第34話 今は答えられなくてもいいよ

 二階にある、朱里の部屋に上がる。


 朱里が部屋の扉を開ける。


 それと同時に懐かしい記憶が蘇る。


 この部屋でお菓子を食べたり、宿題をしたり、じゃれあったりしていた。


 どうやら、中学生の間に模様替えをするようなことはなかったらしい。


 あの頃と変わったところといえば、本棚が一つ増えたところくらいだろうか。


 私は「変わんないね」と言って鞄を置き、私は床に転がっていたクッションを手に取ってその上に座る。


「言われてみれば」彼女はベッドに腰かける。「模様替えでもすればよかったかもね」

「いいよ、しなくて」


 彼女の中に、変わらない部分があることに安心する。


「ん-、疲れた」


 朱里は両手を空に伸ばして、大きく伸びをする。

 そして後ろに手をつく。


「実里ちゃん、いつから反抗期なの?」

「うーん、結構最近」

「きっかけは?」

「わかんない。気づいたらああなってた」

 彼女はぽりぽりとこめかみのあたりを掻く。

「まあ反抗期って言っても、別に反抗的ってわけじゃないよ。むしろ今までがガキっぽ過ぎたって言うかさ」


 私はガキっぽいとは思っていなかったけれど、今の実里ちゃんを見るとそう形容するのも仕方ないかなと思えてくる。


「一瞬誰かわかんなかったよ。大きくなっててさ。私の中の実里ちゃんて、まだ小学生のままなんだよね」


 実は朱里と話しているときも、なんだかあの頃と地続きの朱里だと感じられないようなときがある。


 頭ではわかっている。


 だけど時折、別人であるかのような仕草や表情を見せるから、私はなんだか、朱里の記憶を引き継いだ誰かと話しているような感覚に陥ってしまう。


 もちろん、そんなこと彼女には言えないけれど。


「確かにね。今私より大きいからね」

「え、ほんと? 実里ちゃん、何センチ?」

「百六十ちょっとくらいだったかな。たぶん」

「うわー。じゃあ、私よりも高いじゃん」


 私が百六十弱くらいで、朱里がたぶん百五十五くらいだと思うから、実里ちゃんが私たちの中では一番高いことになる。


「あの頃の実里ちゃんはもういないんだね……」

「まあ、今のあいつもかわいいとこあるよ。あいつが急に大人びたのってさ、ほとんど私のせいみたいなものだから」

「そーなんだ」


 どんなことがあったのかは、わざわざ聞かない。


 私は立ち上がって、部屋の中を歩く。


 本棚の前で立ち止まる。


 昔の彼女の本棚には、漫画や児童文庫のものが多かったはずだけれど、今は一般文芸の書籍が多く並んでいる。


 昔からの本を読む習慣はかわっていないんだな。


「中学校の時も、結構本読んでたの?」


 私が彼女に尋ねると、彼女も立ち上がって私の傍に座る。


「そうだね。……結構読んでた。アキに言うことじゃないけどさ、人と話すの頑張ってたんだ、私。でもやっぱりそういうの苦手だからさ。家帰って本読んでるときが一番落ち着いた」


「今でも、人と話すの、苦手?」


 彼女は少し笑いながら頷く。


「苦手だよ。話し方のコツっていうのかな。それが少しわかったってくらいでさ。別に得意とか好きとかいうわけじゃないんだ」

「でもさ、朱里。結構クラスに友達多いでしょ」


 私は知っている。彼女が私の知らない人と歩いていることろを何度か見た。


 この前トイレでだって、私の知らない人と一緒にいた。


 私は今じゃ友達が少ない方なのに。


 昔の関係性が逆転してしまったみたいだ。


「や……、まあね。私、高校ではそこまで明るく振舞うつもりなかったんだけど。髪色のせいかな。みんな話しかけてくれて。私もなんか、癖、みたいになっちゃってて」

「それで告白とかもされちゃって?」


 私のいじわるに、朱里は渋い顔をして「やめてよ」と言った。


 うそうそ。ごめんって。


 そう言って私はごまかす。


「それで、どんな本読んでたの?」

「んー」


 朱里は指先で本の背表紙をなぞっていく。

 時折、背表紙の頭を半分引き出しながら、「うーん」と唸っている。


「こんなのとか」

「これ、わかる?」

「読んだことないけど、名前くらいは知ってる。有名だよね」

「うん。おもしろいよ。地の分がさ、好きなんだ。読んでみてよ、貸すから」

「わかった。ありがと」

「あとは、これとかも」


 朱里はそう言いながら、続けて何冊か本を私に渡した。


 最初は何を選ぶか逡巡していた彼女も、一冊紹介したらのってきたようだった。


 少しして一階からゆずさんの声が聞こえてくる。


 夕飯の支度ができたようだったので、私たちは二人で一階に降りた。

 

 

 


 

