第33話 三上家

「え?」


 私は気づけば、自分でも驚くくらい素っ頓狂な声をあげていた。


 いきなり家泊まりに来ない? はいろいろな過程をすっ飛ばしているような気がす

る。


 そこは普通言うとしても、遊びに家来ない? くらいのものだと思うのだけれど。


「まじ?」

「うん」


 彼女は、当然でしょ、と言うように頷く。


 ……別に、嫌と言うわけではない。


 だけどいきなり彼女の家に行くには、まだ心の準備ができていない。


「や、でもさ、ゆずさんの許可とか、いるでしょ」

「大丈夫。もう言ってるから」


 朱里はそう言って、私にスマホの画面を見せた。


 ゆずさんとのトーク画面には

「今日アキ泊めることになるかもしれないけど、いい?」

「いいよ」

 とのメッセージの表示。


 何とも用意周到なことだ。


 こうなってしまったら、私は断るに足る言葉を持たない。


「わかった」と私は言った。「お邪魔しようかな」


 私の言葉に、朱里はやった、と胸の前で小さくガッツポーズをした。


「じゃあ、行こ」


 朱里は歩きだす。


 私もそれについていこうと歩き出す。


 だけど気のせいだろうか、朱里は若干早歩きな気がする。


 私の知っているペースで歩こうとすると、いつの間にか少しずつ彼女と離れていってしまう。


「朱里」私は言って、彼女の制服の袖を摘まむ。「ちょっと、歩くの早い」

「ああ、ごめん」


 彼女は歩く速度を緩める。


 彼女の歩幅が私にちょうど良いものになって、私は少し安堵する。


 私の知らない彼女が少しでも顔を出そうとすると不安になるから。


 早い歩幅、知らない笑い方、隣のクラスの人と歩く姿。


 ここ最近でも、昔の彼女だったら考えられないような姿が何度かあった。


 たぶんまだ、私の脳には昔の彼女の面影がこびりついていて、だからあの頃との印象のずれに、私がまだ馴染めてないだけなのだと思う。


 ――こうやって、少しずつ彼女との時間を積み重ねていけば、大丈夫なんだと思う。


 昔みたいにまた、戻れるのだと思う。


 彼女と歩きながら、私は考えていた。


 彼女の隣を再び歩けているという、その事実について。


「朱里」私は前から思っていたことを口に出す。「スマホ、出して」


 少し怪訝そうな顔をしながらも、朱里はポケットからスマホを取り出す。


「なに?」

「私たち、まずやるべきことがあると思うんだよ」


 私が言うと、彼女は首を傾げた。


「なんのこと?」

「わかんない?」

「うーん」彼女はその小さな顎に手を当てて、数秒して「あ」と呟く。

「もしかして、連絡先?」

「そう。私たち、まだ交換してないよね」

「確かにね」


 彼女はスマホのメッセージアプリを開いて、QRコードを私に見せた。


 私がそれを読み取ると、画面上に彼女の名前とアイコンが表示される。


 何かメッセージを送ろうかと逡巡して、「よろしく」とだけ送る。


 彼女からはシマエナガのスタンプが返ってきた。


「好きなの、シマエナガ」

「うん。妹が買ってくれた」

「相変わらず、仲いいんだね」 


 あの公園から、彼女の家は程近い。


 昔はもっと遠かったような気がしていたのだけれど、着いてみれば彼女の家はあの公園から五分程度の場所にあった。


 彼女の家の周辺には、小学校卒業以来来ていなかった。


 この近くには立ち寄らないように、私は意図して避けていた。


 だけど近くまで来てみれば、当時の記憶が鮮明に蘇ってきた。


「もうすぐ着くね」


 私は彼女に言う。


「覚えてるんだ。忘れてるかと思ってた」

「私もそう思ってたんだけどね」


 玄関の前まで来て、朱里がポケットから鍵を取り出す。


 玄関を開ける。


 一番最初に、私の中に入ってきたのはその懐かしい匂いだった。


 おばあちゃん家みたいなあたたかで柔らかな空気。


 玄関は橙色の照明に照らされていて、壁には北欧調の赤いヴィンテージタペストリーが掛けられている。


 角にはハート型の大きな葉をつけた観葉植物が置かれていて、それは草編みの鉢に入れられている。


「ただいま」


 朱里が玄関の扉を開けて、リビングに入る。

 リビングの先、キッチンにはゆずさんの姿が見える。


「おかえりー」と言って、ゆずさんが振り返る。

「アキちゃん」ゆずさんがゆっくりと歩いてきながら言う。「久しぶりだね」


 そう言って、ゆずさんは大きく腕を開く。


「そうですね」私もゆずさんに近づいて、彼女の目を見る。「本当に、久しぶりです」


 想像の中のゆずさんは元気なお母さんって印象だったけれど、三年ぶりに会ってみると、元気というよりも穏やかという印象の方が先行した。


 私はゆずさんと軽くハグをする。


 ああ、この家の匂いは、ゆずさんの匂いだったんだな、と思った。


「朱里と、また仲良くしてくれて、ありがとね。……そのことは、私としても一度謝っておきたいと思っていたんだよ」


 ゆずさんは私に頭を下げた。


「やめてください。もう解決した話なんですから」


 ゆずさんはゆっくりと顔をあげる。


「……そうなんだ」朱里を見ながら、ゆずさんは言う。「じゃあ、朱里は上手くやれたみたいだね」

「全然だよ。アキが優しかっただけ」


 優しかった? 

 一応、怒ったというか、それに近しいようなことは言ったはずなのだけれど。


「そっか。ありがとね、アキちゃん」


 私は首を振る。


「ま、とにかく。今日はようこそ。ゆっくりしていってね」

「はい。ありがとうございます」


 そこでガチャっという音がして、脱衣所の扉が開かれた。


 反射的に私はその方を向く。


「おねーちゃん。蓋閉めてないからねー」


 そこから中学生くらいの少女が、髪をタオルで拭きながら現れる。


「あれ……。もしかして、アキちゃん?」


 その少女が、珍しいものを見た、というように目を見開いて言う。



 その顔貌やその声と雰囲気に覚えがあった。


 私の記憶にあったものよりは少し離れているけれど、この子が実里ちゃんであることに間違いはない。


「実里ちゃん?」

「そうだよー。久しぶり。……ってことは、おねーちゃんと仲直りしたんだね」

「仲直りって。別に喧嘩してたわけじゃないんだけどね」

「何でもいいけどさ。とりあえず、おめでとう、かな。アキちゃん」

「うん。ありがと」


 私がそう言うと実里ちゃんは小さく肩を竦めて、朱里の方を向いて言った。


「おねーちゃんさ、ちゃんとアキちゃんに謝ったの?」


 実里ちゃんは、腰に手を当てながら言う。


 この様子だと、実里ちゃんは私たちの事情をある程度知っているようだ。


「謝ったよ」

「ならいいけどさ。もう喧嘩とかしないでよね。おねーちゃん、ただでさえめんどくさいタイプなんだから」

「うるさい。てか、アキ来てるし、お風呂後で入るから、蓋閉めてきてよ」

「えー、めんどくさいなあ」


 と言いつつも、実里ちゃんは不承不承といった感じで脱衣所へ戻っていく。


 でも正直、そんなことよりも。

 私は朱里に尋ねたいことがあった。


「あのさ、朱里。実里ちゃん」

「うん。言いたいことは、なんとなくわかる」

「だよね。何か……。随分変わったね」

「ごめんね。……まあ、難しい年ごろだしさ」


 朱里はそう言いなら苦笑した。

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