを知ってか知らずか、彼女も無理に話そうとはしなかった。
その代わり朱里は、微かな音量で鼻歌を歌った。
そうしながら、私が握っている指とは逆の方の手で、私の頭を撫でた。
その撫で方は、わがままを言って寝付かない子供をあやすときのそれのようで、私としては少し不服だった。
だけどそれはそれとして、その掌が心地よくないわけじゃなかった。
彼女の鼻歌に身を任せる。
綺麗な声だな、と思う。
話してとは頼んだものの、歌ってとは頼んでいない。
だけどそんな野暮なことを言っていられないほど、彼女の歌声は私の心を掴んで離さない。
思えば、私は彼女が歌っている場面をほとんど見たことがない。
合唱コンクールや卒業式でさえ、私は彼女の歌声を聞いたことがない。
歌っていなかったわけではないのだろうが、彼女の歌声は周りの声にかき消されずに届くほど大きなものではなかった。
普段から歌を口遊むようなこともなかったから、私が彼女の歌声を聞くのはほとんど初めてかもしれなかった。
さっきまで眠ろうと瞑られた私の眼は、いつの間にか彼女の鼻歌に集中するために閉じられていた。
何のメロディだっけ。
どこかで聞き覚えのあるそれは、不思議と懐かしい心地がして耳馴染みがいい。
――星に願いを。
私はその曲の名前を思い出す。
父が、私の幼い頃によく枕もとで歌ってくれた曲だ。
「その曲」
私は口先で呟く。
「うん」と彼女は歌うのをやめて言った。「星に願いを、だよ。わかる?」
「もちろん。お父さんが、昔寝る前に歌ってくれた」
「そうなんだ。私も、母さんがよく歌ってくれたんだ」
口遊ぶメロディに合わせて、彼女の掌が私の額をとんとんと優しくたたく。
そのリズムに合わせて、私の眠気がゆっくりと私の中に沈み込む。
「朱里、歌上手かったんだ」
独り言のように言うと、朱里は一瞬その手を止めてから答えた。
「そうかな。あんまり言われたことないから、わかんない。……でもありがと」
言われたことないのは、まず人前で歌ったことがないからでしょと思ったけれど、それをわざわざ口に出すようなことはしない。
そこで私は、いや、と思い直す。
朱里は中学生の時、友達とカラオケなんかに行ったことがあるのではないか。
私も、付き合いで何度か行ったことがあるし、彼女もそういうことを経験していてもおかしくない。
――いやいや、と私は首を振る。
そんなこと、別にいま聞くべきことでもない。
それに、彼女が中学の友達とカラオケに行っていたとしたって何だと言うのだ。
それくらい、普通の中学生なら普通のことだ。
ぼんやりとした頭で、代わりに私は彼女に尋ねる。
「朱里は、星に何を願うの」
彼女のは口遊むのをやめたが、その手はまだとんとんと動かされている。
安心する手つきだ。彼女はずるい。
そうやって私を絆そうとしているなら、その試みは恐らく正解だろう。
「願うもなにも、もう叶ったよ」
「……そっか。もう、願うことはないの?」
「強いて言うなら現状維持かな」
その言葉に、私は少し笑う。暗闇の中じゃ、朱里にはわからない程度に。
「寡欲だね」
「そんなことないよ。同じ場所に留まるためには、力の限り走らなきゃいけないんだよ」
「なに、それ」
「現状維持も大変ってこと」
「……よくわかんない」
朦朧とした頭は、物事を考えるのを拒否している。
朱里は一通り話して満足したのか、「もう寝よっか」と言って立ち上がった。
ベッドのスプリングが少し軋む音がして、朱里がベッドに戻ったのだとわかった。
昔も、朱里の家にお泊りしたときにこんなことがあったよな、と思う。
その記憶は朧げで曖昧な部分も多いけれど、確か彼女はあの時私の布団をめくって侵入してきた。
今日は、そういうことはしないんだな。
それが寂しいとか悲しいとか、そういうわけじゃ全然ないんだけど、ただなんとなく胸の右側がきゅっと疼いた。
少し上の方から、「アキも、結局話しちゃったね」という声が聞こえてくる。
私はその声には答えない。認めてしまうのは、彼女の策略に引っかかったようで癪だった。
その代わりに、私は彼女に向けて呟く。
「おやすみ」
朱里も、そして呟く。
「おやすみ。また明日ね」
彼女の声は、静謐さを湛えた夜の闇の中にゆっくりと消えていった。
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