 夕飯を食べ終わって、朱里がお風呂に行ってしまったから、私は朱里の部屋で一人になってしまった。


 あの頃は知らなかったことのいろいろを今は知ってしまっているから、他人の部屋で一人きりということに妙な後ろめたさがある。


 彼女にはベッドの上でごろごろしてていいよとは言われたけれど、普段彼女が寝起きしている場所に居座るのは躊躇われた。


 だから私は結局、クッションの上に座りベッドに上体をのせてスマホを眺めるという形に落ち着いた。


 適当に動画を見ようとするけど、すぐに飽きてしまう。


 ばたん、とベッドに顔を埋める。


 ……朱里の匂いがする。


 その匂いと首許に広がるの温もりが心地よくて、私はだんだんと眠くなる。


 脳が靄がかかったように重くなってきた。


 朱里が帰ってくるまで少し眠ってしまおうかと思い始めたところで、がちゃと部屋の扉が開く音が聞こえた。


 私はゆっくりと顔をあげてその方向を見る。


「あれ、アキちゃん、もしかして寝てた?」


 扉から現れたのは実里ちゃんだった。


「いや……。寝てないよ」

「そっか。暇だからおしゃべりに来ちゃった」


 そう言って実里ちゃんはベッドに腰かける。


「私も寝そうだったからちょうどいいや」私は顔だけあげたまま言った。「なんかさ、大人になったね。実里ちゃん」

「まあねー。もう中学生だからさ」実里ちゃんは少し自慢げに返す。「アキちゃんは、なんか、落ち着いた?」

「私も、もう高校生だからさ」

 私がおどけて言うと、実里ちゃんは「うわ。大人の余裕だね」と言った。


 そして大げさに後ろにのけぞる。


 実里ちゃんはそうやって笑いながら、だけどもどこか真面目な表情を顔に浮かべながら、続けて言った。


「ねえアキちゃん」

「ん?」


 その声色に私も思わず体を起こして床に座る。


「お姉ちゃんがアキちゃんにもう会わないって言った時のこと、教えてほしい」

「それは……」と、私は口ごもる。「難しいこと聞くね」


 朱里がどれだけのことを実里ちゃんに話しているのかはわからない。

 教えてと言われて素直になんでも話せるような、簡単な出来事ではなかったし。


「でもさ、私にしか話せないこともあるんと思うんだよ。おねーちゃんにも言えないし、友達にも言いにくいような話」

「……まあ、そりゃないこともないけど」

「でしょ。ねえ、話してよ」


 実里ちゃんは膝に腕をのせて、私のほうに体を傾けている。


「いや、でも恥ずいし」

「いいじゃん、私とアキちゃんとの仲じゃん」


 実里ちゃんはそう言って、足をバタバタさせる。

 私は少し考える。


「じゃあ、言ってもいいけど。一つだけ条件があります」


 私は右の人差し指を立てる。


「え、なに?」実里ちゃんは首を傾げた。


 その仕草は朱里がそうするときのそれに似ていて、少しおかしかった。


「私も朱里のその時の事知りたいから、実里ちゃんの言える範囲でいいから教えてよ。私も朱里に言えないことがある分、朱里も私に言えないことがあるだろうから」

「えー、うーん。まあ、いいよ」

「じゃあ」と言って私は、実里ちゃんに何を訊きたいかと問うた。


「ねえ、お姉ちゃんと、どうやって仲直りしたの?」


「それは普通に、朱里が仲直りしたいって言ってきたから」

「それで、いいよって言ったの?」

「まあ、そうだけど」

「……そうなんだ。アキちゃんがいいならいいんだけど。私てっきり、アキちゃんおねーちゃんのこと許さないんじゃないかって思ってた」

「なんで?」

 「だってさ、おねーちゃんがしたのは言っちゃえば絶交だよ。一生許されなくても仕方ないことだと私は思うんだけど」


 その、存外に強い言葉に私は少したじろぐ。


 そうなのかな。


 わからない。


 今の私と彼女との関係。

 それに対してどういう感情を抱けばいいのか、判断できない。

 

 もしかしたら、正常な感覚ではないのかもしれない。


「そう、かな」

「やー、わかんない。でも私が友達に同じことされたら、許せるかわかんないから。少なくとも、めちゃくちゃ怒ると思うし」


 そういうもんかな。


 確かに、彼女に怒りをぶつけるべきかと思ったこともある。

 

 でも結局なぜかそうする気にはなれなくて、私はなあなあに流してしまった。


 私が何も返せずにいると、実里ちゃんは、「まあ、いいや」と言った。


「気にしないでよ。ちょっと不思議に思ったってだけだから」


 うん、ととりあえず私は小さく頷く。


 少しきまりが悪くて、なんとなく居住まいを正す。


 実里ちゃんは、はい、と手を叩いて、「じゃあ、次はアキちゃんの番」と言った。


「何が聞きたい?」

「うーん」と、少し考える。


 さっきの実里ちゃんの話を聞いてから、なんとなく朱里の話を聞きづらい。


 それに、踏み込んだ話をするのは、こそこそ内緒話をしているようで躊躇われる。


「朱里が家でどうだったのか気になる」


 私が無難な質問をすると、実里ちゃんはなるほどね、と言うように顎に手を当てて考え始めた。


「おねーちゃんは、家ではあんまり変わってないよ。学校でのことは、私はよく知らないけどさ。運動会とかで見たら、結構明るめの人たちと一緒にいたから、初めはびっくりしたな。部屋で友達と電話してる声とかたまに聞こえててさ。そういうので、学校ではこういう感じなんだなって、間接的に知ったんだよ」


「確かに、実里ちゃんとかゆずさんとかと話す感じは変わってないね」


「うん。……でもたぶんおねーちゃんさ、家にいる時しか、素の自分でいる時なかったんだと思う。時々、疲れたような遠い目するし。アキちゃんと話すときはどう?」


「私と話すときは……わかんない。学校では、明るいけど。なんか別人みたいに感じる時もあれば、私の知ってる朱里だなって思う時もある。でもなんか、別人みたいに感じる時は、ちょっと不安って言うか。寂しくなるよ。たまにだけどね」


「……そっか」

「実里ちゃんはどうだったの? ほら、朱里が私と会わなくなってからさ」

「私はねー」実里ちゃんは少し笑いながら言う。「めっちゃ怒ったよ」

「怒った?」


 それは、私にとっては少し意外だ。


 実里ちゃんの持つ天真爛漫なイメージと、怒ったという発言は上手く重ならない。


 さっきもしもの話をしたけれど、それは仮定の話だからだと思っていた。


「うん。考えてみてよ。今まで普通に遊んでた人と、急に遊べなくなるって意味わかんないじゃん!」


 ――それは私が言うべき言いたい台詞なのだけれど。


 でも確かに、私は朱里と遊べなくなったら自然と実里ちゃんとも遊べなくなるのものだと考えていたけれど、実里ちゃんにとっては突然のことでびっくりしただろう。


「おねーちゃんが、何の説明もなしにアキちゃんとは遊ばないって言いだしてさ、私はなんで! って怒ったんだけど。一か月ぐらいはずっとごねてたんじゃないかな」

「そっか。ごめんね」

「ううん」実里ちゃんはぶんぶんとかぶりをふる。「全部おねーちゃんが悪いんだからさ」

「まあまあ、朱里も、いろいろあったんだよ」


 私は苦笑しながら実里ちゃんを宥める。


 事実、いろいろあったんだと思う。


 まだそこまで話せたわけじゃないから、そのいろいろを詳しくは知らないけれど。


 すると不意に、実里ちゃんが大人びた表情をする。


「アキちゃんはさ」

「ん?」

「なんでそんなにお姉ちゃんに優しいの?」


 私は、なんのこと? と首を傾げる。


「別に、優しいとか、そういうことじゃないでしょ」

「でもさ、アキちゃん。さっきも言ったけど、おねーちゃんは一生許されなくてもしょうがないくらいのことをしたんだよ」


 突然、なんだ。

 私は押し黙る。


「だっておねーちゃん、何も言わずに突然縁切るみたいなことして、それでいて三年後に普通にまた再会して仲良くなろうって。普通に考えたら虫が良すぎるよ」

「そんなこと……」


 私はせめてもの抵抗を口にしようとするけれど、実里ちゃんの言葉にそれは遮られてしまった。


「あるよ。ねえ、なんでそんなにお姉ちゃんに優しくするの?」


 私は結局その質問に、黙ったままでいることしかできなかった。


 その質問に対する答えを私は持っていない。


 友達だから。


 そう言ったところで実里ちゃんが納得しないであろうことはわかる。


 別に、私は朱里に特別優しくしているつもりはない。


 でも、実里ちゃんの言葉に反駁できるほどに確固たる思いを、私は自分の中の見つけられない。


 だって結局、それが朱里だったから。その理由に私の彼女に対する行動は帰結してしまう。


 黙っている私に、実里ちゃんはふっと肩を落として困ったように笑った。


「実はさ、それが聞きたくて来たんだ。ま、今は答えられなくてもいいよ。でもいつか教えてね」


 その言葉に私は少し安堵する。

 追及されなくてよかった。


「……うん」

「じゃあ、そろそろおねーちゃん帰ってくると思うから、私は戻るね。おやすみ」


 そう言い残して実里ちゃんは立ち上がる。


「おやすみ、実里ちゃん。久しぶりに話せてよかった」

「私もだよ」


 実里ちゃんは部屋の扉を開いて、部屋を出ていく。


 かと思いきや、廊下の左側を見て呟いた。


「……お姉ちゃん。あがってたんだ」

「……ごめん。盗み聞きするつもりは、なかったんだけど」


 廊下から、か細い声が聞こえた。


「うん、ごめん。入りづらい話しちゃって」


 実里ちゃんはそう言って、隣の部屋へ帰っていった。

 そうして私の前には、気まずそうな顔をして突っ立っている朱里だけが残った。


「……とりあえず、座ったら?」


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